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別のものが「本人のため」と言い換えられることの何が一番恐ろしいかというと、「本人のため」と言われてしまった時点で、それが「良いこと」になってしまうということです。何事であれメリットだけではなくデメリットだってあるわけですけど、良いことだとされるとデメリットに目が向きにくくなってしまいます。もしかしたら起こってくるかもしれないデメリットについて丁寧に考えて、その一つ一つに対策を立てておこうとする姿勢が持ちにくくなくなってしまうんですね。 それからもう一つ、一つのことが「本人のため」と正当化されてしまうと、最初はそこにあったはずの罪悪感とか抵抗感が薄れていって、他のことにまでどんどん拡大してしまう、ということもあります。こういうのは「すべり坂」と呼ばれていて、一歩足を踏み出してしまったが最後、あっという間にすべり坂を下まで転がり落ちてしまう。そんな危うい問題が今いろいろと出てきていて、議論も沢山行われています。 世界で障害者の周辺で起こっていることについては、私もあちこちに詳しく書いていますから、よかったら読んでみてください。お手元の資料に、いくつか参考を挙げてみました。特に職員の方に、ぜひ読んでいただきたいのは『アシュリー事件』の中の、生命倫理の言葉で言えば「本人の利益」をめぐる議論です。医療において何が「本人のため」かを見極めるために、誰がどういう方法と手順と基準でどのように考えて決めるべきか、世界中の生命倫理学者がもう何十年もかけて議論を続けています。何が「本人のため」かを見極めるのは、本当はそれほど難しいことなんです。この点については特に職員の方向けの資料を別途お配りしておりますが、医療職が専門性の名のもとに勝手に決めてよいというものではないですし、逆にアシュリー事件のように、親や家族だから本人のことを一番分かっていると言って勝手に決めてしまうことも、本当に本人のためかどうか、問題によっては単純ではありません。 だからこそ、いろんな立場の人が集まって、率直な説明があり、きちんと事実が共有されたうえで、皆で簡単に答えが出ない悩ましさを引き受け、考えなければならないのだと思います。これは、私たち保護者や家族にとっても、自分が死んだ後に、これからやってくる厳しい時代の中で、子どもたちの生活や医療について誰がどういう基準で決めるのか、という、とても大きな問題にもつながっていきます。こういう問題も、これからみんなで考えていかないといけないんじゃないでしょうか。 こんな恐ろしい時代だからこそ、私たちは重い障害のためにもの言えぬ家族のために、彼らの声となり、良き代弁者でありたいと思うんですね。去年の20周年の記念式典の時に、A事務局長が、時代とともに変わらなければならないものがあるが、変えてはいけないものもある、という話をされましたけど、それが伝統というものだと私は思うんです。人は異動で変わります。人が変われば多くのことが変わるのは避けられません。時代ももちろん変わります。それでも、その中でも守っていかなければならないものはなにか、少なくとも守ろうとしなければならないもの、守ろうとしたいものはなにか、ということを園と保護者や家族が一緒に考えていければ、それがこれまでに多くの人が苦しい思いをしながら築いてきた療育園の伝統を繋ぐことでもあり、これから先に向けて、園と保護者や家族との信頼関係を作っていくプロセスそのものなんじゃないでしょうか。 保護者の中には、お世話になっているのだから園には何も言えないとか言ってはならないと考えておられる方があるかもしれません。私は、言えば分かってもらえると信頼するからこそ声をあげられる、と考えてきました。実際、そうして保護者が挙げた声で変わってきたことは、今お話ししたように沢山あります。もしも保護者が、声を上げれば変えられることがあるかもしれない、と信じていられるとしたら、それ以上の信頼はないんじゃないでしょうか。私は、信頼しているからこそ声はあげられる、と考えたいと思います。 私が今日お話ししているのは、私たちが園に来ることができなくなった後、死んだ後にも、どの人も大切にされて笑顔で暮らせる療育園の文化と伝統を、子どもたちのために作っておいてやりたい、ということです。そのためにも、知るべきことをきちんと知り、目の前に起こっている出来事の表面だけでなく物事の本質をきちんと見抜いて、しっかり考え、本当の意味での信頼関係を園との間で築いていける保護者会でありたい、と思います。 これは本来なら、一昨年の11月に入浴時の手袋着用が問題となった時に、きちんと保護者の皆さんにご説明すべきことでした。