|
埴谷雄高著「姿なき司祭」より
”自宅で寝ると同じく長く横にならなければ眠れぬたちなのでわたしはそのとき睡眠剤を飲み
たまたま空いている3人分の座席に横になっていたのだが頭の芯に数枚の薄くらい膜がかむせられた夢うつつの境で
ぼんやり目覚めると飛行機は着陸する時、異変を思わせる不規則なバウンドを続けて私の身体を
縁だけ固まったジェリーのように異常に内部撹乱しながら大きく振り回し弾ませたのであった。
やはりきたかな、と瞑目したまま背中に伝わってくる小刻みな横ぶれと大きな上下運動のまじえられた振動を
味わっているとガクリと前のめりしながら飛行機はやがて止まった。
ーーどうせぼくが行くのだから飛行機の故障くらいあるでしょうね。
不吉な予感といったほどの喰らい切迫感など無く日頃からいわば「ヘマ」ばかりを伴侶にしている自身にあらかじめ
警告の鞭をあてておくといった4分の3くらい冗談の気分である雑誌の対談のため訪れたA君に出発前、
わたしはそんな風に述べたのであったがその冗談を傍らに黙って立って窺っている死神に苦々しく聞き取られて
この明け方近い暗いカルカッタ空港でついに実現されるのかな、と私はそのとき閃くように思い返した。
第一番目の目的地であるモスクワへ着かない前に起こったこの偶然の出来事はいってみれば或る特別な色合いの
陰影をわたしの旅行のはじめにつけることになったのであった。”
続く
<コメント>
埴谷雄高は、かの三島由紀夫、安倍公房の兄貴分の立場にあった。つげ義春にも影響を与えている。
|