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ショックだ……。 1ヶ月前に何の前触れもなくPCがぶっ壊れて たまたま前の日に3本も書いて寝かせていたエントリーの原稿がオジャンとなる、 という悲惨な体験をした。 もちろん今さら、 その時のショックを書きたいわけではない。 一生懸命に書いたのに消えてしまった幻のエントリーの1本は、 あんまり悔しいので7月23日の補遺でスペースをとって せめて概要のみを書いた以下の話題だった。 カナダのTayor訴訟やアイルランドのFleming訴訟にもかかわった
「死ぬ権利」擁護派の米ユタ大学の生命倫理学者 Margaret Pabst Battin と 四肢まひの夫との穏やかな「最良の時間」。(ビデオがとても良いです) 自転車事故で四肢まひ、人工呼吸器依存となった夫が死にたいという意思表示していたのに、 Battinは夫が急変した際には救急部に運び込んで救命した。 その後、大学教授の夫は呼吸器をつけたまま講義を再開し、 生きていることを喜びながら暮らしている。 Battin自身も現在の夫婦の生活は2人で過ごした「最善の時」だと語り、 時に夫が痛苦から死にたいと願うことがあるが 「彼が本当に本当にそういうところに至ったと私が確信できるまでは」と。 BioEdgeのCookは「愛され十分なケアを受けられる患者は生きたいと強く、 揺らぐことなく望むようだ。死んだほうがましだと絶望する瞬間はあるが、 実際に死を選ぶ瞬間は決して訪れることはないように思われる」 「自律がそれほど明確な原理なら、このケースではどうして機能しないのだろう? もし機能しないなら自律原理には一貫性がない。一貫しないなら捨てるべきでは?」。 NYTのビデオでのBattinの静かな語りがとてもいいんだけれど、 ビデオを見ると、夫のRobertさんには24時間体制でプロの介護士が付いていると思われ、 「愛され十分なケアを受けられる」以外に「家族に過剰な介護負担がかからないこと」も 患者が生きたいと願うことができるための条件なのだろうな、とも。 http://www.nytimes.com/2013/07/21/magazine/a-life-or-death-situation.html?hp&_r=2&pagewanted=all& http://www.bioedge.org/index.php/bioethics/bioethics_article/10608#comments ところが、先週のBioEdgeによると、 夫のRobertさんは7月27日に突然気持ちを翻し、 もう明日はいらないから、人工呼吸器を含めて一切のスイッチを切ってくれ、と希望。 ホスピスがモルヒネを処方し、窒息死した、とのこと。 Battinさんは、 You can’t assume that "all choices are alike," she says, "so you have to be alert to what someone deeply wants." She believes "in honoring a loved one’s wishes," she says, her voice dropping, "even if it is painful to you." And, she adds, it is.’
すべての選択が同じようなものだと決め付けてはいけません。だからこそ、 愛する人の望みを尊重するにあたっては その人が心の奥深くで望んでいることには敏感にならなければならないのです。 たとえ、それがあなたにとって苦痛なことであったとしても。 そして、本当に苦しいことなのですよ、それは。 ショックだ……。 人の心はこんなにも揺れ動くのだ、ということが。 そして、 そんなにも揺れ動くものである人の心が 一方に大きく振れて、それを口にした時に、 一定の状態にある人では、こんなにも簡単にそれが実現されてしまうのだ、ということが。 2人の姿がNYTに報じられたのは7月17日だった。 その、わずか10日後の出来事だ。 さまざまに反響もあったろう。 その中には意に染まない、不愉快な反応だって見聞きしたことだろう。 いきなり全国的な(国際的にも)注目を浴び、戸惑いもあったろう。 そんな大きな出来事があって、その余波のさなかにある時には 健康な人間だって気持ちが不安定になるものだろうに。 介護者であるBattinさんの方だって、 そういう非日常が起こっているさなかのことなら、 日ごろよりもなおのこと心は揺らぎ動いているのだろうに。 この結果でもって これもまた「自律の原理が尊重された事件」ということになるんだろうか。 (私なんか日本の片隅で地味な本を1冊出しただけで、 大変な気分の不安定に陥ってしまってるのに。 仮にも世界のNYTに大きな記事とビデオで出てしまったんだから、
そりゃ、どんな人だって平静ではいられないのが当たり前なんじゃないかなぁ。 そういう非日常でハイになった後には、必ず揺り戻しがくるような気がするし。 そういう非日常時の「もういい、死ぬ」を冷静な判断だと受け止めて 応えてしまって、本当にいいのかなぁ) |
尊厳死
