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米国マサチューセッツ州在住のJerome Medalieさん(88)は
玄関脇のクローゼットに、事前指示書入りのケースを置いている。

そこには終末期になったら、心肺蘇生と人工呼吸器と経管栄養を拒否することに加えて、
アルツハイマー病など認知症になったら「通常の栄養と水分の供給方法」も拒否すると
明記されている。

現役時代に正確さにこだわった弁護士らしく、
「愛するものたちを認識できない」「筋の通った考えや文をしゃべることができない」など、
後者に値する症状が10種類列記されており、

そのうちの3つの障害が数週間続いた場合には、
医療をめぐる代理決定権者である妻の権限で、
なんびとも自分にスプーンでの食事介助も水分供給もさせないよう求めている。

簡単に言えば、
Medalieさんは自分が認知症になった際には、
VSEDをしたいと事前指示書に書いている、ということ。

NYT記事はVSEDについて、
「終末期の戦略としては決して珍しいものではなく、
特に終末期の症状から弱っていくプロセスを短縮したい高齢者に使われている」
と書いている。

VSEDについては、決してそれだけではなく、
ブリタニー・メイナードさんやその家族を広告塔に仕立てて
米国中にPAS合法化の実現を目指すC&Cが
高齢者を対象として「VSEDによる自殺の勧め」とでも呼びたいような
熱心な推奨活動をおこなっている事実もあるのだけれど、
それについてはこの記事は触れていない。

そして、上記の箇所に続けて、以下のように書く.

しかし、今や倫理学者、弁護士、高齢者ら自身が、静かに論議を始めた。事前指示書に加えておくことによって、認知症になった人たちにもVSEDで死ぬことが認められるかどうか、についての議論だ。


認知症患者は急増しており、
85歳以上の30%が罹患していると推測される。
ベビー・ブーマー世代は高齢化する親に認知症の荒廃と負担を目の当たりにしてきた。

そういう50代60代が、
自分はああはなりたくない、家族をあんな目に合わせたくない、と思い、
それを周囲に語ったり、中には事前指示書に盛り込むことをし始めたのだろう、と
ピッツバーグ大の生命倫理学と医療法センターのディレクター、 Alan Meisel医師は推測。

「自然死リヴィング・ウィル」を作ったカリフォルニア州の精神科医
Stanley Terman医師は、認知症では死ぬまで何年もかかり、
「中止したり差し控えたりできるハイテクの生命維持治療がない」すなわち
「抜くべきプラグが存在しないことが多い」ために、
自分の死に方をコントロールしたい人たちには認知症特有の障壁があるのだ、と語る。

医師による自殺幇助が合法化された州でも、
自己決定能力があり、自分で致死薬を飲めることが対象者要件となっているために、
認知症患者は対象外になってしまう。

その点、VSEDなら合法だし、
死に方としても緩和ケアとして口腔ケアを受けられれば苦しくないとする研究結果もある。

問題は、事前指示書を書いてから年月が経った後に、
書いた理由を忘れたり、理解できなくなってしまった人を
VSEDで死なせてもよいのか、という点。

実際に、飲食を停めてしまったら、
家族や代理人だけではなく、医療職まで大問題に直面するのが現状。

推進派は、
VSEDを「餓死」とか呼吸器の引き上げを「窒息」などと表現するから
イメージが悪くなる、文言の問題だと主張するが、

事前指示にVSEDを盛り込むことが法的にどういう扱いとなるかも、
まだはっきりしない。

Hastings Center Reportの最近の論文で、2人のアドボケイトが
認知症が重症となり患者のQOLが低下して「自己が消失してしまう」までは
栄養と水分を引き上げるべきではない、と説いた。

Pacific Lutheran大学の哲学の名誉教授 Paul Menzelも
そういうアプローチなら法的検討も通過可能だろうとの考え。

しかし、Hamlin大学法学部の医療法研究所のディレクター、Thaddeus Popeは
次のように述べる。

栄養の供給が不適切だったり、脱水にしたりすれば、
ナーシングホームも、家族ですら、問題になりますよ。

高齢者虐待の訴えでも犯罪としての起訴でも
基本的な人間としての安楽ケアを怠ったという訴えが多いですからね。

(もし患者自身が、認知症になった場合には基本的ケアを差し控えてほしいと望んだら?)
その問題には、まだ誰も法律的な観点から取り組んだ人がいません。


NY州、ウィスコンシン州、ミネソタ州、ニュー・ハンプシャー州など
事前指示書の内容や代理人の意向に関わりなく、
経口での栄養と水分の差し控えを一切禁じている。

最近あったブリティッシュ・コロンビア州の判例では、

Margo Bentleyさん(83)のアルツハイマー病が進行し、
知的能力を失ったら栄養と水分を拒否するとの事前指示を尊重しようとする家族に対して、
Margoさんが暮らしているケアホームはそれを拒否し、訴訟になった。

昨年2月、栄養と水分は続けるべきだとの判決が出た。
理由の一つとして、口に食べ物を入れられるとMargoさんが飲み込むので、
それは食べることへの同意と見なすことができる、というもの。

この事件は、家族が上訴して今に至る。

Margo Bentleyさんのケースについてはこちらに ↓
ホームで口から食べている認知症の女性の「死ぬ権利」論争(加)(2014/10/28)


そもそも現在の自己決定能力を保った自分が、
将来の認知症になった自分に変わって意思決定できるものなのか、
かつての自分にとっては耐え難いと思えた状態になった将来の自分が、
ささやかなことに喜びを見出して、
アップルソース(リンゴを煮崩したもの)を食べたがったとしたら?

