Ashley事件から生命倫理を考える

世の中は想像していたより、はるかにコワイ・・・

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しょー凝りもなく(笑)
新しいブログを始めました。


こちらのブログ『Ashley事件から生命倫理を考える』については、
これまで書いてきたことの関連でどうしても書かずにいられないことも出てくるだろうし、
また『アシュリー事件』と『死の自己決定権』という2冊の本の書庫のケアもあるので、
残しておいて、必要に応じて2つのブログを連動させつつ、

『海やアシュリーのいる風景』のほうは
拙著『死の自己決定権のゆくえ』でいえば第3章の問題意識を中心に、
このブログよりも、もう少しゆったりとやっていければ、と思っています。

どうぞよろしくお願いいたします。
9月の頭に報道されたところによると、
2012年、米国の富全体の5分の1が
わずか1%のスーパーリッチに占められていた、といいます。
新記録更新とのこと。



そんなふうに世界中の富がごく一部の超富裕層に集中して行く一方で、
国家は富を分配する機能を急速に失いつつあり、
各国間でも各国内でも格差が広がるばかり。

そんな中で、科学とテクノロジーの発達によって
それまではSFでしかなかったようなことに実現可能性が見え隠れするようになり、

そうした技術は、
それまでの世界ではありえなかった規模の利権構造と繋がってしまっている。

私たちの身の回りでも、夢の新薬とか最先端医療技術に関する情報は
研究が緒についたばかりとか、まだまだ開発途上という段階から
「いまにこんなことが可能になる!」「こんなことだってできる!」と
見切り発車的に華々しく流されて、人々の夢と期待とあおり、
そこに欲望を喚起しては新たなマーケットが創出され、
そのマーケットが次々に消費されていく。



そうしてマーケットが創出され消費されていくたびに
あたかも人の体も能力も命もいかようにも操作可能になったかのような
「コントロール幻想」が広げられていく。

操作コントロールする手段がそこにある以上は
それを利用するかどうかは個々人の自由意志による「自己選択・自己決定」だと、
「自己決定権」を武器にした倫理の論理の露払いの援護を受けて。
(ここに書ききれないけど、他にも「最善の利益」論という武器も)

けれど、例えば出生・着床前遺伝子診断が広がっていけば、
検査がある以上、それを受ける選択をすることは「自己選択・自己決定」だといいながら、
やがて検査が広がるにつれ、検査を受けずに生んだ子どもに障害があった、という人に対して
「無責任だ」と責める声があがってくるのではないか、

あるいは
検査を受けて障害があると分かって「産む」という選択をする人に対して
「そういう産み方をする以上、社会に迷惑をかけずに自分で責任を持って育てなさいよ」
という圧力がかかっていくのではないか。

そうすれば、以下のエントリーでCaplanが懸念しているように ↓
遺伝子診断で激減の遺伝病、それが社会に及ぼす影響とは?(2010/9/10)

社会からは
障害のある子どもやその家族を支援しようという機運は失われていくのだろうし、
ひいては社会から福祉や支援を整備する責任が免じられていくのではないか。

Emanuelが「安楽死やPAS合法化は、痛苦の責を患者に転嫁する」と言っているように、
それと同じことは「死の自己決定権」にも言えるのではないか。

何度か書いてきたように、英国でも米国でも
自殺幇助合法化を求める声は、未だ合法化される手前のところで
介護者による自殺幇助が「愛ゆえの行為」として次々に無罪放免されていく事態を招いている。


9月には米国ケンタッキー州で
ガンを患う妻の顔を銃で2度も撃って殺した男性が
「自殺幇助だった」と主張していることが報じられた。


「自殺幇助」と「慈悲殺」と「殺人」の境目は
どんどん曖昧に、ごっちゃになっていく。


「“科学とテクノで簡単解決”文化」とその利権構造が振りかざす「自己決定」には、
「自己責任」に転じていく危うさが潜んでいる、と思う。

それは、とりもなおさず、
富が一部のスーパーリッチに集中し、各国政府はさらに貧しくなる一方の状況下で、
回収できるアテのない資金を国際的な科学とテクノの開発競争に注ぎ込み続ける以外に
生き残りの方途が見えなくなっている各国政府に、
体の良い「自国民の切り捨ての方便」を与えてしまうのではないか。

老いも病気も障害も、介護の問題も貧困の問題ですら、
誰かの体を改造したり、誰かの体を“売り物”として提供したり、
果ては誰かが死んだり、殺したりして、家族の中で解決すべき
「自己責任」の問題に転じていくのではないか。

そうして弱い者たち同士が「自己選択」「自己決定」という名の下に
自ら進んで犠牲となったり、互いを犠牲にするしかなくなる一方で、

各国間では、強いものが生き残るために、
どの国もみんなで自分の首を絞め合ってみせる我慢競争に参戦することを迫られ、
強いものにとってもどこにも救いのない生き残り合戦が繰り広げられていく。

