Ashley事件から生命倫理を考える

世の中は想像していたより、はるかにコワイ・・・

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前のエントリーからの続きです。


早稲田大学文化構想学部現代人間論系教授 村松聡さんのお話

・法的に問題がないということは必ずしも倫理的に問題がないということを意味しない。

・ドイツではリビング・ウィル法を通すのに10年も議論が続いた。
尊厳死法を日本で作ろうとするなら、まずインフォームドコンセントとか自律について
国民的な議論から始めることが必要では。

・自分の親が病院で亡くなる前に病院に通っては一生懸命に声をかけていると、
医師が「話しかけても犬とか猫程度の意識しかないですよ」と。
言葉の是非はともかく、他者への想像力があるかないかの問題が大きいのでは?


日本ALS協会副会長の岡部宏生さんのお話
(ヘルパーの方が「あかさたな…」と読みあげることで一文字ずつ聞きとられた)

人工呼吸器をつけることについては迷いがあったし、
死ぬことも、つけて生きることも怖かったけれど、
つけて生きている姿を自分が見せることで人を勇気づけられるならと考えて選択した。

今でも怖いけれど、怖いと思えば思うほどに
今を大事に生きようと思うようになった。

自分は弱いので、死にたくなる時もある。
法律ができてしまうと、そういう時に意思表示してしまって、
取り返しのつかないことになるので、こういう法律は作らないでほしい。


会場の学生さんの一人から出た質問

川口さんはお母さんを殺そうと思って子どもの寝顔を見て思いとどまった、
同じ思いや経験は障害児の親はみんなしているとおっしゃったけれど、
それならば逆に、尊厳死が法律で認められることによって、むしろ
家族がそうした苦悩から救われるという考え方もあるのでは?

これについては、
その後の川口さんと司会の岡部耕典さんの発言のすべてに
心がヒリヒリして胸が詰まるようで、あまり記憶していないのだけど、
その学生さんのゼミ担当教師であると同時に知的障害のある子どもを持つ親でもある岡部さんが
「本当に悩まないでいいのかな」と問い返されたことがとても印象的だった。


いきなりムチャ振りされたspitzibaraの悶々の発言

その岡部さんから、上記質問に重症者の親の立場からリアクションを求められて、
動転したまま語った(つもりの)ことは概ね以下。
(実際にそう聞こえたかどうかは、とりとめのない未整理な発言になったので???)

私にも川口さんと同じように
介護で限界を超えた時に娘を殺そうと思ったことがある。

また、娘が腸ねん転の手術を受けた時に、
「どうせ何も分からない重症児」と術後の痛み止めすら入れてもらえない、
とても差別的な医療でイチイチ娘が苦しめられるのを見て、
このまま嬲り殺しにされるなら、いっそ死なせてやってほしいと願ったし、
自分で病院から連れ出して一緒に死ぬことまで思いつめた。

でも、娘がその体験を生き延びてくれた時、
生きていてくれてよかったと嬉しかったし、
今25歳になってキャピキャピ暮らしている娘を見て
やはり生きていてくれることが嬉しい。

家族は殺したいのではなく、
殺す以外に生きられない状況に追い詰められるから殺すことを考える。

人の気持ちが、死にたいと思ったり生きていてよかったと揺らぐのは
障害のある人や家族だけじゃなく、誰にとっても生きているというのが本当はそういうことなんでは?

この時の体験は大きなトラウマを残しているので
いくつものエントリーで書いており、例えば以下など。


---------------

3日間、多くの方のお話を聞き、多くの方と語り合って、
たくさんのことを考え、まだ頭の中が整理できていないけど、
今たちまち思うのは、

・過剰であれ不足であれ「良い医療が受けられないなら尊厳死の方がマシ」というのが
実際のところ、尊厳死に賛成という多くの人の本当の気持ちなのでは?

・では、本当は多くの人が願っているのは「死なせてもらうこと」ではなく
「過不足のない適切な医療を受けられること」なのでは?
それならば皆でそちらを考えるべきなのでは?


・今でも障害者や高齢者などの弱者は
スタンダードな医療すら十分に受けられていないという問題は
英米でももう何年も指摘され続けているし、最近いくつかの報告書でも報告されている。
(障害者については英国ではMencapから、米国ではNDRNから)

英語圏で進む「無益な治療」論では、そうした差別はむしろ強化されているし、
論理的に言っても患者の生死の自己決定権は無益な治療論とは両立しないのでは?