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数日前から多数の報道がある一方で、 詳細が出てこないので様子見をしていた たいそう気になる英国の事件。 西サセックス州、Chichesterの65歳の女性と25歳の息子が 71歳の夫(父親)をディグニタスへ連れて行こうと計画した容疑で逮捕された。 (その後、保釈中) 警察は現在、 Mental Capacity Act 2005に規定された同意能力が 男性にあるかどうかを調査中だとのこと。 自殺幇助合法化ロビーのDignity in Dyingが早速に こういう事件が起こるからこそ、きちんと法制化してセーフガードを整備し、 闇の自殺幇助を阻止しなければ、と主張し、 Falconer上院議員が提出しているPAS合法化法案の宣伝に努めている。 一方、合法化反対ロビーのthe Care Not Killing AllianceのPeter Saundersは この事件が示唆しているのは、認知症患者が自殺幇助の次なるターゲットにされるということだ、 と、ちょっと先走った記事を書いている。 http://www.telegraph.co.uk/health/10249308/Wife-65-arrested-over-plan-to-take-husband-to-Dignitas-clinic-for-assisted-suicide.html http://www.dailymail.co.uk/news/article-2396490/Wife-son-arrested-planning-fly-man-Switzerland-help-commit-assisted-suicide.html http://www.dailyrecord.co.uk/news/uk-world-news/mother-son-arrested-over-plan-2181912 http://alexschadenberg.blogspot.jp/2013/08/assisted-suicide-arrest-in-uk-reminds.html
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一方、米国で論争になっているのが、ペンシルベニア州でJoe Yourshaw氏(93歳)に請われて 処方されていたモルヒネをとボトルごと手渡したとして 自殺幇助の罪に問われている娘(看護師)の Barabara Manciniさんの事件。 公判中とて本人も弁護士もメディアには何も語っていないのに、 Compassion and Choiceがやたらと出てきて ぺらぺらと「代弁」しているのも気になるけれど、 多数出てきている記事をちら見すると、 被告への同情が集まり、裁判所の前に支持者が多数集まったり、 一気に自殺幇助合法化を求める声が高まっているような? http://abcnews.go.com/US/wireStory/advocates-rally-pa-assisted-suicide-case-19994598 http://www.timesnews.net/article/9066320/advocates-rally-around-pennsylvania-assisted-suicide-case 【関連エントリー】
警察が「捜査しない」と判断する、英国「自殺幇助起訴ガイドライン」の“すべり坂”(2011/7/15) 検死官が近親者による自殺幇助は見て見ぬフリ(英)(2011/8/25) 要介護状態の夫が、大動脈瘤で倒れた妻を病院で射殺。「慈悲殺か殺人か」論争に(2012/8/24) 「近親者の自殺幇助には温情」文化が広がっている(米)(2013/1/22) 脳卒中の妻への銃殺無理心中を、ホスピス幹部も家族も視聴者も「愛の物語」と絶賛(米)(2013/3/21) |
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世界医師会は 今年4月のインドネシア、バリでの第194回委員会セッションにおいて、 2002年10月の米国ワシントンDCでの第53回WMA全体会議で採択された 安楽死に関するWMA決議を再認した。 安楽死については Euthanasia, that is the act of deliberately ending the life of a patient, even at the patient's own request or at the request of close relatives, is unethical. This does not prevent the physician from respecting the desire of a patient to allow the natural process of death to follow its course in the terminal phase of sickness.
患者の生命を意図的に終わらせる行為である安楽死は、それが患者自身の求めによるものであれ、近親者の求めによるものであれ、非倫理的である。これは、病の終末段階において、死の自然なプロセスに任せたいとの患者の希望を、医師が尊重することを妨げるものではない。 1987年のスペイン、マドリッドでの第38回WMA採択の安楽死に関する宣言に書かれ、 2005年5月のフランスDivonne-les Bainsでの第170回委員会セッションで再認されたもの。 医師による自殺幇助については、 Physicians-assisted suicide, like euthanasia, is unethical and must be condemned by the medical profession. Where the assistance of the physician is intentionally and deliberately directed at enabling an individual to end his or her own life, the physician acts unethically. However the right to decline medical treatment is a basic right of the patient and the physician does not act unethically even if respecting such a wish results in the death of the patient.
