Ashley事件から生命倫理を考える

世の中は想像していたより、はるかにコワイ・・・

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世界医師会は
今年4月のインドネシア、バリでの第194回委員会セッションにおいて、
2002年10月の米国ワシントンDCでの第53回WMA全体会議で採択された
安楽死に関するWMA決議を再認した。

安楽死については

Euthanasia, that is the act of deliberately ending the life of a patient, even at the patient's own request or at the request of close relatives, is unethical. This does not prevent the physician from respecting the desire of a patient to allow the natural process of death to follow its course in the terminal phase of sickness.

患者の生命を意図的に終わらせる行為である安楽死は、それが患者自身の求めによるものであれ、近親者の求めによるものであれ、非倫理的である。これは、病の終末段階において、死の自然なプロセスに任せたいとの患者の希望を、医師が尊重することを妨げるものではない。

1987年のスペイン、マドリッドでの第38回WMA採択の安楽死に関する宣言に書かれ、
2005年5月のフランスDivonne-les Bainsでの第170回委員会セッションで再認されたもの。


医師による自殺幇助については、

Physicians-assisted suicide, like euthanasia, is unethical and must be condemned by the medical profession. Where the assistance of the physician is intentionally and deliberately directed at enabling an individual to end his or her own life, the physician acts unethically. However the right to decline medical treatment is a basic right of the patient and the physician does not act unethically even if respecting such a wish results in the death of the patient.

医師による自殺幇助は、安楽死と同様に非倫理的であり、医療職は弾劾すべきである。誰かが自分の命を終わらせることを可能にすることを直接的な目的として、医師の支援が意図的に敢えて行われるならば、その医師の行為は非倫理的である。しかし、治療を拒否する権利は患者の基本的な権利であり、仮にこうした望みを尊重することによって結果的に患者が死ぬこととなっても、医師は非倫理的に行動したことにはならない。

1992年スペイン、Marbellaでの第44回WMA全体会議で採択されたPASに関する声明。
2005年5月にフランスの第170回委員会セッションで文言の編集が行われた。


The World Medical Association reaffirms its strong belief that euthanasia is in conflict with basic ethical principles of medical practice, and

WMAは、安楽死は医療の基本的な倫理原則に反するとの強い信念を再確認する。そして、

The World Medical Association strongly encourages all National Medical Associations and physicians to refrain from participating in euthanasia, even if national law allows it or decriminalizes it under certain conditions.

WMAはすべての全国(各国内)医師会と医師らに対して、
たとえ国内法が許可し、一定の条件化で合法とされているとしても、
安楽死に参加しないよう強く勧告する。




昨日、佐々木千津子さんの訃報を聞き、
その直後に久々にこのブログにコメントが入ったと思ったら
それがなんと佐々木千津子さんのことを書いたエントリーだったという、
どこをどう押しても単なる偶然とは思えない不思議な出来事があって、

佐々木千津子さんは間近でお姿を拝見したことはあったものの
直接にお話したことなど一度もないのだから、
もちろん、こんな時にメッセージをいただけるような間柄ではないのだけれど、

でも、その出来事は
「忘れてほしゅうない」というメッセージをいただいたようにも感じられて、

改めて襟を正すような思いで
上記リンクの「佐々木千津子さんの強制不妊手術」というタイトルの
もう3年以上も前のエントリーを読み返した。

当然ながら、私はそこで
佐々木さんの強制不妊をアシュリー事件と結びつけていて、

そういうことをつらつらと考えていたら、
しばらく前に某MLにある方が流してくださった、
9月の障害学会での山田嘉則氏の発表内容を思い出した。

これを読んだ時、
「おお、ついに……」とコーフンするのと同時に(ここは分かる人だけで)、
ここで言われていることは精神障害者だけじゃない、知的障害者にも通じる! と考え、
そして、その分かりやすい事例として、やっぱりアシュリー事件のことを思ったのだった。

