Ashley事件から生命倫理を考える

世の中は想像していたより、はるかにコワイ・・・

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「尊厳死法制化を考える議員連盟」が2つの尊厳死法案を用意して
先の国会での成立を目指した動きを受けて、
立岩真也氏が、自身がこの問題について発言してきた内容と、
障害学・障害者運動から起きている反対の意思表明とを取りまとめ、

新進気鋭の倫理学者、有馬斉氏が功利主義者らの安楽死正当化論を整理して紹介・解説、
その「大きな絵」を提示する、という内容。

障害者の運動体からの反対声明がずらりと並んでいるのは壮観。

その他、いくつか個人的にメモしておきたいことを以下に。

日本尊厳死協会の副理事長、長尾和弘氏は
今年7月3日に東京弁護士会主催のシンポで
「死期が間近」な「終末期」がどのくらいの状態、時期のことを指すのか、
決めることはできない、と発言した。(p.18)

これは12月4日の早稲田での講演会でも、
上記7月のシンポを聞いた岡部耕典氏から同じ趣旨の指摘があった。

長尾氏は、「終末期というのは患者が死んでから、
ああ、あの時が終末期だったというふうに分かるものであり、
死ぬ前からいつが終末期かは分からない」という趣旨の発言をされた、とのこと。

 ちなみに、日本尊厳死協会理事長の岩尾氏はこんなことを言っておられます ↓
日本尊厳死協会理事長・岩尾氏の講演内容の不思議 1(2012/10/23)
日本尊厳死協会理事長・岩尾氏の講演内容の不思議 2(2012/10/23)


功利主義者マクマーンの積極的安楽死正当化の2つ目の根拠である、

仮に自殺幇助は認められても積極的安楽死は許されないとなると
不治だったり耐え難い苦痛があるなどの条件は同じであるにも関わらず、
ALS患者のように自分の手足を使えない人だけが死ぬ権利を奪われることになる、
との主張(p.134)は、

先に英国で亡くなったTony Nicklinsonさんが裁判で主張していたもの。



生存くじ(survival lottery) ジョン・ハリスの有名な論文。1980= 1988

……臓器移植の技術が完成した未来の世界では、健康な人を一人殺してその臓器を二人以上の病人に移植すれば全体としてより多くの人が幸福に生きられる。だから、ハリスによればこの場合一人が犠牲になるべきだという。
 もちろんここで移植するということは、一人の健康な人を殺すことである。……(中略)……また、犠牲者の択び方は例えばレシピエントの担当医が独断で決めたりすると人々の恐怖心をいたずらにあおることになる。そうした間接的な悪影響はできるだけ抑えなければならない。そこでハリスによれば、社会のすべての成員にあらかじめ番号をふっておき、必要に応じて適宜くじを引いて犠牲者を選ぶとよい。ハリスはこの仕組に生存くじ(survival lottery)と名前をつけている。
(p.161)


ぅ献礇奪・キヴォーキアン医師は単に自殺幇助合法化だけではなく、以下のことも主張。(p.176)

・死刑囚を、本人の同意があった場合に、人体実験に使うべき。
・同じく死刑囚を、本人の同意があった場合に、臓器ドナーにすべき。



ヘムロック協会が積極的安楽死合法化の動きを作る一翼を担ってきた。(p.177)

“Final Exit”の著者、デレックハンフリーが創設したヘムロック協会とは、
現在のCompassion and Choice(C&C)の前身。

C&Cについてはエントリー多いですが、FENとの関係など主だったところは以下のエントリーにリンク ↓
米TV番組“The Suicide Plan” FEN事件を詳細に(2012/11/15)


「オランダの一般医は保険機関からの支払いにより収入を得ており、
その額は登録患者の人数に応じた定額になっているため、
費用のかかることを行わないのが特になる仕組みになっている」(p.187)


向井承子「患者追放――行き場を失う老人たち」(2003)からの引用がすごい。
……というよりも、私がもうここ数年ずっと重心の世界の人たちに言い続けているのに
誰からも否定されてしまうことが、2003年にとっくに事実になっていた、という衝撃。

 二十数年前には、「病気があるというだけで病院に収容されている大量の子どもたち」に胸を衝かれた。現在は逆に、特別のケアがなければ生きにくく育ちにくい子どもたちが医療から「追放」されようとしていた。かつては、その子たちを地域に返してやりたいとあんなに願ったのに、いま追放される先とは地域とは名ばかりの荒野とは。(向井pp.123-124)
(p. 208)

「過剰医療」ということばが生まれる。患者がまるで検査やクスリを消費するだけの存在、病院を支える道具のように扱われることになる。
 それは患者が選んだことではなく、医療関係者たちが患者を医療経営のコマとして扱う羽目に自ら追い込まれる、いわば自縄自縛の落とし穴にはまってしまった結果なのだが、その頃から今度は[…]病院で医療に頼って生き続けるおとしよりの存在が財政面から問題視されることとなって、いまでは、医療が必要な人もそうでない人も一気呵成に医療から追放されようとしている。(向井 p.8)
(p.209)


