|
坪井智哉選手が4日、札幌市内の球団事務所で記者会見し、 国内他球団を最優先に現役続行を目指すことを表明しました。 コーチ就任の打診を受けましたが、固持し、 ボロボロになるまでプレーヤーでいたいとの強い意思で 新天地を模索することになりました。 12球団合同トライアウトには参加しない予定で、 当面は国内他球団のオファーを待つ構えのようです。 その望みが断たれ場合を想定して、 米球界も含めた広い選択肢を持ったようです。 まずは8年間在籍した、日本ハムでの選手生活に区切りをつけ、 いずれは好きな北海道に戻ってきたいとのことでした。 ―退団するまでの心境は。 「今シーズンはけがや不調もあってファーム生活が長かったですが、後半に入ってけがもなおりそこそこ打っていた状況でも一軍に呼ばれなかったので、そろそろかなと思って家族にも話はしていました。コーチとして力を貸してほしいと言われたときには驚いたのと、うれしかったのと半々でしたね」 ―コーチ就任を固辞した要因は。 「コーチになるイメージはしましたが、即『ないな』と。若輩者が若手に教えるイメージが沸かなかったし、けがが治ってまだやれるという思いがありました」 ―現役選手にこだわった理由は。 「プレーヤーとして野球が好きだという思いだけですね。ボロボロになるまでプレーヤーでいたいと」 ―親交のあるイチロー(マリナーズ)にも相談? 「故障が治って、野球のできる体になったんだから続けていいんでないと言われました」 ―今後については。 「国内で野球ができればうれしい。この立場でメジャーというのも何ですし、マイナーでも独立リーグでもアメリカの環境で野球をしたいという思いはあります。国内でなければ、アメリカでも僕の気持ちを察してくれるところがあればと思います」 ―ファイターズでの思い出は。 「4年前に戦力外通告を受けたあとに再契約していただいて、そこで打った最初のヒットですね」 ―最後にファンの皆さんへのメッセジーは。 「4年前にいろんな声援をいただいて、本当に力になりました。最近まで札幌ドームで野球をやっていたわけですが代打で出るときの大歓声、あれは一生忘れない経験だなと思っています。これからどの道に進むかわかりませんが野球人として見届けていただけたらと思います。今までありがとうございました」 道新スポーツより(端をクリックで大きくなります) ◎坪井 智哉の履歴書 実父はかつて中日ドラゴンズなどの選手だった坪井新三郎。 幼少期は愛知県名古屋市で過ごす。 PL学園から青山学院大学を卒業後、東芝に入社後、 1997年のドラフト会議で阪神タイガースに入団。 1998年に打率.327でセントラル・リーグ新人最高打率を記録。 最優秀新人の座こそ、 元中日・川上憲伸(14勝6敗 防御率2.57)に譲ったが、 その年同じく新人として活躍した高橋由伸(読売)や 小林幹英(広島)とともに連盟の特別表彰 2002年シーズン終了後、 野口寿浩との交換トレードにより日本ハムに移籍。 翌2003年、自己最高の打率.330を記録。 史上初めて両リーグ1年目で3割を越す打率を残した。 2006年はオープン戦で故障、 シーズン中も守備中に右肩を負傷し登録抹消された。 プロ入り後最低の成績に終わり、 シーズン終了後にトレード要員通告を受け、 トレードがまとまらずに戦力外通告となった。 12球団合同トライアウトを2度受けたが契約に至らず、 大幅減俸のうえ異例の日本ハムとの再契約となった。 2009年は左の代打の切り札として リーグ最多の55回代打起用され、代打打率.306。 2010年は3月22日に通算1000試合出場を達成するも 肉離れや坐骨神経痛などで出場数が激減、 その後1軍に昇格するも成績を残せなかったために、 10月2日に球団は引退し、コーチ就任を要請したが、 本人は現役続行を望んだため、退団が決まった 以上、坪井 智哉ファイターズ物語は終わりです。 今後の新天地での活躍を、祈ります。 そしていずれは北海道へ戻ってきてほしいと思います。
日本ブログ村ランキングに参加しています。 (クリックをして頂いてありがとうございました。)
|
ファイターズ2010
[ リスト ]





