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私の朝の日課は2つあり、それは必ず忘れないで毎日務めている。日課というぐらいだから毎日やらなければそれは日課とは言えない。そして人が毎日欠かさずやっていることの代表的なものと言えばやはりそれは食べることだろう。人間が生存する為の必須事項であるからこそ毎日続けられるのだろうし、努力も何もいらないから、このような日課というものならば大変楽である。
私が言うのは継続が困難な日課である。その困難な日課を私は2つ現在やっているのである。自分で困難だと思うからこそ意義があるのだろう。前置きが長くなったがその2つの日課とは祈りとウォーキングである。 と言ってもこの2つとも、まだそんなに長く続いている訳ではない。しかし飽き性の私としてはそんなに気負いなく続いているのが我ながら意外な面もある。 さて祈りの方はまた後日解説したいと思うが、ウォーキングの方は中々これが奥の深い道だと思う。以前やっていたウォーキングは今を思えばウォーキングと言うよりは、散策に近いものだったと思う。しかしこれでもやはりやらないよりは良いのではないかと思う。ただ単にぶらぶらと歩くだけなら、これは徘徊だとも言える。痴呆老人が何キロも歩き回るという徘徊を思い出させる。しかしこれもやらないよりはやった方が良いのかも知れない。しかしただ歩き回るだけならこれが意外に続かないのである。だから続ける為にもちゃんとした歩き方、ウォーキングをした方が良いと思うのである。 だからといって何も私は正式な歩き方やウォーキングの作法を学んだ訳ではない。ただ以前に歩いていた時に時々見かけた多分この道の先輩と思われる人たちの歩き方である。彼らは少数派かも知れないが、ちゃんと両腕を持ち上げ走るような格好で構え、そして胸を前に反らしたような感じで歩くのである。当時は私はどうもこの彼らの格好に違和感を覚え「何、格好つけてんだ、普通に歩けば良いじゃないか」と半分馬鹿にしていたのである。普通と違うことをしている者に対しての羨望の裏返しの感情だったかも知れない。 しかし生きるというものはありがたいものである。馬鹿にしていた人だからこそ私は今になってはその彼らに素直に学ぶのである。私は今彼らのように腕を上げ走るように歩いているのである。 昔よくテレビで見かけたウォーキングの大家がいたが、あの彼が両腕を上げ腰をくねらせてサッサッと歩いていたが、まさにあの格好に近い姿で私は歩いている。人目も気にせず・・・とは中々言えないので自宅を出てからはしばらくは普通の早足で歩くが、近所の運動公園に入ればその颯爽としたウォーキングスタイルとなるのである。これはやってみれば分かると思うが、気持ち良いのである。 この格好で歩いているとその内あることに気づいた。それは姿勢に良いのではないかと言うことだ。両腕を上げて歩いていると自然に胸が反り返り、まるでクラシックダンスの踊り手のようになる感じである。そして下半身も連動して腰をくねくねお尻を振って歩くようになる。まさにかのウォーキングの大家のような感じである。 こうした格好で歩いていると何か自分が本当に運動しているのだなと思ってくる。この思いも重要だと思う。姿勢は良くなる、健康にも良いとなれば、一石二鳥、三鳥である。ただちょっと難しいのは人目に恥ずかしいのと、それを続けて行く意志だろう。いや意外に恥ずかしいという思いも裏返せば人に見られる恍惚感になるかも知れない。後は継続だけであるが、これがまた面白いことにもう1つの日課であるところの祈りに繋がっているのである。祈りの力によって私のウォーキングは継続できているのだ。 つまり人生には何も無駄なことは一切ないということなのである。 |
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