それならば「死なせる」議論の前に
まず「誰でもスタンダードの医療を受けられること」を保障してほしい。

・学生さんの質問を聞いて、
尊厳死について考えようにも直接体験がなければ
頭の中で、論理で考えようとしてしまうのかもしれない、と思った。

人間は論理だけで生きているわけではないのだけれど、
この問題が、村松先生の発言の「他者への想像力があるかどうか」にもつながるし、
また当ブログで繰り返し指摘してきた学者の「論理のパズル」の限界にもつながる気がする。

だからこそ、直接体験がなくて論理で考えるしかない人たちの中に、
今回この講演会に参加し、考えてみようとしたり、
敢えて発言・質問してみようとしてくれる人がいるなら、

そういう人たちにこそ論理で「論じる」のではなく、
直接体験や、そこにある論理では線を引くことも白黒も付けにくい複雑な思いなど
論理で論じたのでは取りこぼされてしまうところにあるものを
丁寧に「物語る」ことによって伝えていく努力が必要なのだろうな、
……といったことを改めて考えさせられた。


それから、余談だけど、
早稲田の講演会が終わった時に、とても嬉しいことがあった。

終了と同時に前の席に座っておられた見も知らない女性が振り向かれて、
「もしかして……」と私の名前を確認されたので、
「そうですけど、どうして分かったんですか?」と訊くと、

拙著『アシュリー事件』を読んでくださったとのこと。
それでこういう問題について知り考えなければならないと思って
この講演会を聞きに来たんです、と語ってくださった。

私が発言を求められた時に名前が出たので、
もしかしたらそうかなと思っていたとおっしゃって、
ブログ読んでくださっている、とも。

思いがけないことに、もう舞い上がりそうに嬉しかった。
(飛びついてってハグしたいのを、何とか思いとどまった)

お名前も聞かないまま、お別れしてしまったけれど、
この場を借りて、改めてお礼を。

こんな地味なブログでも、いろいろと叩かれたりメゲることがあり、
時には世の中が変わる速度の余りの速さ激しさに絶望してしまって、
わたしって何バカなことやっているんだろうと思ったり、
もうブログやめようかと思ったり、迷いばかりなのですが、

このブログの5年間をまとめた本を読んでくださった方が
それをきっかけに尊厳死を考える講演会に足を運んでくださったなんて、
こんなに嬉しいことはなかったです。

また私は滅多に東京になど出かけられない田舎暮らしなのに、
その数少ない機会に、同じ講演会に行き合わせることができたばかりか
隣同士に座り合わせていたという偶然もまた、無性に嬉しくて、

大きな大きな勇気をいただきました。

声をかけていただいて、
本当にありがとうございました。


3日間の間に本当に多くの方と出会いをいただいて、
また親しく語り会わせていただいて、実り多い幸せな時を過ごさせていただきました。

貴重な機会を下さったTIL事務局長の野口俊彦さん始め、
お世話になった関係者の皆さんに厚くお礼申しあげます。

みなさん、本当にありがとうございました。
今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。

この記事に

閉じる コメント(8)

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3日間、いろんな人といっぱい話したけど、帰って来てから頭に繰り返し思い返されて、そのたびに何度も笑ってしまうのは、

シノドスに拙文がアップされた時に、見る見るブログの訪問者数が増えていくことが恐ろしくてならなかった……としゃべってたら、Kさんから「万人に向けてモノ書いておいて、ナニ言ってんですか」と突っ込まれた。その瞬間、あまりに「そのとおり」なので絶句してしまった、あの瞬間の自分のマヌケが、この3日間の一番のハイライトだった気がする。あの瞬間に気付かされたことは、結構だいじ。

2012/12/6(木) 午後 10:07 [ spi*zi*ar* ] 返信する

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お疲れ様でした。
実は患者さんに重度障害者の母親がおられます。
とても大変な話で、ここでは書けませんが、また相談させてください。 削除

2012/12/6(木) 午後 10:38 [ acceleration ] 返信する

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accelerationさん、こんばんは。相談……ったって、私は一人の母親にすぎず、先生そんな……。