医師による自殺幇助は、安楽死と同様に非倫理的であり、医療職は弾劾すべきである。誰かが自分の命を終わらせることを可能にすることを直接的な目的として、医師の支援が意図的に敢えて行われるならば、その医師の行為は非倫理的である。しかし、治療を拒否する権利は患者の基本的な権利であり、仮にこうした望みを尊重することによって結果的に患者が死ぬこととなっても、医師は非倫理的に行動したことにはならない。 1992年スペイン、Marbellaでの第44回WMA全体会議で採択されたPASに関する声明。 2005年5月にフランスの第170回委員会セッションで文言の編集が行われた。 The World Medical Association reaffirms its strong belief that euthanasia is in conflict with basic ethical principles of medical practice, and
WMAは、安楽死は医療の基本的な倫理原則に反するとの強い信念を再確認する。そして、 The World Medical Association strongly encourages all National Medical Associations and physicians to refrain from participating in euthanasia, even if national law allows it or decriminalizes it under certain conditions. WMAはすべての全国(各国内)医師会と医師らに対して、 たとえ国内法が許可し、一定の条件化で合法とされているとしても、 安楽死に参加しないよう強く勧告する。 |
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『読み解き「般若心経」』 伊藤比呂美 朝日文庫 いや〜、めっちゃ面白かった!! 表紙に「エッセイ + お経 + 現代語訳」とあるように、 カリフォルニア在住の詩人が熊本在住の老親の遠距離介護の生活の中から、 死について考え、そうした自分自身の必要からお経と出会い、お経にはまって、 お経について勉強しつつ、勉強したことを自分の体と自分の痛みを通過させて後、 自分自身の言葉でぐんぐん自在に読み解いていく、という趣向の本。 タイトルは般若心経だけれど、 いろいろなお経が読み解かれ伊藤比呂美語に訳されている。 私は「般若心経」と「白骨」くらいしか まともに読んだことがなかったから どれもこれも面白かった。 解説の山折哲雄氏は次のように書いていて、 「お経」というより「お経」のコトバの世界といった方がいいのかもしれません。仏教とか教義とか宗派とかいった次元の話を超えて、詩人の魂が「お経」の中に噴出する渦巻きのようなコトバ、迷路のようなコトバの海に反応し、それをもう一つの異次元のポエムの岸辺にたぐり寄せようとする涙ぐましい試み……
これは、宗教学者としては、 ここに伊藤比呂美語になったものは お経の正当な「現代語訳」とか「読み解き」とは認められないという さりげない否定なのかもしれないけれど、 でも、それが、どーした? と思えてくる。 ずううぅっと昔、 ものすごく苦しいことを抱えていた時に 京都で、ふらっと迷い込むみたいに東寺の境内に足を踏み入れたことがあった。 そして大日如来の前に立って、あの大きな像を見上げた時に、 ずっとずっとはるかな昔から、多くの人がこうしてやるせない思いを胸に、 こうしてこの像を見上げてきたんだ……ということが 思いがけない痛切さで実感された。 どの時代にも人々が もうどうしていいかわからない、これ以上生きていけない、というほどの思いを抱えて この大きな仏像を見上げ、すがり、救いを探したんだということが たいそう生々しく感じられて、そこにしばらく立ち尽くして、 自分自身の苦と向き合いながら、大日如来を見上げたまま、 そのことをずっと考え続けた。 この本を読み始めてしばらくして あの日のことが思い出された。 伊藤比呂美はそういう衆生の一人として お経と出会い、お経と向かい合っているんだと思う。 衆生や仏教を学ぼうとする人に向かって お経の意味を解説し説教する僧侶や学者の位置に立って 読み解いたり現代語に訳しているわけではなくて。 だって信仰し、お経を唱える人にとって、 お経って、もともとそういうものなんだと思うし。 「これまでこうして生きてきて、今ここにこうして痛みながら生きている自分」を 全部引っさげて、自分自身の「今ここ」に立ちながら、 その自分の「今ここ」のやむにやまれぬ思いの中に、 お経と出会わなければいられない必然を抱える人が そうして生きてきた自分やそうして生きている自分の体を通して 自分のお経と出会い、発見し、自分の体を伴った言葉にしている。 だから、ものすごい迫力があるんだ、と思う。 ……お経の解説書をいろいろと読んでみた。でもぜんぜん頭に入ってこない。つまらない。悟れない。生臭い。あたしが悪いのだ。でもあたしはあたしである、あたしが中心である、あたしなのである、という、やっと握り締めた実感を、手放してどうするのか。どうしようもなくなるであろう。
