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「死ぬ権利」議論や「無益な治療」論の周辺で起こっている“すべり坂”は、
よくあげつらわれるような「対象者の歯止めなき拡大」だけではなく
実は様々な形で起こっている、という思いはずっとあったので、

今の段階でのとりあえずの試みとして、
いくつかの形態に整理し、

それらから浮き彫りになってくる
日本の尊厳死議論への懸念も追記してみました。

それぞれの裏づけ情報については拙ブログ内にエントリーもありますが、
すでに膨大な情報なので、逐一リンクするのは諦めました。

詳細を取りまとめたものとして、拙著『死の自己決定権のゆくえ』をご参照ください。

英国のLCPの機械的適用問題についてはこちらに。
http://synodos.jp/welfare/6606


(1) 対象者像の拡大

「死の自己決定権」でも「無益な治療」論でも、もともとは終末期で、もう助けることのできない患者に耐えがたい痛み苦しみがあるなら、そういう人への最後の救済手段として始まった議論であるはずのものが、議論の繰り返しの中で終末期の人という範囲から逸脱し、植物状態の患者へ、さらに最小意識状態の患者へ、そしてさらに重症障害者へと、対象者が拡大されていく現象が起こっている。

(2) 緩和ケアの一環としての位置づけ

シアトルの癌センターの「尊厳死プログラム」に見られるように、法律ができることによって、それが高度化した医療システムの中に組み込まれていけば、「死ぬ権利」の行使は緩和ケアの一環と位置づけられていく可能性がある。

最近では「医師による自殺幇助(physician-assisted suicide)」という文言ではなく、「死の援助(aid in dying)」といった文言も「死ぬ権利」推進派からは出てきており、ケベックの法案に見られるように事実上の安楽死を「死の医療的援助(medical aid in dying)」と呼び換え、緩和ケアの一環と位置づける新たな傾向も見られる。

それはベルギーの安楽死法に関して指摘されている安楽死の trivialization(瑣末な問題化)ではないか。

(3) 障害のある生に対する差別意識

対象者の拡大にともなって、人々の間に「重症障害のある状態になったら、その生はもはや生きるに値しない」という認識が広がり、共有され始めている。

社会がどこに向かっているのか、我々の社会がどのような場所になろうとしているのか、を考えた時に、「人生の出口」のところで重症障害児者を切り捨てることに繋がりかねない「死ぬ権利」議論や「無益な治療」論と平行して、新型出生前遺伝子診断などに見られるように、生まれてくる「人生の入り口」のところでも重症障害児者の排除が進められようとしている現実にも注意が必要だろう。

(4) 医療判断が個別検討から年齢や障害像による包括的な一律の判断へ

医療をめぐる意思決定とは本来、あくまでも特定の患者について固有の病気や病状と固有の環境や状況の中で個別具体に検討すべきものである。ところが「死ぬ権利」議論や「無益な治療」論が繰り返され、微妙に変質変容していくにつれて、どこまでも個別具体であるべき医療をめぐる判断が、一定の年齢や障害像による包括的な一律の切捨て論に変質している。

(5) 介護者による自殺幇助への容認

長年介護してきた実績が「死なせる」「殺す」行為への暗黙の免罪符となり始めている可能性、そこではもはや本人の「自己決定」の有無を確認する必要にすら人々が注意を払わなくなっている可能性がある。英国のイングリス事件、ギルダーデール事件での、あたかも「よくぞ殺した」と手を叩くかのような世論の熱狂は、異様ですらあった。

しかし家族介護という密室には、介護し・介護される関係性がその密接さゆえにこそ、支配し支配される虐待的な関係性に簡単に転じるリスクが潜んでいる。高齢者虐待や障害者虐待、児童虐待の対応の困難を考えた時に、介護者による「死なせる」「殺す」行為が、「愛による美しい行為」と情緒的に捉えられ、賞賛されることの危険性は、抵抗することのできない弱者の人権擁護という観点からも、十分に意識しておかなければならない。