それができなかったことを、私はずっと悔いにしてきました。あの時も問題は、手袋を着用するかどうかというような表面的なことではありませんでした。一昨年の秋に私たち夫婦が園長宛に書いた手紙を、いまさらですが資料としてお配りしておりますので、また後で読んでいただければと思います。園長を始め、師長、課長には、あの時に保護者が訴えたことをその後きちんと受け止めていただき、感謝しております。この手紙でお願いした中の、園長をはじめドクターにもっと園にきていただきたい、いていただきたい、インフォームド・コンセントの意識をしっかりもっていただきたいという点については、ここで重ねてお願いしておきたいと思います。 今日のこの場は、こうした経緯を踏まえ、役員の方々と相談させていただいて、園と保護者との信頼関係の新たなスタートとなればと、設けさせていただきました。 今日はどうもありがとうございました。 保護者の一人でありながら、 このような場でこうしたお話をさせていただいたのは、 もちろん敢えてやらなければならない事情があると判断したためですが、 保護者にも職員の方々にも、果たして受け止めてもらえるのかどうか、 ずいぶん前から準備しつつ、正直これもまた、とても恐ろしい体験ではありました。 でも、なんとか多くの保護者に受け止めてもらえたように思います。 この後、午後からは「節分の会」。 みんなそれぞれの「退治したいオニ」が紹介された後で、 (ミュウのは「ときどき甘えたくなるオニ」でした) 例年のごとくに スタッフが扮するオニが登場し、 みんなで豆に見立てた新聞紙のボールで退治するのですが、 今年は、むちゃくちゃ迫力満点の恐ろしげなオニが混じっていると思いきや、 利用者のお兄さんが全身黒づくめの上に、地元で借りてきてくださった神楽のお面や衣装をつけ、 わざわざ山に取りに行かれたという太い竹を手に、オニを演じてくださっているのでした。 優しげな手作りのお面のスタッフ・オニは完全に存在がかすんでしまいましたが、 家族がスタッフと一緒にオニに扮して行事を盛り上げてくださる場面は、なんとも良いものでした。 見るからに恐ろしい所作で、それぞれの前に顔を近づけて脅したり、 「豆」を投げつけられては、ぶっ倒れたりしながら、ミュウの側を歩いていかれる時に ぼそっと「前が見えん……」とつぶやかれたのが、おかしかった。 おかげさまで、今日は本当にいい一日になりました。
みなさん、ありがとうございました。 |
日本の重症児
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その同じ教訓を、当時の療育園もリハセンターも同じように学んでくださいました。これは本当にすごいことです。14年前に思い切って声を挙げた時、私は現場の一部のスタッフから「理不尽なモンクをつけるクレーマー」にされました。でも、そのクレーマーの言うことに真面目に耳を傾けてくれる人がちゃんといて、これはただのモンクではなく本質的な問題提起だと理解し、組織として対応してくださった。組織というものが、いかに自己防衛的になりがちかを考えると、療育園もリハセンターも本当にすごい組織だと思います。 その時に、多くの改革が実行されたことは、去年、前園長がお話しくださったとおりです。前園長が「保護者とともに」という文言を含む療育園の理念を作ってくださったのは、この時のことです。今、子どもたちの帰省のときに私たちが持ち帰る連絡ノートがありますが、あのノートができたのもその時ですし、保護者会役員会が定例化され、そこで幹部職員と役員とが毎回一緒に話し合うようになりました。年に一度の個人懇談ができ、カンファレンスに保護者が出席したり、意見を反映してもらえるようになったのもこの時からです。職員研修会で年に1度、療育園の保護者が持ち回りで体験や思いを語るようになったのも、その時からのことです。 S先生はご自身のことは言われませんでしたが、前園長ご自身、あの事件の後、保護者の多くが本当に心から頭が下がる思いになったほどの努力をしてくださいました。そんなふうに多くの人が傷つきながら、本当に血のにじむような思いで作ってきたものが、今の療育園には沢山あります。前園長が「あの時があるから今の療育園がある」と言われたのは、そういう意味です。 保護者会もその時を境に大きく変わりました。保護者会そのものは、ウチの娘が入園した20年近く前にもあったんですけど、当時の保護者会というのは年に1度の総会で講堂に集まって地区のグループごとに役員を選ぶんですね。