例えば、こんなこともあったし ↓
「同意なき不妊手術も精神科医療も虐待に相当」国連報告書(2013/3/10)

なので、
もしかしたら山田先生には不本意かもしれないけど
(もしそうだったらスンマセン)

佐々木さんのことを思いつつ、アシュリーやアンジェラや
今この時にもウガンダやインドでむごい不妊手術へと誘導されていく女性たちを思いつつ、以下に。


9月14,15日に予定されている第10回障害学会
http://www.f.waseda.jp/k_okabe/jsds2013/index.html

15日最後のプログラム
□13:00〜15:20 一般研究報告[4] 精神・運動  司会:横須賀俊司
  山田嘉則   integrityの侵害と精神障害〜障害者権利条約を起点として
http://www.f.waseda.jp/k_okabe/jsds2013/summary/yamada_yoshinori.htm
l
山田 嘉則 (やまだ よしのり)  阪南中央病院

■報告題目
integrityの侵害と精神障害〜障害者権利条約を起点として

■キーワード
integrity/ 障害者権利条約/ 拷問等禁止条約

■発表要旨

【目的・方法】
障害者虐待防止法の施行に続き、障害者差別解消法が成立し、障害者権利条約
の批准に向けた国内法の整備が進んでいる。その一方で、虐待防止法では病院が
適用対象から外され、差別解消法に逆行するかのように、精神保健福祉法の改正
で医療保護入院要件の緩和が行われた。差別禁止、権利擁護の流れの中で、精神
障害者が周縁化されている印象すらある。

この状況にあって、精神障害者の支援、権利擁護に向けた取り組みの強化が理論
的にも実践的にも求められている。

本発表ではその一助とすべく、精神医療における非同意入院、隔離拘束、さら
に広く精神医療の強制的側面について、障害者権利条約、拷問等禁止条約を参照
しつつ論じる。その際、integrityという概念に注目し、それが精神医療の監視
と精神障害者の権利擁護に対して持つ意義を考察する。

【結果・考察】
障害者権利条約17条は「すべての障害者は、それ以外の人々と対等に、身体的
精神的integrityを尊重される権利がある」と述べている。これは、15条(拷問等
の禁止)、16条(虐待等からの自由)、22条(プライバシーの尊重)および25条(健
康)を補完する条文であり、これらがカバーできない、精神障害者に対する強制
医療の否定を含意するとされる。

integrityは「統合性」「不可侵性」と訳されることがあるが、「自己決定の前
提となる価値観や世界観を醸成する固有の場となる人間の身体と精神に対する不
可侵性」(池原毅和)であり、20世紀後半から、人権の基本概念と見なされるよう
になった。 自由権規約は6条(生命に対する固有の権利)、7条(拷問、虐待、同意
なき科学的・医学的実験の禁止)、8条(奴隷、強制労働の禁止)でintegrityへの
権利を定めている。さらに、拷問等禁止条約において、障害を矯正する目的で、
不十分なインフォームドコンセントのもとで行われる医療行為は、拷問・虐待と
見なされる。

筆者の精神科医師としての「反省的実践」(D.A.Schön)からもintegrityは重要
な概念として浮上して来る。精神医療現場、特に入院医療の場合に顕著である
が、そこでの医師・看護師などの医療スタッフと精神障害者のパワーには著しい
不均衡がある。精神障害者は無防備(vulnerable)であり、そのintegrityが容易
に侵害される。それを医療スタッフの「よき意図」で正当化することはできな
い。現場で筆者が身を持って知ったことである。一方、筆者は近年、性暴力被害
者支援にコミットしている。ここでもintegrityの侵害は性暴力の定義、PTSDの
定義などに現れる。実際にも、子どもに対する性暴力は、integrityに対する破
壊的な侵襲であり、それゆえ多くの被害者に長期にわたる深刻な変容をもたらす。
とすれば、integrityを侵害されたことで精神障害を持つようになり、そこでさ
らに精神医療によってintegrityを侵害される、ということになり得るのだ。こ
の意味でintegirityは精神医療にとってスキャンダラスな概念である。