また、英国では法制化され、日本では考えられないほどに整備されている介護者支援制度が、日本では皆無であることも懸念材料である。

(6) omissionとcommissionの区別の否定

2009年大晦日の米モンタナの最高裁判決や米ニュー・メキシコ州や現在のカナダ、ケベック州の法案に見られるように、これまで明確に区別すべきものとされてきた「行為を差し控えることによる縮命(omission)」と「行為をすることによる縮命(commission)」とについて、「どちらも患者の自己決定なら違いはない」「もともとの病気で死に瀕しているなら早い遅いの違いだけで、結果に違いはない」などと主張し、前者が認められている現状を根拠に後者も認める論理が広がり始めている。実際の医療現場における個々のケースで両者の区別をつけること自体が難しいという指摘もあり、それらを考え合わせると、終末期の治療の中止と差し控えとしての消極的安楽死の法的容認には、それが容易に積極的安楽死の容認へと転じるリスクがある。

ベルギーの終末期の鎮静に関して指摘されているのも、医療現場で個々の医師らによって症状緩和のための鎮静が、死なせる目的の鎮静と混同されている実態である。英国のLCPスキャンダルは、両者の意図的な混同が高齢者差別を背景に慣行化された実例だろう。本来なら明確に区別されるべきはずのものが、個々の医療現場の文化や医療職の個人的な価値意識によって、なし崩しにされていくリスクは現実のものである。

(7) POLST、「自己決定」の強要

現在、米国の医療で新たにPOLST(Physician Orders for Life Sustaining Treatment:生命維持治療に関する医師の指示書)の法制化が進みつつある。いくら啓発しても事前指示書を書く人が増えないことから、その対応策として編み出されたものと思われ、患者の終末期の意思の尊重のために、医師の主導で終末期医療について話し合いをし、医師が聞きとった患者の意思を医師の指示書という形で1枚の様式に記録しておくもの。2013年6月段階で法制化しているのは20州。ただし、2013年にPASを合法化したばかりのバーモント州を含むいくつかの州の法律では、仮に患者が万一の場合の心肺蘇生を希望しているとしても、医師が「無益」と判断する場合には、患者や代理決定権者の同意なしにPOLSTに「蘇生不要(DNR)」指定を記入することが認められており、様式にも「同意なし」のチェック項目が設けられている。

日本でもPOLST導入に向けた動きもあるが、それ以前に、特に名称もなく法的な裏づけもないまま、施設入所の際や病院への入院の際に、万が一の場合の終末期医療で考えうる処置や治療について、実施の希望の有無を確認し文書化することが多くの現場ですでに慣行化している。

しかし入所や入院の段階で、自分がどのような状態や状況でそういう事態に直面するかを具体的に想像することは困難であり、また終末期の医療をめぐる判断も患者の意思決定も、実際にそういう状況になった際の、あるいは実際にそういう事態が想定される中での、固有の症状と固有の状況の中で個別具体の検討でしかありえないもののはずである。漠然とした「終末期」の想定で深く考えず、単なる事務手続きの一部として記入した文書の内容が、現実にその事態が起こった際には「患者の自己決定」として「尊重」されるのだとしたら、いかにも乱暴な話であり、自己決定の不当な強要ではないか。

(8) ホスピタリスト

米国の医療現場に新たに普及しているもう一つが「ホスピタリスト」と呼ばれる職種である。日本でも『ホスピタリスト』という雑誌が創刊されるなど、導入に向けた動きがある。米国では90年代に導入され、医療が高度に専門分化し多職種の関与で複雑化する中、入院患者の入院中の医療をコーディネートし、退院までをトータルにサポートするとのコンセプトだが、ホスピタリストが最近になって急速に普及してきた背景には医療の効率化との早期退院の促進というホスピタリストの使命が透けて見える。

米国の障害当事者で障害学者のウィリアム・ピースは、2010年にじょくそうの感染から重篤な状態となって入院した際、真夜中に病室を訪れた初対面のホスピタリストから、まず命は助からないし、万が一助かっても障害は重度化し経済的な負担もまぬかれず不幸になるので、苦痛は取り除いてあげるから自己決定で抗生剤を拒否してはどうか、と自己決定による消極的安楽死を教唆された体験を、『ヘイスティング・センター・レポート』で報告している。ピースは「生きたい」と主張し続けて抵抗したが、心が弱っている時にそうした抵抗を続けることは困難だったとも書いている。仮にこうした経緯を経て治療の放棄に同意した患者があったとしても、それはその患者の「自己決定」として「尊重」されることになる。

POLSTを含め、こうした「効率化」のツールや仕組みの整備が医療現場では着実に進められている。その事情は、名称や形は違うにせよ様々な制度誘導で効率化が進められる日本の医療現場でも変わらないのではないか。

