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小山富士夫先生はその著<支那青磁史稿>の序文で
『かつて中国にも脈々たる建設の時代があった。純烈雄渾な若若しい精神が全社会にみなぎり、その激しい精神が器皿の端々にまで現れずにいなかった時代がある。私は漢代の金石、書画、古陶器類をながめる時いつもこの感を深くする。爾来中国の社会はその基礎が堅牢となり、機構が複雑となり、やがて爛熟した老大国となったが、私は中国の歴史社会を通じて見逃すことの出来ない一つの特徴は、その民族のもつ深い思索性と徹底性だと思う。もし中国人がこの二つの性格を欠いていたら、中国はあれだけの大国となり、あの長い歴史を持続することは出来なかったのではなかろうか。そして中国民族のもつこの二つの性向を最もよく具象化したものの一つであり、この二つの民族性によって始めて生まれたものの一つは中国の青磁だと思う。』
と、中国人の思索性と徹底性について述べています。文明には興亡があり、永遠に継続する文明などありえません。中国文明もまた勃興期があり、爛熟期があり、衰退期があるわけですが、深い思索性と徹底性抜きには文明の興隆などありえません。
この中国文明の興隆期における焼き物分野における思索性と徹底性を明かにするには、過去に古人が辿った徹底した思索の道を再度辿ってみるしかありません。
何しろ思索はタダですし、自由に時と空間の壁を超えることが出来るので便利です。しかも、モノが無くても可能な点が最大の長所です。沢山の陶磁器に取り巻かれているとどうしてもモノ中心に陶磁器を見てしまうでしょう。何も持たなければ、それだけモノから離れて自由に思索する事が出来ます。思索の索には<さぐる>という意味と<つな、ロープ>という意味があります。思索の結果として陶磁器があるならば、原初の思索からロープをたぐり寄せていけば技術思想は自ずと姿を現します。膨大な種類の陶磁器も見えざるロープで繋がっているもので、個別の技術が独立して存在しているわけではありません。
古の陶工はある意味単純だが複雑な一貫した技術体系を身に付けていたのです。陶磁器を美術的価値の側面から見ていくと、古の陶工の美意識は理解出来ても思索の道は見えてきません。近代窯業の技術でピンポイント的に過去の製品を模倣しようとしても、やはり思索の道は見えて来ないのです。自然の中から生まれた東洋の陶磁器は、過去と現在の東洋の自然を基礎として、自然の中で探る以外に無いのです。
秋の空を見上げる事は誰にでも出来、自然に接する事も誰にでも出来ます。文明の端緒とは自然の中で空を見上げるという単純な行動にあるのかも知れないと、小山富士夫先生の慧眼に新ためて想いをめぐらせています。
(注)この記事は『焼き物雑記の昼寝部屋』でアップしたものです。
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