それから、面会に来る時にはスリッパを持ってくるように、とか、面会の時にはおやつを食べさせ過ぎないように、とか、いってみれば、園の側から保護者に対して伝達事項が伝えられる場でしかなかったんですね。 私は保護者が意見を言える場はないんだなぁ、と思ったものですから、年に1度でいいから園と保護者とが対等に話し合いができる場を作ってほしい、と折を見ては要望するようになりました。何年かそういうことを言い続けた頃に他の保護者も一緒に言ってくださるようになって、言い始めから7年めくらいに茶話会ができました。今、年に1度、療育園で当たり前に行われるようになっている茶話会は、そんなふうにしてできたものです。だから、あの茶話会を園からの一方通行の説明や情報伝達の場ではなく、双方向のコミュニケーションの場として大切に守っていきたいと私は思っています。 14年前の大きな出来事があった時、そんなふうに保護者会も少しずつ成長し始めているところでした。当時はHさんが会長で、この出来事を無駄にしてはならないと言ってくださって、役員会がとても活発になりました。いま研修施設などを利用して家族が宿泊する制度がありますが、これはH会長の時代に役員会が尽力されてできたものです。次にKさんが会長をされた時代には、指定管理者制度と障害者自立支援法という大きな危機がありました。保護者会で勉強会や講演会を開き、役員数名で県庁に訴えに出かけたり、K会長は何度も仕事を休んで他の施設の保護者会との協議会に出てくださいました。その後、現在のI会長になってからは、ずっと懸案が山積みのままだった行事のあり方について、一つずつ問題を整理してこられました。 今の療育園では、子どもたちもスタッフも笑顔が沢山あって、少しでも豊かな生活を送らせてやろうとのスタッフ皆さんの思いが本当にひしひしと感じられて、私もいつもありがたいと思っています。それは毎回の行事や廊下に掲示された写真からも分かりますが、ついこの前も、娘を送って帰ってきた時に、奥のBのお部屋(療育園の中でも特に重症の人たちが暮らしている部屋)の子どもさんが、職員の方とゲームのWiiで野球をしておられるところでした。ああ、こういうことをしてくださっているんだ、と嬉しかったです。それから同じくBのお部屋の子どもさんを育成課のスタッフが散歩に連れて出られる場面に通りかかったこともあります。「呼吸が苦しくなったらすぐに帰ってきてね」と看護課の方が見送っておられました。医療の支えがしっかりあるからこそ生活を広げることができるんだなぁ、ということを改めて思い出させてもらう場面でした。いつも本当によくしてくださると思います。 だから、私はここで、保護者はもっと何でも園にがんがんモンクを言いましょう、と焚きつけているわけでは全然ないです。今どんなに良い状況にあっても、人が変われば組織というものはここまで変わってしまうのか、という恐ろしさを、14年前に保護者は身に沁みて体験しました。だからこそ、日頃から信頼関係を作っておくことが必要だと思うんです。人が変わるだけでなく、時代も変わります。時代が変わることによって、同じ人でも変わらざるを得ないこともある。今、そのくらい厳しい時代がこようとしています。 このところの制度改正については園からも何度か説明がありましたが、私も何度読んでも聞いても、細かいところがどうなっているのか分かりきらないです。それくらいここ数年の障害者福祉制度はコロコロと変わっていますし、まだ変わっている最中でもあったりします。細しいことはともかく、ごくざっくりしたお話をすると、これまでずっと日本の障害者福祉の中では私たちの家族のような重症心身障害児者には、特別枠みたいなものが設けられていたわけですね。それが今度は成人した後についてはその特別枠が取っ払われて、他の障害者と一括で同じ扱いになった、ということだと思います。 守る会などが必死の運動をしてくださって、目に見えるところでは当面は今までと同じ生活が守られてはいますが、見えないところではいろんなことが変わっています。それが先日の集まりで話に出た、スタッフの方々の腰痛問題のようなところにしわ寄せとして顕われている、ということでしょう。特別枠が取っ払われたということは今後に向けた布石が打たれたということですから、今後はこれまでのような優遇がなくなっていくだろうことは十分に予想されます。またコイズミ改革からこちら、障害者や高齢者の周辺で、医療も福祉も切り捨てが広がっていることは、それぞれに感じておられることだろうと思います。つい先日も、医療経済学者の中から「今の経済状況で寝たきりの人にこれ以上お金を使うのはいかがなものか」という声が出ていました。いま私たちが直面しているのは、そういう恐ろしい時代です。 