実は帰ってきてから、ぼんやりと頭に巡っていることの中に、前にaccelerationさんも言っておられたし、勧められて読んだ本の中にもあった「体も精神障害も一緒に診られる医師がいない」という問題のことがあるんです。うちの娘の手術の時の「外科も重症児医療も一緒に診られる医師がいない」「それなのに外科と小児科の連携も、総合病院と重心施設の連携も医学的には皆無」という状況にその問題は重なってもいて、これだけ医療が専門的に細分化していくと、障害者や難病の患者さんは医療現場の個々のスタッフからすると単純に「手に負えない」「避けて通りたい」患者になってしまうし、でも、その問題に対応する必要があるということを言う人はほとんどいないままで「尊厳死」が言われているんだなぁ、と。

2012/12/7(金) 午前 0:17 [ spi*zi*ar* ] 返信する

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それは結局のところ、高齢者にも若い人を前提にした基準で医療が行われていることの問題にも通じていくはずなのだけど、なぜそれが一足飛びに「尊厳死」の問題になってしまって「老年医学」の問題にはならないのかなぁ、とか。

2012/12/7(金) 午前 0:44 [ spi*zi*ar* ] 返信する

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「一人の母親」という立場が重要なんです。ここでは詳しくは書けませんが、子どもさんへの様々な思い(前のエントリーでも書かれていたような)があること、まずはそれをそのまま受け止めることだと思うんですが、周囲はそれがなかなか難しく、性急なアドバイスをしてしまう、という状況。それがご本人を苦しめている感じがするのです。 削除

2012/12/7(金) 午前 11:06 [ acceleration ] 返信する

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accelerationさん、おっしゃっていること、とてもよくわかりました。

私自身の経験からも友人のこれまでを見ていても、実際、accelerationさんが感じておられる通りの対応に苦しんできました。みんな、母親や介護者の言葉を字面で受け止めすぎる、そこで「語られていること」だけに対応しすぎる、そのためにおっしゃっている通りに性急なアドバイスで余計に追い詰める結果になっている、と思います。介護者の語りではたぶん、「語ることができず語られないままに抑圧されていること」を探ることが一番大事なんじゃないかなぁ、と思うのですが、それは善意だけではとても難しいことですよね。

その難しさについては、私も最近ちょっと個人的に直面する体験があって考えているところなのですが、とりあえず距離がきちんと保てる専門家と、同じ立場の親同士で個人的な信頼関係が既にできている人にしか、それはできにくいことなのかもしれないという気がしています。

2012/12/7(金) 午前 11:27 [ spi*zi*ar* ] 返信する

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accelerationさん、私は具体的なことを知らずに無責任なことを言ってはいけないのかもしれないのですが、

たぶん母親や介護者がどうしても口にすることができないで抑圧してしまうのは、「もうダメ」「もうイヤ」「とにかく離して」「ちょっとでいいから逃がして」「休ませて」などなど、じゃないかなぁ……。でも口にできるのは、そういう思いを持っている自分に対する自責とか、その事績を経巡って自分自身を叱咤する言葉だったりになってしまうので、周囲からはそれに対して激励されたり「よくやっているよ」なんて筋違いに認められたりすると、余計に言えないところに追い詰められてしまう。そうして言えないまま抑圧された思いは一種怒りのようなエネルギーとなって蓄積されて、無関係なターゲットに向けられたり、自分に向けられてしまったり……。そんなことはないのかなぁ……。って、一人の母親にすぎない素人の勝手な想像なんですけど。

2012/12/7(金) 午前 11:46 [ spi*zi*ar* ] 返信する

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accelerationさん、でもさっきお昼ご飯を食べながらぼんやり考えていたんですけど、そういう「口が裂けても言えない」思いを当人が自分の中に「ある」と意識している場合ばかりじゃないから、話がややこしいんですよね。

私の仲間内では、絶対に「外」の人には聞かせられないような「赤裸々な告白」談を誰か勇気のある人がある日ある時に思い切ってぶちまけて、それで「えー、あんたもぉ?」「実は私もあるー」みたいにみんなでワイワイ盛り上がる中でそれぞれの思いが吐露され、共有され、許容されていく中で、「みんなあるんだぁ」を経て「私もあるなぁ」と自分でもその思いを正面から意識し、向き合っていく……みたいな段階もあったような。

そんなふうに安心して本当の自分をさらけ出せる仲間との繋がりと、実際の支援の手段を持っていて適度な距離感を保って接してくれる洞察力のある専門家と、その両方にうまく接続できている人はラッキーなのかもしれない、みたいなことを前からちょっと。

2012/12/7(金) 午後 1:59 [ spi*zi*ar* ] 返信する

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