例えばTPPだったり、法人税の切り下げ合戦だったりという形で。
結局はみんなが苦しくなる一方の、誰も幸せになれない世界に向かって――。


……というふうに、
「アシュリー事件」という小さな窓から7年近く覗き見てきた世界は
私の目には映るものだから、

そのことをひたすら繰り返して言い続けてきた、今もこうして言い続けている
このブログには、でも、あまりに希望というものがないのではないか、と
今の私には感じられて、

書いている本人もちっとも元気が出ないので、

この1ヶ月間ぐるぐる考えた結果、とりあえず、
次のエントリーのようなことにしてみようと思います。

よろしくお願いいたします。
8月末にこのブログを休止してからずっと
頭の中にぐるぐると転がり続けている言葉がありました。

スタンフォード大の法・生命科学センターのHank Greely氏が
最新の着床前全ゲノム読解診断検査について言った、次の言葉です。

世界にはざっと200の国があります。
仮に199の国で禁じたとしても、
それは200番目の国にとって多大なビジネス・チャンスとなるだけ。




「世の中が向かっている方向がここまで見えてしまったら
個々の事象で起こっていることを追いかけても、もう意味がないのでは」という思いは
かなり前から抱えつつ日々のエントリーを書いていたのですが、これを読んだ時に、
ふっと、もうこれまで通りに追いかける気力がなくなってしまった……に
転じてしまいました。

この言葉こそ、
このブログで追いかけてきた
「科学とテクノで簡単解決文化」と結びついた
グローバル人でなし強欲ネオリベ金融(慈善)資本主義の世界の救いのなさ
そのものだ……という気がしたのです。

それで、とりあえずブログを休止したあとも、
この言葉のことをとりとめもなく考えていたような気がします。


その間に頭に去来したことというのは、例えば、これ ↓
「3人の親を持つ子ども」IVF技術で遺伝病回避……パブコメ(2012/9/18)

また例えば、
同じく遺伝子診断による胚の選別技術を用いて
病気の姉・兄のドナーとして生まれてくる子ども“救済者兄弟”のこと。

それらの問題を巡っては倫理問題が指摘されつつも、
逆にむしろ生命倫理学者らの議論が技術の利用容認への露払いをする形で
強引にこうした技術の利用が進められていく。その背景にあるのは
科学とテクノの研究の激烈な国際競争なのだ……と
これまで以下のエントリーなどで書いてきたことを改めて確認する思い。



最近ではこういうことまで起こって、
こうして研究と技術開発の競争激化は、さらに歯止めなき泥沼と化していく ↓
胚の細胞周期にかかる時間に特許とった大学とバイオ企業に非難ごうごう(米)(2013/7/11)


それから、「生命の操作」をもう少し広げてみた時に頭に浮かぶのは、例えば、
グローバル化する代理母ツーリズムのこと。

国によっては代理母を一箇所に住まわせて行動を束縛し、
管理・監視して、もはや代理母なんだか子どもを生む奴隷なんだか分からないような
実態も報告されている。(補遺のどこかに元情報があると思いますが)

それでも、地球上のどこかに代理母を禁止していない国があり、
代理母をやりたいという女性がいて、依頼者との仲介をするビジネスが存在して
そのサービスを対価を払って利用して子どもを持ちたいという人がいれば、
それはその人の自己選択。

代理母をやりたいという女性についても、
それが仮にそれ以外には我が子を育ててゆくすべがないところへ
ギリギリに追い詰められたゆえの選択だったとしても、
やりたいというのはその女性の自己選択・自己決定ということになってしまう。

搾取だという批判はあるけれど、その一方で
金持ちはそれで子どもがもてて、貧乏な人には金が入るのだから
両者ウイン・ウインの関係だと主張する人もいる。

インドでは、その一方で、
貧困層の女性を「この手術を受ければあげますよ」と日用品で釣って、
大量の不妊手術が行われている。

医師が何人も手早く手術して、
術後の女性はろくに痛み止めも与えられずに
屋外の地べたに寝転がされている。

そういう実態は写真ごと報告されていて、国際世論の批判はあっても、
女性たちが自分でそこに「手術を受けます」と行っている以上は
それも本人たちの自由意志による自己選択・自己決定ということになってしまうのでしょう。



同じように世界のどこかに「臓器が買える国」があって、臓器を売ろうとする人がいるなら、
それがたとえ、それ以外に生きるすべがないからという理由であったとしても、
売ることはその人の自由意志による「自己選択」「自己決定」なのだろうし、
そういう場所と人がある限り、世界中の199の国で臓器売買を禁じたとしても、
それは200番目の国にとって大きなビジネス・チャンスになるだけなのでしょう。