(9) 医療現場における高齢者差別、障害者差別の助長

英国のLCPの機械的適用実態について、調査委員会は「高齢者差別が起こっている」と指摘した。また2月には英国のガン患者支援団体などの調査で、高齢のガン患者では若年層のガン患者なら当たり前に受けられる治療が年齢を理由に手控えられて、全身的な健康状態のアセスメントすら行われていない実態が報告されている。

こうした事例の背景にあるのは、「死ぬ権利」議論や「無益な治療」論が繰り返され社会に広がることによって、医療職を含め、人々の意識の中に植えつけられていく「重い障害の状態になったら生きていることは苦痛でしかなく、死んだ方がマシ」「一定の年齢や障害像になった人への医療は、資源の無駄遣い」という価値意識ではないか。

もともと、黒人、女性、障害者、特に知的障害者ではその他よりも受けられている医療の質が低いとする調査報告は多数あり、それは医療格差、医療差別の存在を示している。「死ぬ権利」議論やその法制化が、そうした格差や差別を解消するよりも助長する方向に機能していることは間違いのないところだろう。「すべり坂」は法の適用範囲が直接的に広がっていくかどうか、という問題とは別に、周辺的なところで人々の意識や社会のあり方への影響としても起こっている。

この問題を考える時、「死ぬ権利」法制化先進国ではすでに整備されている、調査権と介入権を伴う障害者の権利擁護システムや、医療を受けるための自己決定を保障する法整備、実効性のある医療オンブズマン制度、自己決定能力のない人のための代理意思決定または意思決定支援システム、その際の手続きや基準のスタンダード整備などが、日本ではことごとく欠落していることに思いが至らざるを得ない。「尊厳死」法制化のはるか手前のところで、日本では障害者や高齢者の人権擁護のための基本的なセーフガードが圧倒的に未整備なのである。自己決定能力がない人の医療をめぐる意思決定は、いまなお法的裏づけもないまま医療現場ごとの恣意的な判断による手続きで決められているのが日本の現状である。倫理委員会の設置状況や内実も一定ではない。そんな現状を放置したまま、「尊厳死」法制化のための即席のセーフガードが十分に機能できるはずもない。
 
(10) 不況と社会保障の削減という背景

このたびの英国の法案提出に際して、障害者運動から「長引く不況の中で、社会の『お荷物』視され、障害者へのヘイトスピーチが増加するなど、高齢者や障害者に向けられる社会の視線が硬化している。そんな中でPASが合法化されれば、高齢者や障害者に不当な圧力がかかることも、彼らを排除することから利益を得る人たちへのインセンティブとなることも明らか」と懸念する声が上がっている。

日本でも同様の空気の変化は多くの障害者が身をもって感じているところであり、英国の障害者運動の主張は日本の尊厳死法制化についても当てはまる。社会保障の削減策が矢継ぎ早に出されて「兵糧攻め」が進む一方で「尊厳死」が法制化された時に、様々な立場の社会的弱者にどのような影響があるのか。

そこで懸念されるのは上記(5)にも通じていく、弱者や家族を「社会で支える」という視点の希薄化であり、また社会保障を整備する責任の社会や政治からの免責、そして家族の「自己責任」の問題への転嫁である。

その問題は、「自己決定」だからよいと簡単にいえるような単純なものではなく、また医師の免責さえできれば問題解決するというものでもなく、もっと広い範囲を射程に、複雑で隠微な影響について詳細かつ慎重に検討すべきである。

(11)社会の荒廃

上記もろもろの相互作用の結果、人々がいのちへの畏怖や身体への敬意の感覚を鈍磨させ、弱いものへの配慮も心遣いもかなぐり捨てて、人としての心の感度を低下させていくこと。みんなで「どうせ」と言い合いながら誰かを傲然と見下し、能力を基準に人間の間に線を引き、人もいのちも平然と切り捨てて省みない、粗雑で冷酷で傲慢な弱肉強食の人の世が形作られていくこと。人がバラバラに存在する「能力と機能の総和」になってしまい、人が関係性の中に生きてあることの割り切れなさやかけがえのなさが省みられなくなっていくこと。データとしては捉えにくいけれど、そうした人々の意識や社会のあり方そのものが変容していくことこそが、実は最も隠微で最も恐ろしい“すべり坂”ではないだろうか。

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