有馬氏による功利主義者の安楽死・自殺幇助正当化論の整理を読んで感じたのは
まずは、ひたすら「遠いなぁ……」だった。

私の頭が付いていけないという意味で「遠い」というのもあるし、
「論理に破たんがない」ということが「正しいこと」とされるだけの、
これは論理のパズルであり言葉のゲームでしかないのでは? という、いつもの空疎な感じがあって、

人が「生活」とか「人生」を生きている生身の営みから
ひたすら、はるかに、遠く隔たっているなぁ……と。

それから、もう一つは「面倒くさいなぁ」というのも。

その「面倒くささ」には、一見するとたいそう緻密に見える論理のパズルも、
なんだかヘリクツっぽい「詭弁」に思えたりすることも含まれていて、
(もちろん、ついていけていないからそう感じるだけかもしらんけど)
こんな面倒くさい論理のパズルをよくここまで熱心にやっていられるなぁ……と
ちょっと辟易しながら、読み進んでいくうち、ふっと思ったのは、

でも、こういう論理のパズルが大好きな人たちが、
例えば、臓器移植とか生殖補助技術に伴う倫理問題では
ここまで面倒くさい論理のパズルを緻密に展開していなくて、
もっと粗雑に乱暴なことを言ってのけているように感じるのは、
単に私が不勉強で物を知らないから、なんだろうか。

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「在日」 姜尚中(集英社文庫)


姜氏の文章についてのみ言えば、
冒頭の深い思いをこめて書かれている個所は魅力的だけれど、
定型句的な湿度の高い形容を伴って平板に書き進められていることも多く、
氏の文章そのものを特に「美しい」と感じるわけでもないので、

今回は「美しい」文章ということではなく、

こんなことって、あるのぉぉぉぉ??? とばかりに仰天した
この作品中の「奇遇」について――。


154ページから156ページにかけて、
長男が生まれる際に羊水を飲み、命が危ぶまれた状況が語られている。

「奇遇」とは、
著者がそこで私たち夫婦とまったく同じ体験をし、
私とほとんど同一と呼んでもいいような文章を書いていること。

生存の可能性は50%だと言われ、ショックを受けながら
保育器に入れられた我が子を見守っている場面で
著者は以下のように書いている。

 保育器のわたしたちの「生命」は、たくさんのチューブを付けられ、ところどころに絆創膏のようなものを張り付けられて痛々しかった。それでも時おりあどけなく大あくびをする姿にわたしは一瞬、ユーモラスな感じさえ受けることがあった。
「生きるさ、きっとコイツは生きる」。自らに言い聞かせるように何度も呟くと、わたしたちの「悲劇の主人公」は大あくびをしてそれに応えているようだった。
(p.155)



生まれるなり保育器に入れられた娘が命の危機を何度もくぐり抜けていた頃、
NICUの窓のすぐそばに保育器を移動してもらって、
夫婦で覗きこんでいた時のことを書いた部分。

「おーい」
私たちは聞こえるはずのない呼びかけをした。
「ちょっと起きんかなぁ。お父さんとお母さんが来とるんじゃんけどなぁ」
 しばらく待ったが、相変わらず眠り続ける。
「じゃぁ、お父さんとお母さんは帰るぞぉ。また、明日くるぞぉ」
 その時、眠っている海がもぞもぞと体を動かしたと思うと、いきなり大あくびをした。聞こえたはずはないのに、まるでこっちの声に応えたようなタイミングだった。私たちの目の前で歯のない口が大きく開き、海はまるで満腹して眠気を催したバアサンみたいな顔になった。あっけにとられていると、閉じた口をさも満足げにもぐもぐとさせ、それきりまた、ぐっすりと眠り込んでしまった。
「……」
 思わず目を見合わせ、一瞬の後に二人で同時に吹き出した。それは実に、世を憚らぬ大あくびだった。
 この子は生きる……。
 おなかの底から湧きあがる笑い声を口から次々こぼしながら、私たちはそう確信した。
(p. 57-58)


もしかしたら、生まれてすぐに保育器に入れられた子どもの親には、
同じような体験をした人が多いのだろうか。

大あくびって、確かに、
危機に固く緊張していたいのちが、ふわっとほぐれてきたことを告げる
「生きるよ」という、子どもからのメッセージなのかもしれない。

今でも時々、真夜中にごそごそする気配に
「すわ、けいれんか?」と隣の布団から飛び起きて、覗きこみ、警戒しつつ見守っていると、

もぞもぞした挙句に、
眠りこけたまま「ふわぁ〜」と呑気なあくびを一つ。

「……むにゃぁ」と、
そのまま何事もなく深い眠りに戻っていくような時、

「ありゃま……」思わず笑ってしまう。

そして、そんな時、
いのちが一つ、そこにくつろいで生きて在る……ということが
ただそれだけで、心の底からしみじみと愛おしい。

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