ベルギーでは、すでに書いたように
「安楽死後臓器提供」が数年前から行われていますが、
その中に精神障害者が含まれていることが、
この5月に移植医らから論文報告されていました。


ベルギーの移植医らは、これもまた「患者の自己決定」だと言います。そして、
「一人で何人もの命を救うことのできるすばらしい愛他行為」だと賞賛します。

でも、本当にそれでいいのか、いいはずないだろう、と思う。

思うけれど、
上の「199の国で禁じたとしても」に象徴されるように、
経済の論理の暴走を倫理の論理では制御できない世界が
すでに出来上がってしまったのだ……と考えると、

そこから先を考えることができなくなってしまう。
そこから先を考えても意味がない、何にもならないことになってしまう。
だから、考えようとする気力がなくなってしまう。

ミュウたちのことを考えると、
そこから先を考えようとするだけで、もう恐ろしくてならない。

そんなふうに「希望がない」「救いがない」としか言えないのなら
黙るしかない、黙るべきだ、黙る方がいい――。

8月の末に思ったのは、そういうことだった……んだな、と思う。
ブログを休止しているところなのですが、
当ブログの起源として、これは資料として残しておきたい……というものが出てきたので。

しばらく前にパソコンの故障で大量のデータが失われたために
紛失したとばかり思い込んでいた大事な資料が
なんと目立たないファイルの片隅に生き残っているのを発見。


2007年1月に日本でいち早くアシュリー事件を報じたネット・メディアにあった
「知的機能はすでに失われており」という記述を巡って
編集部に手紙を書き、やり取りした結果、
その記事が非表示になったという出来事がありました。

出てきたのは、そのときのやり取りの記録。

2007年の1月に、
まだ何の知識もなければ問題意識もなかった私が
素朴な疑問をストレートにぶつけているメールの文面を改めて読んでみると、
ここにすでに今回の『死の自己決定権のゆくえ』の第2章に繋がる疑問が見えていることに、
ちょっと息を飲むような気持ちになったので、
これはこのブログの資料として残したい、と思って。

まず、2007年1月26日に
私が初めてこのメディアの事務局に書いたメールが以下です。

○○に掲載されている「脳障害の少女の体を現在のまま”停止”に」という○○氏の記事ですが、その中の「脳の知的機能は既に失われており」という部分は、どこから来たものでしょうか。

両親のHPにも担当医師の論文にも、そんな記述はありません。

Ashleyについて「精神・認知の発達段階が生後3ヶ月から変わっていない」とは書かれていますが、そのほかにも、「家族が話しかけると喜んで微笑む」、「音楽が大好きで、好きな音楽を聴くとはしゃぐ」、「意識ははっきりしており、周囲のことは分かっている」、「家族を分かっていると思うが確信は持てない」、「 困ったことがあると助けが来るまでで泣き続ける」などの記述もあり、これらは決して「脳の知的機能は既に失われて」しまった子どもの姿ではありません。

どなたか、記者氏以外の方、できれば障害児・者の問題に詳しい方にご確認いただき、事実誤認が確認できれば、訂正していただければと思います。

この問題の議論は、Ashleyの障害像を先ず正確に理解した上でなければ、筋違いの方向に進む危険があります。


それに対して、数日後に記者の方ご本人の説明をコピペしたものが
編集部からお返事として送られてきました。

それを読み、2月8日に私が編集部に返したお返事が以下。

編集長様

メールありがとうございました。
いただいたお返事の中にも、ずいぶん事実誤認があるように思います。
 
.▲轡絅蝓爾寮長が止まったとされているのは、生後3週間ではなく、生後3ヶ月です。記者氏ご本人が添付されている英文を読んでみてください。

両親のブログでは生後3ヶ月で知的機能の発達が止まったと書かれていますが、CNNの1月12日のインタビューで、担当医のDr.Diekemaはアシュリーの認知・知的機能は生後6ヶ月相当と言っています。

「脳が損傷されている」ということは、「知的機能は失われている」と同じではありません。脳損傷によって身体機能の障害があっても、知的機能は完全な人もいます。「脳が損傷されているから知的機能は失われている」というのは、障害に関する知識を欠いた人の短絡的な思い込みではありませんか。

じ彊不明の脳損傷があり、それが機能障害を起こしているのであって、アシュリーは「難病」ではありません。障害は病気ではありません。

グ焚爾法⇔梢討離屮蹈阿らアシュリーの状態についての記述を抜き出してみます。果たしてこれが「知的機能が既に失われた」子どもの状態かどうか、編集長様ご自身でご検討ください。

(省略しますが、父親のブログに書かれたアシュリーの障害像に関する部分をここに箇条書き。
その内容の概要はこちらのエントリーに ⇒http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/8651548.html)
 