じゃぁ、日本の政治が悪いのか、ということになると、これがそう単純な話ではないんですね。この前アルジェリアの人質事件がありましたが、あれなんかもそうですけど、これだけ世界経済が地球規模に拡大したグローバル世界では、日本で起きていることだけが世界で起きていることと無縁・無関係ではあり得ない時代になってしまっています。そこで世界では障害者の周りで何が起こっているか、ということが気になってくるわけで、私はここ数年、そういうことを調べては書くというのが仕事になっているので、ついでにちょっとだけお話しさせてもらうと、まず私たちにとって気になるのは、「パーソン論」という考え方が広がり始めていることだろうと思います。 「パーソン」というのは日本語にすると「人格」なんですけど、ただ動物としてのヒトであるだけではなく誰かが「人格」のある人間として認められるためには、その人には理性とか自己意識とか一定の知的な能力がなければならない、という考え方です。この考え方からいけば、私たちの家族のような重い知的障害のある人は、ぶっちゃけた話、人間として認める必要がないことになってしまうわけです。 一例として、アメリカで2004年にあった事例をご紹介すると、6歳の重症心身障害のあるアシュリーという女の子に手術をして、病気でもないのに子宮と乳房を取ってしまって、さらにホルモンをじゃんじゃん投与して身長が伸びるのを止める、ということがされました。これに「アシュリー療法」という名前をつけて世界中の重症児に広げていこうとしている人たちがいて、実際に少しずつ広がってもいるのですが、彼らが言っているのは、アシュリーのような重症障害児というのはどうせ何も分からないんだから、他の人みたいに尊厳なんて考える必要はないんだ、ということです。つまり、パーソン論なんですね。それよりも介護しやすい身体にしてあげるほうが、本人のためだ、というわけです。 欧米の医療では、重症障害のある人は病気になっても治療せずに死なせたり、病気ですらなくても手をかけて殺してあげるのが本人のためだという話が出てきています。そういうことが起こっている国というのは、本当は国が医療費や福祉の費用を削りたいんじゃないのかと私は個人的には思うんですけど、そうは言わないんですね。そうではなくて、こんなに重い障害を抱えて生きるのは不幸でかわいそうだから「死なせてあげるのが本人のため」だというんですね。慈悲殺、という考え方です。ここでもまた「本人のため」という言い方がされます。何か別のものが「本人のため」と言い換えられることは、こんなふうに実はとても恐ろしいことなんです。 (次のエントリーに続く) |
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ミュウがお世話になっている療育園の 保護者会研修会でお話しさせていただきました。 聞いてくださったのは保護者と職員の方々です。 おはようございます。今日はお集まりいただいて、ありがとうございます。親だけでなく、いろんな立場の方がおられますので、案内の葉書では敢えて「家族」という言葉を使っていただきましたが、これからお話している内には、言い慣れていることもあって、つい保護者・保護者会・子どもたちという言い方を(既に成人している人が多いんですけど)してしまうと思います。私の意図としては保護者の中に、おじいちゃん、おばあちゃんやご兄弟を含め、広く家族を含めて使っていますので、その点、ご理解ください。
いま保護者会の役員さんから、簡単に経緯をご説明いただきましたが、もう10年以上前から、私にはずっと保護者・家族の皆さんにご報告すべきことというのがありました。ずっと、お話ししなければと感じていながら、なかなか果たせずにきたものです。 去年9月に療育園の20周年記念行事が行われた際に、前園長であるS副所長が「20年の歩み」と題したお話の中で、保護者との間で起きた出来事を語られました。当日おられなかった方もあるかと思いますが、だいたいのお話は、医療を一生懸命にやるのが医師としての本分だと思って現場のことは現場に任せていたところ、保護者の不満が大きくなって対立が起こり、それを機に園長として奮起して多くの改善をした、対立が起きた時には針のむしろに座っているような辛い思いをしたけれど、あの時のことがあったから今の療育園がある、というお話でした。その最後を、S先生は「保護者とともに」という姿勢を忘れないように、と言われ、これからの療育園を担っていく次世代のスタッフへのメッセージとしてくださったわけです。 S先生が「針のむしろだった」と言われたように、私にとってもあの時の出来事は、リハセンターという県立の大きな組織を向こうに回して一人で闘わなければならないという、考えるだけでも身が竦むような恐ろしい体験でした。