精神障害者とはintegirityを侵害された者・侵害されつつある者・侵害される
リスクの高い者である。あるいは、vulnerableな者である。これは社会モデル的
に見た精神障害の重要な側面でもあるだろう。とすれば、integrityという概念
が精神障害者の支援にとって持つ意義も明らかである。integrityのさらなる侵
害を防ぐこと、損なわれたintegrityを回復することが、支援の核心をなす。そ
れは権利擁護であり、自己決定の支援である。そしてその際に支援者による
integrityの侵害を警戒しなければならない。障害者と支援者の関係についてセ
ンシティブであることが、精神障害者の支援では特に求められている。


医療スタッフの「よき意図」で正当化することはできない――。

山田先生、バーン!と一発、強烈なのをぶちかましたってください!



『読み解き「般若心経」』 伊藤比呂美 朝日文庫


いや〜、めっちゃ面白かった!!

表紙に「エッセイ + お経 + 現代語訳」とあるように、
カリフォルニア在住の詩人が熊本在住の老親の遠距離介護の生活の中から、
死について考え、そうした自分自身の必要からお経と出会い、お経にはまって、
お経について勉強しつつ、勉強したことを自分の体と自分の痛みを通過させて後、
自分自身の言葉でぐんぐん自在に読み解いていく、という趣向の本。

タイトルは般若心経だけれど、
いろいろなお経が読み解かれ伊藤比呂美語に訳されている。

私は「般若心経」と「白骨」くらいしか
まともに読んだことがなかったから
どれもこれも面白かった。

解説の山折哲雄氏は次のように書いていて、

「お経」というより「お経」のコトバの世界といった方がいいのかもしれません。仏教とか教義とか宗派とかいった次元の話を超えて、詩人の魂が「お経」の中に噴出する渦巻きのようなコトバ、迷路のようなコトバの海に反応し、それをもう一つの異次元のポエムの岸辺にたぐり寄せようとする涙ぐましい試み……


これは、宗教学者としては、
ここに伊藤比呂美語になったものは
お経の正当な「現代語訳」とか「読み解き」とは認められないという
さりげない否定なのかもしれないけれど、

でも、それが、どーした? と思えてくる。

ずううぅっと昔、
ものすごく苦しいことを抱えていた時に
京都で、ふらっと迷い込むみたいに東寺の境内に足を踏み入れたことがあった。
そして大日如来の前に立って、あの大きな像を見上げた時に、
ずっとずっとはるかな昔から、多くの人がこうしてやるせない思いを胸に、
こうしてこの像を見上げてきたんだ……ということが
思いがけない痛切さで実感された。

どの時代にも人々が
もうどうしていいかわからない、これ以上生きていけない、というほどの思いを抱えて
この大きな仏像を見上げ、すがり、救いを探したんだということが
たいそう生々しく感じられて、そこにしばらく立ち尽くして、
自分自身の苦と向き合いながら、大日如来を見上げたまま、
そのことをずっと考え続けた。

この本を読み始めてしばらくして
あの日のことが思い出された。

伊藤比呂美はそういう衆生の一人として
お経と出会い、お経と向かい合っているんだと思う。

衆生や仏教を学ぼうとする人に向かって
お経の意味を解説し説教する僧侶や学者の位置に立って
読み解いたり現代語に訳しているわけではなくて。

だって信仰し、お経を唱える人にとって、
お経って、もともとそういうものなんだと思うし。

「これまでこうして生きてきて、今ここにこうして痛みながら生きている自分」を
全部引っさげて、自分自身の「今ここ」に立ちながら、
その自分の「今ここ」のやむにやまれぬ思いの中に、
お経と出会わなければいられない必然を抱える人が
そうして生きてきた自分やそうして生きている自分の体を通して
自分のお経と出会い、発見し、自分の体を伴った言葉にしている。
だから、ものすごい迫力があるんだ、と思う。

