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今日も今日とて私は日課のウォーキングに励んだ。今まで一日たりとも休んでは いない。二日くらい雨の日もあったが、その日も私は歩いた。もちろん傘をさしてだが。 ここがジョギングより便利な所だ。ジョギングならば雨の場合休まなければならない だろうが、歩くだけなら傘を差したまま歩ける訳だ。少し早足に歩くが流石に雨の日は そうもいかない。しかし休むよりは良いだろうと思って私は今取り組んでいる。 勤務先の近くにある山口宇部医療センターの庭に植えられている大木だが この樹のてっぺんの部分に鳥の巣のようなものが見つけられた。確かにそれは 鳥の巣だった。ま、鳥の巣が珍しかったから写真に撮った訳ではない。この樹の全体 何となくの雰囲気が生命力に溢れた感じで撮影せずにはいられなかった。 こうして早朝に歩いていると色々な風景に出合い、それはホントに自然そのものである。 だから無理して遠くまでドライブしなくても意外に身近に自然を感じられる場所はある のだ。自宅の近所をちょっと探検するだけでもそれは見つかるかも知れない。 近代的な都会の町並みばかりが人を元気にするものではないし、ちっぽけな自然美 であろうと、それは大きなパワーに溢れている。 山口市のザビエル記念聖堂にやって来た。久しぶりだ。平日ではあったが、そこは 時間の余裕がある中高年の男性や女性が訪れていた。私もその内である。 拝観料として強制ではないようだが玄関先に献金箱が置かれてあり、100円の寄付を お願いしていた。妻は私と二人分その箱にお金を入れ私たちは館内に入って行った。 なぜ私が今日ここに来たかと言うと、実は山口市に来るたびにホントは訪れたいと 思っていたのだが、私1人ならいざ知らず妻の気持ちもあったので若干遠慮していた 訳である。だが今日はもうホントに来たくてという感じで訪れる事が出来たのだ。 私が求めるのはこういった場所独特の神聖な雰囲気を感じたい為である。 今流に言えば「パワースポット」というところだ。そのような場所を訪れ、日常に無い 独特の神秘な力に触れたいと最近頓に思うようになった。年齢のせいかも知れない。 ただ私が言えるのは日々積み重ねる祈りの集積が私をそのような気持ちにさせている のかも知れない。それは確かだ。祈りとは「お金が欲しい、名誉が欲しい、貧乏を 駆逐してくれ、出世したい」などの俗的な欲望の為の祈りでは無く、神との会話であり 他者への感謝である。そのような祈りの集積が長い年月かけて積み重なった場所と いうものは全国至る所にあるものと思うのだ。私はその空気を求めて歩いてみたいと 最近思うようになった。 しかしこの全国的にも有名でザビエルが初めて日本に訪れて宣教した地にも関わらず 私はそのような強い神秘的な雰囲気、力をあまり感じなかった。それが少し残念だった。 例えばキリスト教のような膨大な長い歴史とは比べられない新興宗教の中でも、 そういう神聖な空気を時には感じる事があって驚く事がある。有名で本家的な パワースポットとばかり思っていたこのような教会が意外にそれは少なくて 新人である所の新興宗教にそれを感じられるのは非常に皮肉ではある。 私は以前市内にある幸福の科学支部を訪れ、その聖堂に入った事がある。 そこは本当に神聖な空気に包まれ、私は圧倒されたものだ。入れば、感じやすい人 ならば多分誰でもその神秘で神聖で清潔な雰囲気に圧倒されるだろう。 こういう所が本当の意味でのパワースポットだと思う。テレビや雑誌で宣伝されている 名前の知られたパワースポットが意外に行ってみれば何も感じられなかったという事は よくあることだと思うから要注意である。宣伝には踊らされない事だ。 私は幸福の科学の支部に訪れ聖堂の雰囲気を感じたものをそこにいた信者の人に 率直に言ってみた。その人は喜んでいたが、私はなおも何故それがこの聖堂の中に あるのかを私なりに説明させてもらった。いわく、貴方達真摯な会員さんたちの日々の 祈りの集積がこのパワーを作っているのだと、私は言わせてもらった。 これは決して新興宗教だけでは無く、例えば日本の神社やお寺にもあるのではないかと 思う。日々そこに働く神主や住職たちが休みなく淡々と日々の祈りを積み重ねれば 自然とその場は神聖な空気に満たされるはずである。 ではなぜ本日お伺いしたザビエル教会では感じ得なかったのだろう。 それはその教えを信じている人たちがキリストの教えをどのように解釈し日々 実践しているかにポイントがあるのではないかと私は見ている。 神というものをただ単に罰を与えるだけの怖い存在で人間とはかけ離れた存在で あると見た信仰は、日々の祈りによる神秘的で神聖な空気は生んでくれないのでは ないかと思うのだ。 ただ神を何もない無個性な平和だけの存在としてとらえれば、そこに集まる人たちの 念も消極的となり、その人たちの祈りは力が無いのではないかと思う。もっと積極的に 実践的に生活に生きるような信仰でなければ、そこで生きる人たちによる祈りは 神聖で神秘的なパワーは出てこないような気がするのだ。 お寺や神社、あるいは新興宗教の聖堂を訪れて、何かの力を感じられれば そこに集まる人たちが現実を生かす教えを実践しているかどうかが分かると言う ものである。 |
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