何ヶ月もの間、私たち親子は、本当につらい思いをしました。もちろん私たちだけではなく、多くの人が苦しみ、深く傷ついた大きな出来事でした。 本当に遅ればせになってしまいましたが、今日まず最初にお話しさせていただくのは、保護者の側から見た、その時の出来事です。ここでお話ししきれないことも沢山ありますので、それについては『海のいる風景』という本にあらまし書いていますので、10年前の旧版とその後のことを追加して去年出した新版とがあるんですが、読んでいただければと思います。 今の療育園からはまったく想像もできないことですが、療育園にはずっと昔、入園している子どもたちから笑顔が消えてしまった不幸な時代がありました。最初は、最近、園の中が静かになったなぁ、という漠然とした印象でした。いつのまにか子どもたちへの食事介助が無言で行われるようになっていました。着替えも無言です。子どもたちへの声掛けがなくなり、スタッフの方同士が冗談を言い合うようなこと場面も見なくなって、黙々と機械的に「業務をこなしておられる」というふうに見えました。 それから管理が強化されて、子どもたちの生活が制約されるということが増えました。例えば、学校から外出する予定の日の朝になって、定期の採血があるからこの人はダメです、といってストップがかかる、というようなことです。以前なら、学校からの外出はこの子たちにとって滅多にない機会だから、定期なら採血なら予定の方を融通してもらえていたのですが、なにかにつけ問答無用で「ダメです」「できません」とつっぱねられる。そういうことが増えてきた。園の姿勢がなにか、どんどん管理的、事務的、高圧的になり、それと同時に子どもたちに無関心になっていく感じがしました。 ウチの娘は自己主張が強くて、家に帰ってくると言葉はなくても音声と指差しと顔と全身を使って「ああしろ、こうしろ」と要求しまくり仕切りまくる子なんですけど、その頃、家に連れて帰ってもテレビの前でじっと指をくわえて、ぼ〜っと寝ころんでいるようになりました。何も要求せず、何も言わず、ただ無表情にじっとしているんです。もう誰にも何も期待しなくなったみたいな、何もかも諦めてしまったみたいな、あの時の娘の姿を思い出すと私は今でも胸が締め付けられる思いになります。療育園に入所している人たちは重い障害があって思いや気持ちを表現することはできにくいけど、それだけに多くのことを鋭く見抜き、感じていますよね。異変が起きたのはうちの娘だけではなくて、落ち着きをなくした人、胃が痛くなった人、髪の毛が部分的に抜けてしまった人もありました。 この不幸な時代に療育園で起こったことは他にもいろいろありましたが、問題なのはそうした一つひとつの具体レベルで何があったかということではなく、それらの背景にあった姿勢であり意識だったと思います。重い障害のある人のケアでは、医療と生活の間に常にせめぎあいがあります。私自身、ミュウは幼児期に3日と続けて元気だということのない子でしたから、この子を病気にしない配慮と、少しでも豊かな経験をさせてやりたいという思いとの間で、いつも葛藤していました。そこには「これが絶対に正解」というものはないし、その両者のどこで折り合いをつけるかというのは、いつもとても悩ましい。親はいつでも結果論で自分を責めなければならなかったりもしますが、でも、その悩ましさを私が引き受けなければ、この子の生活はどんどん失われていく、と私はずっと考えていました。 14年前に療育園で起こったことの内、最も重大だったことというのは、そういう葛藤を放棄されたことだったと思います。ただリスクを排除していくことを考えられて、その結果、医療と生活のバランスが大きく医療の側に傾き、当時の療育園は病院になってしまいました。もちろん、ここで暮らす子どもたちにとって医療はとても大事です。私は決して医療を軽視するつもりはありません。でも、ここは医療さえ行われればよい病院ではなくて、子どもたちが日々を暮らす生活の場なんです。無表情になったり髪が抜けるほど子どもたちを傷つけていたのは、子どもたちを医療の対象としか見ない意識でした。身体しか見ず、生活にも心にも心の痛みにも無関心な眼差しに、子どもたちは傷ついていました。 子どもたちへの無関心は保護者への無関心と地続きになっていきます。当時起こった重大なことのもう一つは、「保護者に説明する必要はない」と、保護者から隠されたことがあった、ということです。でも、隠すと、どうしてもつじつまが合わないことが出てくるんですね。それで今度は、隠したという事実を隠さなければならなくなる。