ここから本文です

書庫全体表示

忘れ得ぬ人


異変に気付いたのは、久しぶりの出張の帰り、すでに北海道の早い夕暮れが始まる頃だった。

フォグランプが点かない。
借りた時から整備不良気味だったレンタカーの交換を申し出なかった自分の見通しの甘さに舌打ちしつつ、宙太はチラリとダッシュボードの文字盤にタレ目を走らせた。

午前中の豪雨のせいか、道路には乳を流したような霧が立ち込め、行く手を遮る。
空港までの道のりはほとんど一本道とはいえ、5メートル先も見えないような霧の立ち込める中、地元民でもない自分が無灯火で運転するのはどう考えても無謀というものだろう。
釧路空港発の東京行き最終便は20時。
「彼女」が不在の今、保育園のお迎えは春ちゃんに頼んではあるけれど……子供たちのためにも、夜までには自宅に帰りたい。
となると、なんとか近くの民家までいって、修理を呼ぶしかないだろう。

「近く、かあ……。」
カーナビの画面に映し出された候補地を見つめ、宙太は小さく、ため息をついた。


なんとか目的地まで辿り着き、ペンションの呼び鈴を押すと、あらわれた女性は、少し息を呑んだ。

「……美空君?」
懐かしい声が、ささやくように自分の名前を呼ぶ。
立ち尽くす小百合は、以前と変わりなく、いや、それ以上に美しく見えた。
「久しぶり。ワリイ、実はランプが故障しちゃってさ、修理を呼んでくれないかな。」
乗ってきたレンタカーを指さすと、呆然と佇んでいた小百合、我に返ったようにフロントの受話器を取り上げた。
「そ、そうね。今、電話するから、とりあえず、中に入って。冷えたでしょう?」
礼をいってソファで待っていると、電話を終えた小百合がコーヒーを運んできてくれた。
「業者に電話をしてみたわ。でもこの霧でいつこちらに来られるかわからないんですって。」
「そうか……。ありがとう。小百合さんは、今は?」
「ええ。今は……公一くんと二人で。」
言ってから、小百合はそっと唇を咬んだ。
「待っているつもりだったの、あの人のこと。そのつもりで私、公ちゃんと養子縁組して。でも……。」
小百合の声が、一瞬、震えた。
「私にこれ以上……迷惑はかけられないって。」
「そうか……。」
「ごめんなさい。……せっかく、美空君が助けてくれたのに。」
小百合、そっと目を伏せた。
「いや、いいんだよ。」
どんなに愛し合っていても、どんなに固い絆で結ばれていても、側にいられないこともある……。
そんなことは、誰よりも自分自身が身に染みて分かっているのだから。

「美空君は?星子さんはお元気?」
気を取り直すように彼女が微笑む。
「……あ、ああ。……うん、」
元気だよ。そういうつもりだった。
いやぁ、カノジョ、ゲンキすぎて困っちゃうんだよな、シシシッ。それで、双子も生まれてね、星丸と宙美っていうんだけど、それがとっても可愛くてさ……。

プライベートを聞きたがる相手には、こちらからノロケと親バカぶりを披露すれば大抵それ以上突っ込まずに退散してくれる。
今までも、ずっとそうやって乗り切ってきた。
今回もそのつもりだったのに。
「…………っ」
口にしようとした途端、不意に彼女の記憶が脳裏に溢れ出す。

そうだった、あの時も君はカレのために清里の教会から姿を消したんだっけ。
だけど君は結局ここまで僕を追いかけてきてくれて、あんな無茶をして……。
言葉を詰まらせた宙太に、小百合があわてたように声を掛けた。
「ごめんなさい。立ち入ったことを聞くつもりはなかったの。とりあえず、2階の部屋が空いてるから、よければそこで休んでいて。業者がきたら連絡するわ。」
「……そうだね、ありがとう。」
立ち上がりかけた時、玄関の扉が勢いよく開いた。
「ママ、ただいまー!…あ!チュータじゃん!元気?」
「こらっ!宙太さん、お元気ですか?でしょ!」
途端に母親の顔になって公一を叱りつける小百合に、思わず笑みを誘われる。
「ほら!ちゃんとご挨拶なさい。」
「はーい。……こんにちは、宙太さん。」
「久しぶり。元気だったかい?」
「うん!」
「うんじゃなくて、はい、でしょ?公ちゃん。」
「はーい!」
「まったくもう……。うちは接客業だし、厳しく躾けているつもりなんだけど。ごめんなさいね」
「いや、そんな……僕のこと覚えててくれたんだろ?うれしいよ。」
抱き上げ、肩車をしてやると、公一くん、楽しそうに声をあげた。
「うわあ、高ーい!」
はしゃぐ公一くんの様子に、少し胸が痛くなる。
星丸や宙美に、最後にこんなことをしてやったのはいつだっただろう?
いつもいつも、時間に追われて急がせるばかりで、遊んでやる時間もない……。
「さ、公ちゃん、美空さんをお部屋にご案内してあげて」
「うん!こっちだよ!」
手を引かれて階段をのぼりながら、宙太、そっと唇を噛んだ。