私は、アシュリーに障害像が非常に似ている重症児の母親ですが、私の子どもを含め、いわゆる重症心身障害児といわれる子どもたちは、決して植物状態にあるわけではありません。アシュリーも、上記記述からお分かりのように、医学的に植物状態とは言えません。にもかかわらず、記者氏の不用意な記述によって、日本ではアシュリーの障害像が誤って伝わっており、議論を筋違いの方向に誘導される可能性があることに、私は非常に大きな懸念を抱えております。

現実に、ある大学の生命倫理の講義の中で、記者氏の記事が資料として使われて、この問題の是非が議論され、「やむを得ない」との意見を述べた学生が自分の意見の根拠として、「知的機能が既に失われていると書いてあるから」とこの部分を引用するということがありま した。この講義を担当した先生に上記記述をお渡ししたところ、「自分も誤解していた。もう一度アシュリーの障害像を正しく捉えなおさなければならない」と、次の講義で訂正されたとのこと。

総合的に書くのだとおっしゃるのは分かりますが、それが正確でないことの正当化にはならないのではないでしょうか。特に、専門的な知識を必要とする分野であればあるだけ、記者の方の思い込みや先入観で事実と異なった記述が出てくることは、非常に危険なことではないでしょうか。

記者氏がおっしゃっているように、この論争は続いており、1月26日にはピーター・シンガーがニューヨークタイムズの特集に挑発的な文章を書きました。それに対する反論もいくつか出ています。今後も論じられていくと思いますが、それだけに、日本でもアシュリーの障害像が先ずは正しく伝えられることが非常に大切になってきます。

上記のことを編集部としてご検討いただいたうえで、記者氏からではなく、編集部としてお返事いただきたいのですが、記者氏の「知的機能が既に失われているとの表現は、そう一線を踏み外したものとは考えていない」との見解は、事務局としても支持されるのでしょうか。


これに対して、2日後に編集長から、
医学的な見解をまとめ直した上で記事を修正するのでは時間がかかるし
議論をする上で正確でない情報を伝えてしまうことは本意ではなく、
編集部での検討中にも公開されていることの影響がありそうだと、
いただいた指摘から判断されるので、緊急的に非表示にする、
という趣旨のお返事が届きました。

数少ない詳細な記事だったので
私としては訂正した上で残してほしかったのですが、
編集部の対応は誠実だったと思います。

そして、このときのやり取りを通して、
「ミュウやアシュリーのような重症児者は『どうせ何も分からない人(子)』でしかないか」との問いを
私は獲得したのだと思います。

その問いはその後の様々な問題意識の根っこにあり続け、
そこから生じた数々のぐるぐるが、このたびの拙著
『死の自己決定権のゆくえ―尊厳死・「無益な治療」論・臓器移植』
第2章の考察へと深まっていったのだと思います。

当ブログの原点が、ここにありました。
当ブログは2007年5月に
アシュリー事件を追いかけるために立ち上げたものでした。

いつのまにかアシュリー事件からその周辺へと興味関心が広がり、
それから、ざっと6年あまりになります。

元より「世界ではいったい何が起こっているのか」
「こんなことが起こっている世界はこれから
いったいどこへ向かっていくのだろう」という
自分自身の興味・関心に引きずられてやってきたブログでしたが、
多くの方々との出会いに恵まれて時を経るうちに、


同事件を追いかけながら見えてきた、もうちょっと「大きな絵」についても、今回
『死の自己決定権のゆくえ: 尊厳死・「無益な治療」論・臓器移植』にとりまとめることができました。

シノドスの新刊著者インタビュー
何ごとか1つのことだけは「言い尽くした」気分にさせてもいただき、
なにやら、このブログも一段落したのではないか、という感じがしております。

それ以前からも、
「世界はこうなっていくのではないか」と懸念してきた通りが次々に現実となっていくこと、
その変化の速度がどんどん加速していると思えることが、あまりに恐ろしくて、
もうこれ以上、知りたくない、見たくない、という気持ちを
どこかにずっと抱えてきました。

昨日、今日と、続けてアップしたエントリーが
正しく、そうした「今後」を象徴しているようにも思え、
この先は、個々の事象で何が起こっているかを追いかけることには
あまり意味がないのではないか、とも思えてきました。

すでに私の生活の一部となっていますので、
ブログのない生活というのは考えられず(それって、実際どうよ?)
しばらく充電した後にまた今の形のままで再開するかもしれませんし、
別の形で続行することにするかもしれませんが、

しばしお休みし、これからこのブログをどうするか、
すこし落ち着いて考えてみたいと思っています。

いつもご訪問くださる方々には突然の休載でご迷惑をおかけしますが、
どうぞよろしくお願いいたします。

なお、2冊の拙著への訂正、追加説明、その他については
それぞれの書庫で必要に応じてアップしていくつもりです。

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