つじつまが合わないことはさらに広がります。そうして、ついに保護者が声を上げた時には、もうつじつまなど合いませんから、これはどこの組織でも同じパターンなんじゃないかと思うんですけど、出てくるのは「子どもたちのためにやったことだ」という正当化と、専門職として判断したことだという専門性の強調ですね。 声を挙げた保護者に対して、当時の師長さんは「子どもたちの安全と健康のためにやったことです。間違った判断はしていません」とつっぱねられました。一方で、その同じ師長さんが園内では「業務がはかどるようになって職員は喜んでいます」と発言されていました。 専門性の名のもとに、本当は本人以外のためだったり、少なくとも本人のためだけではないことが、本人たちのためだと言い換えられる時、その姿勢は、都合が悪いことは隠すという姿勢と地続きです。そこにあるのは「保護者は余計なことを知らず黙っておいてくれればいい」という意識でしかなくて、保護者が何を心配しているのか、その心配と向き合って一緒に子どものことを考えようという気持ちがそこにはないからです。保護者は子どもたちに起きた異変が心配だと訴えたわけなんですけど、「子どもたちの安全と健康」を考えていると言われる師長さんが、その異変には全く関心を示されませんでした。 当時の師長さんは、子どもの一人がベッドから転落するという事故が起きた時に、その場でかん口令を敷かれました。この事故についてはその場にいた者以外には漏らさないように、とその場で口止めをされたわけです。これは本当に恐ろしいことです。保護者に説明する必要はない、という姿勢には、最初はどんなささいなことから始まるにせよ、いずれはここへ行きつく危うさが潜んでいると私は思います。 信頼関係とは結果ではなく、プロセスなんですね。事故が起きたから、その結果として信頼が壊れるのではなく、信頼関係を大切に築いていこうとするプロセスがなかったから、事故が起きた時に隠さなければならなくなった。それが、14年前に起きたことの本質であり、これは保護者として決して忘れてはならない、あの不幸な時代の教訓だと私は思っています。 (次のエントリーに続く) |
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ある方から、この本のことを教えてもらった数日後、 そのことを全く失念したまま図書館へ行き、まったく別の本を探していたら、 棚のずいぶん下の方から誰かに呼ばれている感じがした。 で、なんとなく呼ばれるままに目をやったら、 そこにいたのが、この本だった。 「あらま、あんたってば、そんなところにいたの……」と驚き、 これはただの偶然ではあるまいと、さっそく借りて帰ったら、 やっぱり、なんとも素敵な本だった。 滋賀県の第二びわこ学園で 1979年から定年退職する2003年まで粘土室の主任を務めた田中敬三氏が、 びわこ学園の「園生さん」たち(と著者は当時の呼び方のまま書いている)が 粘土の世界で見せる素晴らしい笑顔や表情や変化をつづったもの。 それは例えば著者が以下のように総括する世界。 園生さんが好む硬さに粘土を練っておくのが私の仕事、また私は園生さんが好む「おもちゃ」の提供者にすぎません。造形という点からすれば、指導できない指導です。
園生さん一人ひとりに個性があって、表現方法にも個性があり、粘土でのあそび方や作品にもそれぞれの顔が出てくる。粘土は、その一人ひとりにうまく対処してくれたのです。 にゅるにゅる、ねちゃねちゃ、ぬるぬる、むにゅー。 「園生さんの粘土の世界は「な行」の世界やなぁ」 「だったら、「にゅにゅにょ」というのはどうや」 粘土活動の初めての記録冊子をつくる際、タイトルを考えていたら職員からそんなアイデアが出されました。粘土の世界は、「にゃにゅにょ」の世界。一人ひとりにあわせ、自在に変化する何ともおもしろい世界です。 (p.141-142) それぞれに重い障害を持つ「園生さん」たち一人ひとりが、 どのようにして粘土と出会っていったか、 粘土とどのようにやりとりしながら、どんな作品を作り、 どんな表情を見せたか、丁寧につづられる文章を読み進んでいくと、 著者は作業療法士ではないけれど、 それでも生まれついての作業療法士だったんじゃないかなぁ、という気がしてくる。 なにしろ、この人は粘土室の初期から、 こんなことをさらりとやってしまう人なのだ。 ……自発的に粘土にふれられない重度の障がいがある人には、反発力のある固い粘土はやはり受け入れがたいものでした。そこで私はクリームのようなキメの細かい粘土を用意しました。職員がこのつるつるの粘土で園生さんの手をなでます。これだと、重度の障がいをもつ園生さんも、手をひっこめることなく、心なしかうっとりして見えます。