客室は、以前と同じように柔らかな木の香りがした。
公一くんも、もうあんなに大きくなったんだな……。
抱き上げた時のずっしりとした重さに、流れた月日を感じてしまう。
僕がちゃんと星子さんを引きとめておくことができたなら、彼女もいつかあんな「お母さん」になっていただろうか。
叶わぬ幻影と、子供たちへの想いに胸が締め付けられる。
春ちゃんもゲンジロウも、本当によくしてくれている。それなのに、さみしい思いをさせている子供たちに、彼女のような母のぬくもりを与えてやりたい。
そう思ってしまうのは……いけないことだろうか、星子さん……。
いつから僕は、こんなに薄情になったんだろう?
後ろめたさにため息をついた時、階下から柔らかなピアノの音色が聞こえてきた。

甘く澄んだ、懐かしいメロディに心が奪われる。
ああ、この曲は……。
宙太、たまらなくなってギュッと目をつむった。
遠い昔、再会を願って吹き続けたあのメロディー。
そのメロディーを、彼女もまた、ずっと胸に抱いて生きてきたのだろうか。
だけど……。
見上げだ夜空は未だ深い霧に遮られていて、星空は見えなかった。


修理が終わる頃には、霧はすっかり晴れていた。

「今日はありがとう。」
宙太が声をかけると、小百合はそっと微笑んだ。
「私こそ……今日、会えてよかった。じつは来月、ここを畳んで街へ出ることになってるの。」
「えっ……?そうだったのか。」
「ええ、公一君もその方が学校に通いやすいし。」
「そうか……。仕事は?決まっているのかい?」
宙太が尋ねると、小百合、ためらうように小さく首を振った。
「いろいろ、探してはいるのだけれど。」
「そうか……。あのさ、小百合さん。」
「え?」
「いや、……なんでもないんだ。」
宙太、微笑んだ。
「釧路駅の駅前のホテルにちょっとした知り合いがいるんだ。もし、良かったら訪ねてみてくれないか?」
そういうと、彼女は少しだけ目を伏せ、それから柔らかく微笑んだ。
「ありがとう、美空君。どうか、元気で」

……これで良かったんだよな。
夜道を走りながら、宙太はダッシュボードの上の竹笛に視線を走らせた。
別れぎわ、小百合に言おうとして……言えなかった言葉。

一緒に、東京にきてくれないかい?

けれど、彼女には分かっていただろう。
自分が決して、その言葉を口にしないことを。
そして彼女もきっと、そんな言葉を欲してはいなかっただろう。

僕の忘れ得ぬ人が星子さんであるように、彼女の忘れ得ぬ人も、きっと僕ではない……。

いつの間にか満点の星空の向こうに、空港の灯りが見えて来ていた。

さあ帰ろう。
僕を待ってくれている人たちのいるところへ。

君の忘れ得ぬ人が誰であっても。
僕はあそこで、君を待つと決めたから。

夜の湿原に、竹笛の音が響き渡る。
星子さん。聞こえているかい?


君の帰りを、待っているよ。

(おわり)

この記事に

顔アイコン

顔アイコン・表示画像の選択

絵文字
×
  • オリジナル
  • SoftBank1
  • SoftBank2
  • SoftBank3
  • SoftBank4
  • docomo1
  • docomo2
  • au1
  • au2
  • au3
  • au4
  • 名前
  • パスワード
  • ブログ

開くトラックバック(0)

本文はここまでですこのページの先頭へ
みんなの更新記事