……お経の解説書をいろいろと読んでみた。でもぜんぜん頭に入ってこない。つまらない。悟れない。生臭い。あたしが悪いのだ。でもあたしはあたしである、あたしが中心である、あたしなのである、という、やっと握り締めた実感を、手放してどうするのか。どうしようもなくなるであろう。


この人、田中美津みたいだ、と思う。

続いて著者は次のように書いている。

 それでも父が目の前で、死ぬに死ねない。生きるに生きられない。母も、伯母も、そんなふうだ。
 あたしがさんざん愛されて、あたしもさんざんかかわってきたこの人々が、いままさに死に向かおうとしているのに、手段を知らない。中有に浮いているような父や母や、それから叔母を、浮いたままでいいから、きちんと死の向こうに送り届けるためには、どうしたらいいのか。
(p.80)


このちょっと前には
以下のような箇所もある。

まったくこの頃のあたしは、死に取り憑かれている。
 何を読んでも、人の死に様ばかり目にとまる。
 昔の人は、四十や五十でかんたんに死んでいった。それがどうして、今の世は、こうしてだらだらと、死ぬに死ねず、植物のように緩やかに死んでいかなければならないのか。
(p.79)


だから、著者がずっと考えているのは
看取りの問題であり、終末期医療の問題でもあるのだけれど、
そこで書かれていることは、そういう言葉で捕らえられたり語られたりしている「問題」とは
ずいぶん距離があるし、

誰かにとっての誰かの死というのは、
「要するに、こういうことを著者は言っている」と要約できるようなものじゃなくて、
だからこそ「あたしなのである」なのだし、あたしの痛みであり
あたしの目の前にいるあたしの父の、あたしの母の、あたしの叔母の痛みであり、

だからこそ、お経だったんだ、
「学者が認める正しく解釈されたお経」ではなくて、
「あたしの腑に落ちる、あたしのお経」なんだ、と納得されたりもする。

「死の自己決定権」推進の立場の人たちがよく言うことの一つに
ペットだったら苦しまずに安楽死させてもらえるのに
人間はそれを許されないのは尊厳がない、という主張があって、
そのことは頭の中にずっとひっかかってもいるし、

「犬や猫程度の意識」というある医師の表現について
23日に出る拙著でもちょっとこだわってみたところでもあって、

個人的には
『読み解き「ひじりたちのことば」いぬの話』の章が特に面白かった。

著者が犬に向けるまなざしは
人間に向けるまなざしとちっとも違わなくて、
そこらへんの観察眼がまたぞくぞくするほど面白いのだけれど、

犬の安楽死については
「アメリカの獣医は決断が早い。あたしの素朴な感想を言えば、犬たちはまだ命が続いているのに、はやばやと決断されていくように感じる」(p.103)著者は、

身近な家庭で飼われている犬の安楽死の際に、
「うちの犬の場合は待ちたい、もう死ぬと誰の目にもあきらかになるまで、死ぬものを引き止めたくはないが、受け入れてもやりたい、生きたいという生き物の欲望を、とあたしは夫に言った。夫もこれに同意した」(p.104)

面白いのは、この夫婦の会話がそのまま
30歳年上であちこち既にガタがきている夫の死の話題へと
妻によって強引に移行していくこと。

「ざまみろ。人は誰でも死ぬのである」
「ふふふ。ざまみろ。
人は、誰でも、死ぬのである」
と繰り返されている、ここのシーンは本当に圧巻なので、
全部書き写したいくらいなのだけれど、
せっかくこれから読もうとする人のために我慢して、
このシーンのオチのところだけ。

……「おまえはこのごろ死に取り憑かれている。口を開けば死のことばかりだ、おれたちはまだ生きているのに」
 憎々しげに聞こえるのは、あたしへの憎しみではなく、たんに彼の生きたい欲望が、凝り固まってぎらぎらと反射しているだけなのである。
(p.106)