次にこの粘土でお互いの手と手をくっつけ、引き離そうとしてみます。しかし、間に空気がなくすっかり密着してしまっていて、離そうにも離れません。このときの粘土は「接着剤」です。 手と手をくっつける時に空気が入っていれば、これを押すと、お互いの手の間から「オナラ」が出ます。プッという音、振動、空気の動く感触。重い障がいを持っている人でも、この思わぬ刺激をしっかり受け止めているようです。 (p.63,67) そのため、目の見えない人も音や感触で粘土遊びに熱中する。 自閉傾向があり、服を何枚も頭からかぶって中から自分で締め上げて、 脱がそうとすると自傷行為に至る泰代さんの場合には、著者はまず ひも状に伸ばした粘土を一本、頭の上に置く。そして、また一本。 本人が次を期待し始めるのを見ながら、次々に頭の上に載せていく。 「重さが心の安定をもたらしてくれるのだろうか」という著者の観察に、 私はかつて訳したことのある感覚統合のテキストの一節を思い出した。(ちなみにこれ) 75ページに粘土のひもを何本も頭から垂らした泰代さんの写真がある。 服から出した顔はくつろぎ、うっすらと微笑んでいる。目には、そこはかとなくチャメまで漂う。 この本には、こうした素晴らしい表情や笑顔の写真が沢山おりこまれている。 一人ひとりの体臭まで立ち上ってきそうなほど生き生きした写真ばかりだ。 撮影者は著者自身。 田中氏はその後、粘土室にもみ殻や麦や大豆をもちこんで、 感覚遊びをさらに発展させていく。これもまた、まさに作業療法の世界――。 以前、OTさんの世界を仕事でちょっと覗かせてもらった時に感じたのだけれど、 作業療法というのは医療の中では最も患者にも患者の生活にも近いところにいて、 いわゆる「専門家」の世界に懐疑だらけの「重症障害児の母親」をやってきた私には ずいぶん魅力的な領域に思えたものの、 作業療法の世界の人たちを見ていると、 もともとOT的な感性なのか資質なのかを持っている人が 教育や研修によって身につけた知識やノウハウや技術を通じて 自分の感性や資質を開花させた時にものすごい力を発揮するOTに化ける反面、 基本的なOT的感性なのか資質なのかを全く欠いた人が 教育や研修によって知識やノウハウや技術を身につけると、 知識やノウハウや技術に縛られてPTみたいなOTにしかならない……のかな、と思ったことがある。 それはどこかで、学校の先生とか医療職とか支援全般とか、 人と関わり人とかやり取りを通じて相手に働きかけていく仕事に就く人に 共通して言えることのような気がしないでもないのだけど、 そういうことも含めて、田中敬三という人は生まれながらの作業療法士、 それも感覚統合的な感性や資質をたっぷり持った人なんじゃないかなぁ……と思う。 ウンチを触って遊ぶ人と一緒に粘土でつくったウンチで遊んでみたり、 紙をちぎるのが好きな人には粘土の紙をいくつもちぎってもらって その積み重ねが「作品」になったり、 著者は一人ひとりの「その人」をしっかり「見る」こと「感じる」ことから その人と粘土のやりとりのヒントを見つけ、そこから、その人の感覚や遊びを広げていく。 あくまでも自分は媒体となって――。 中でも「わっ、すごいっ」と思わされた一人が 硬直型の寝たきりで、自由に動かせるのは左足だけ……といった英史さん。 彼は寝たまま左足裏の感覚だけで粘土を少しずつ長く伸ばすことを根気よく模索し、 ついに3メートルにも及ぶ粘土の巨大なヘビを作ることに成功する。 また田中氏が、いくつもできた彼の3メートルの作品を焼くために、 独自に窯を研究・工夫し、信楽まで出掛けて窯を解体する作業をしてはレンガを集めて 2年もかけて窯を作ってしまうと来る。 なかなか、ここまでできるものじゃない。 こんなことは研修や努力でできることでもない。 さらに、こういう人が職員にいたからといって、 重心施設の一角に「粘土室」を作って専従の職員に据える……などという 思い切った人の使い方ができる施設が、そもそも、なかなかあるものじゃない。 (さらにこの先は、そんな現場の裁量が許されない時代になっていくんだろうなぁ、悲しいなぁ……) この本に描かれているびわこ学園は、高谷氏の前任者の時代のようだけれど、 高谷氏の新書で重症児・者について読む人たちに、ぜひこの本を合わせ読んでもらって、 この本にたくさん掲載されている写真で 「園生さん」たちが粘土と取り組む姿と表情を一人でも多くの人に見てもらって こんなにも生き生きとした姿を見せる人たちのことを 初めて見た人の多くが恐らくは「何も分からない」「何もできない」人たちだと 何の疑いもなく思いこんでしまうのだという事実について、 そして「こういう人が生きていて幸せなのか」「生きているのはかわいそうではないか」と 勝手に思いを巡らせてしまうのだという事実について、 改めて考えてみてもらえたら、と思う。 