この人、田中美津みたいだ、と思う。 続いて著者は次のように書いている。 それでも父が目の前で、死ぬに死ねない。生きるに生きられない。母も、伯母も、そんなふうだ。
あたしがさんざん愛されて、あたしもさんざんかかわってきたこの人々が、いままさに死に向かおうとしているのに、手段を知らない。中有に浮いているような父や母や、それから叔母を、浮いたままでいいから、きちんと死の向こうに送り届けるためには、どうしたらいいのか。 (p.80) このちょっと前には 以下のような箇所もある。 まったくこの頃のあたしは、死に取り憑かれている。
何を読んでも、人の死に様ばかり目にとまる。 昔の人は、四十や五十でかんたんに死んでいった。それがどうして、今の世は、こうしてだらだらと、死ぬに死ねず、植物のように緩やかに死んでいかなければならないのか。 (p.79) だから、著者がずっと考えているのは 看取りの問題であり、終末期医療の問題でもあるのだけれど、 そこで書かれていることは、そういう言葉で捕らえられたり語られたりしている「問題」とは ずいぶん距離があるし、 誰かにとっての誰かの死というのは、 「要するに、こういうことを著者は言っている」と要約できるようなものじゃなくて、 だからこそ「あたしなのである」なのだし、あたしの痛みであり あたしの目の前にいるあたしの父の、あたしの母の、あたしの叔母の痛みであり、 だからこそ、お経だったんだ、 「学者が認める正しく解釈されたお経」ではなくて、 「あたしの腑に落ちる、あたしのお経」なんだ、と納得されたりもする。 「死の自己決定権」推進の立場の人たちがよく言うことの一つに ペットだったら苦しまずに安楽死させてもらえるのに 人間はそれを許されないのは尊厳がない、という主張があって、 そのことは頭の中にずっとひっかかってもいるし、 「犬や猫程度の意識」というある医師の表現について 23日に出る拙著でもちょっとこだわってみたところでもあって、 個人的には 『読み解き「ひじりたちのことば」いぬの話』の章が特に面白かった。 著者が犬に向けるまなざしは 人間に向けるまなざしとちっとも違わなくて、 そこらへんの観察眼がまたぞくぞくするほど面白いのだけれど、 犬の安楽死については 「アメリカの獣医は決断が早い。あたしの素朴な感想を言えば、犬たちはまだ命が続いているのに、はやばやと決断されていくように感じる」(p.103)著者は、 身近な家庭で飼われている犬の安楽死の際に、 「うちの犬の場合は待ちたい、もう死ぬと誰の目にもあきらかになるまで、死ぬものを引き止めたくはないが、受け入れてもやりたい、生きたいという生き物の欲望を、とあたしは夫に言った。夫もこれに同意した」(p.104) 面白いのは、この夫婦の会話がそのまま 30歳年上であちこち既にガタがきている夫の死の話題へと 妻によって強引に移行していくこと。 「ざまみろ。人は誰でも死ぬのである」 「ふふふ。ざまみろ。 人は、誰でも、死ぬのである」 と繰り返されている、ここのシーンは本当に圧巻なので、 全部書き写したいくらいなのだけれど、 せっかくこれから読もうとする人のために我慢して、 このシーンのオチのところだけ。 ……「おまえはこのごろ死に取り憑かれている。口を開けば死のことばかりだ、おれたちはまだ生きているのに」
憎々しげに聞こえるのは、あたしへの憎しみではなく、たんに彼の生きたい欲望が、凝り固まってぎらぎらと反射しているだけなのである。 (p.106) この本の中でいろいろ読み解かれているお経は 私としては「発願文」が胸に染みてきたけど、 一番ズキリときて残ったのは、親鸞の「殺してくれよ」だった。 それから最後の章の副タイトルにあった、 「いつか死ぬ、それまで生きる」という言葉――。 |
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オランダのフリーゾ王子(現国王の弟)が昨年2月に オーストリアでの休暇中に雪崩に巻き込まれて意識不明となった事件については、 以下のエントリーで拾っていますが、 13日に亡くなったとのこと。 脳損傷で英国に運ばれたオランダの王子めぐり尊厳死議論(2012/9/4) 王子は事故後に最小意識状態にまで回復していたとのことで、 英国ロンドンの病院から先月オランダの母親(前女王)の宮殿に移されていたとのこと。 死因は脳損傷による合併症。 BioEdgeによると メディアには安楽死だったのではとの憶測が流れているが、 王子が事前指示書を書いておらず、 家族と医師では本人の同意があったとみなすことができないため、 安楽死ではなかった模様。 |