この本の中でいろいろ読み解かれているお経は
私としては「発願文」が胸に染みてきたけど、
一番ズキリときて残ったのは、親鸞の「殺してくれよ」だった。

それから最後の章の副タイトルにあった、
「いつか死ぬ、それまで生きる」という言葉――。

これを思い出した ↓
選ばないことを選び、生きられるだけ生きる(2009/5/2)
Savulescuによる「道徳ピルのすすめ」プレゼンのビデオが
BioEdgeのエントリーにあったので、
ざっと聞いてみた。

聞き取りには自信がないので
かいつまんで概要のみ。

最初にSavlescuが自問自答してみせるのが
「地球温暖化を起こすのは? 二酸化炭素」
「9・11のテロを起こしたのは? 宗教原理主義」
「フクシマの原発事故を起こしたのは? 地震と津波」

でも、これらは現象に過ぎない。
本当の原因は我々人間。

そんなところに原発を作ったのは、人間の選択だから。

人間はもともと
身近な人同士の内部では思いやり合うことができるように作られているが、
その外の存在に対しては、冷たかったりもする。
現在のようにグローバルな世界になると、
はるか遠くの人々(例えば途上国の人々)への想像は及ばないし、

その反面、我々の中には暴力的な者もいる。

人類の1%はサイコパスで
世界で起こっている犯罪の50%は彼らが起こしている。

これだけ科学とテクノロジーが発達すれば
人間の暴力的な面が現象面で引き起こすことの酷さもまた
これまでの世界の比ではない。

ここから矢継ぎ早にいろんな事例を出して語るのだけれど、
聞き取り能力に限界があるので省略。

要するに彼が言いたいのは
OxytocinとかRitalinなどのSSRIを道徳ピルとして使って、
人々の衝動性、暴力性を抑制し、共感と協力的な姿勢を涵養しよう、と。

教育だって道徳エンハンスメントの一つだし、
コーヒーやスマート・ピルなど日常的なエンハンスメントは既にお馴染みだし、
スポーツではエンハンスメントは既に当たり前なほど広がっている、
これだけ人間の能力・パフォーマンスが科学と技術で向上させられる時代なのだから、

我々人間が作り出してきた温暖化や犯罪の増加といった問題に対処しつつ
次の世紀を人類が生き延びるためには、世界を変えるだけではなく
我々自身を、遺伝子工学をはじめとする科学と技術で変えていかなければならない。



何よりも気になるのは、
サイコパス(この言葉で彼は精神障害者を一括りにしているんじゃないかという気も)や
ADHDなどの発達障害者が短絡的に「犯罪者予備軍」と目されていること。
そこに見られる「個人モデル」思考。

それから涵養すべき望ましい特質を語る際に
「自己犠牲」とか「愛他(利他)主義」とか
SavulescuもWilkinsonもSingerも臓器提供や慈善への誘導の文脈で
とてもよく持ち出してくる文言が、ここでも出てきていること。



なお、
教育だってコーヒーだってエンハンスメントだというのは
私がサヴレスキュを初めて知った2007年から
彼のステロイド解禁論の決まり文句だった。





オランダのフリーゾ王子(現国王の弟)が昨年2月に
オーストリアでの休暇中に雪崩に巻き込まれて意識不明となった事件については、
以下のエントリーで拾っていますが、
13日に亡くなったとのこと。



王子は事故後に最小意識状態にまで回復していたとのことで、
英国ロンドンの病院から先月オランダの母親(前女王)の宮殿に移されていたとのこと。

死因は脳損傷による合併症。

BioEdgeによると
メディアには安楽死だったのではとの憶測が流れているが、

王子が事前指示書を書いておらず、
家族と医師では本人の同意があったとみなすことができないため、
安楽死ではなかった模様。


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