また、ミュウを始め、私が直接知っている重症児者の姿を ありのままに描いてみようとする試みのエントリーは 「A事件・重症障害児を語る方に」の書庫にあります。 この書庫のエントリーを読んでくださる方の中には ミュウの障害はそれほど重くないようにイメージされる方も、 ミュウよりもっと重症の人だっている、とそちらを問題にされる方もあるかもしれませんが、 ミュウは、 初めて見る人の多くが「何も分からない子」と思いこまれるであろう、 寝たきり全介助、言葉を持たない24歳です。 知らない人が見たら「何も分からない」「何もできない」と思われてしまう、
(もしかしたら医師の中にだってそう考えている人がいるかもしれない)ミュウが、 実際は、こういう人として日々を暮らしているのだということの意味を考えていただければ。 |
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前のエントリーからの続きです。 一つだけ、もしかしたら アシュリーやミュウが重症身障害児・者の幅広いグラデーションの中では むしろ「軽い」方に類するから、という面はあるかもしれないのだけれど、 重症障害児・者の「意識」について書かれていることの中に、 親としては、ちょっともどかしい気分になるところがある。 それは例えば、 20日のエントリーで、トリソミー13の子どもの意識状態について 倫理委からの問い合わせを受けた遺伝学の専門家の 「言葉を話したとか、親が『この子は分かっている』というのは聞くが、 それが事実かどうかは自分にはわからない」という応えを読んだ時に感じる、 隔たりと、もどかしさのようなもの。 もちろん著者はこの人のように「事実かどうか自分にはわからない」と突き放してはいないし、 著者なりの分かり方で誠実に分かろうとしている。 「どうせ何も分からない」「赤ちゃんと同じ」と決めつける人たちの対極にいるという意味では 高谷氏はもちろん私たち親と同じ側にいる。 親の言う「この子なりの分かり方」と、 著者のいう「内在意識」と「関係的存在」の間にある「分かり方」とには なお隔たりがあるような気がする。 その隔たり感をなんとか言葉で捕まえたいと、あがいているうちに、 このエントリーを書くまでにずいぶん時間が経ってしまった。 今だにそれを説明する言葉を獲得できないことが、さらにもどかしい。 とりあえず、 その隔たりは、もしかしたら、 医療の中から生活を見ている人と、 生活の中に共にどっぷり浸かっている者の隔たりなのだろうか……と考えてみる。 実際に自分の身体でその子(人)を直接ケアすることを通じて、 あるいは一定の期間その子(人)と生活を共にすることによってしか、 つまりは頭や理屈ではなく自分の身体で納得するしか知りようのないこと……というものが 世の中にはある、ということなのかもしれない。 重症児・者の「わかっている」というのは、 そういう類いのことなのかもしれない。 そんなことをぐるぐるしながら、、 「重い障害を生きるということ」や「痴呆を生きるということ」で書いてもらえること、 「逝かない身体」でしか書けないこと……ということを考えている。 「説明できること」と「描くしかできないこと」……について。 その辺りのことは、 この本からもらった宿題として考え続けてみたい。 重い障害のある人、認知症の人の生を 「生きているのがかわいそう」だといい「自分がそうなったら死んだ方がマシ」と言っては 価値なきもの、「社会の負担」として切り捨てようとする包囲網が じわじわと世界のあちこちから狭められてきている。 そして、それにつれて世の中が寛容や品性を失い どんどん殺伐とした冷酷な場所になっていく。 包囲網が狭まる速度は、 このブログでニュースを拾ってみるだけでも日々加速していて、 ヤキモキ、ジリジリしてしまうほどだ。 この本を読んだ直後に、某所で高谷氏の言葉に触れた。 その一節に書かれていたのは「思想的対決が必要」――。 その対決では、専門家にしか言えないこともある。 当事者や家族にしか言えないことだってあるはずだ。 だから、 私も共に闘う。 私はここで、このブログで――。 そう心に念じ、武者震いした、 「重い障害を生きるということ」と真摯に向かい合おうとする医師との出会い――。
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