しかし、2013年に
Journal of Medical Ethicsに「アルツハイマー病と先制的自殺」という論文を書いた
Lehigh大学の生命倫理学者、Dena S Davisは
認知症が進行するまで待ってからにしろというのは
「とっくに尊厳を失ってしまっているし、
家族にも6年も7年も負担をかけることになるので遅すぎる」と主張。

もちろん、宗教団体や障害者団体、
不安を抱えるナーシング・ホームの経営者らからは
認知症の人の事前指示書にVSED希望が書かれていたとしても、
反対の声が上がるだろう。

ハーバード医大の老年科医、Susan Mitchell医師は、
冒頭のMedalie氏に会い、その事前指示書を読んだうえで、次のように言う。

将来、認知症が進行してベッドで寝たきりになったMedalie氏と出会ったとしたら、
「私は、せめて一口の水と、ひとさじのアイスクリームを、
そっと差し出さないではいられないだろうと思います」



Dena Davisの論文(2013)はこちら ↓
http://jme.bmj.com/content/early/2013/07/09/medethics-2012-101022

同様の「予防的自殺」の主張についてはこちら ↓
高齢者に「予防的自殺」の提言(米)(2014/11/12)


ちなみに、2009年にNew England Journal of Medicineにあった
認知症の人の終末期ケアを巡るNIHの研究CASCADE論文に関するエントリーがこちら ↓
「認知症患者の緩和ケア向上させ、傷みと不快に対応を」と老年医学専門医(2009/10/19)
「認知症はターミナルな病気」と、NIH資金の終末期認知症ケア研究(2009/10/19)
NYTもMitchell、Sachsの論文とりあげ認知症を「ターミナルな病気」(2009/10/21)

この論争のMitchell医師は、
NYTの記事の最後に登場するSusan Mitchell医師とは別人。


【30日訂正】
最後に書いた2行は間違いで、
Susan Mitchell医師は2009年のエントリーで紹介したCASCADE論文の著者と同一人物。

また、私はCASCADE論文そのものを読んだわけではなく、
2009年当時の私の問題理解も浅薄で、
複雑な問題を単純化して理解していたように思います。


この記事に

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2009年のMitchell,Sachs論文をめぐる一連のエントリーをいま読んでみると、まず「ターミナルな病気」という文言がごく一般的に使われていることを初めて知ったことの衝撃がとても大きかったなぁ、ということを思います。私の理解では「ターミナルな」というのは、あくまでも「状態」を形容する言葉であって、病気そのものが「ターミナル」と形容されることには論理的な矛盾があると、これは今でも思うので、そこの疑問は続いているのですが、

ただ、CASCADE論文など認知症の人の終末期医療のあり方をめぐる議論は単に「ターミナルな病気」という文言の是非で切り分けられるような単純なものではなく、それを思うと2009年のエントリーはその文言への疑問に引きずられて、複雑な議論を単純化しすぎていると感じます。

2015/1/30(金) 午前 9:07 [ spi*zi*ara2 ] 返信する

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では、どこが当時の私に理解されていなかったのだろう、と、しばらく振り返ってみているところなのですが、

一つには、認知症の人の終末期医療において「過剰医療が患者を無駄に苦しめている」という指摘も、「積極的な症状管理が行われずに患者が苦しむままに放置されている」という指摘も、どちらも事実として起こっている現実問題の正当な指摘だ、ということ。

今の私から見ると、この2つの問題はシノドスの論考(http://synodos.jp/welfare/6606)で書いた「『どうせ高齢者』(ここでは『どうせ認知症患者』)といった差別意識を背景にした『無関心』という名のコイン」の表裏に過ぎないと思え、したがって、本当の問題はそれぞれの指摘の是非ではなくて、それらの2つの問題が「丁寧に個別の判断をされていない」という1つの問題として取り組まれるのではなく一方(往々にして前者)だけが過剰に取り上げらがちだということにある。そういう捉え方になるかと思います。

2015/1/30(金) 午前 9:27 [ spi*zi*ara2 ] 返信する

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そして、前者だけが過剰に取り上げられて、それ自体が問題の本質、コインの正体だと錯覚されてしまうと、その先に待っているのは、このエントリーで取り上げた議論のような、「無益な治療」論の名を借りたQOL指標や隠れパーソン論による「無益な患者」選別と切り捨てになってしまうことが何よりの問題。

それは上記2つの問題にそれぞれ取り組んでいる研究者や医師らの誠実な姿勢や意図とは別のところにある、医療の問題というよりもっと政治経済からの要請として起こっている大きな流れなのではないか。そこに取り込まれてしまわないよう、研究者や専門職や我々患者や家族の側も、自らのナイーブさをチェックする必要があるのでは。

2015/1/30(金) 午前 9:44 [ spi*zi*ara2 ] 返信する

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その上で、上記2つの問題については、あくまでも医療に根深い「どうせ」と「無関心」の問題(この意味で、高齢者や認知症の人の終末期医療の問題は障害児者への医療差別やネグレクトの問題と繋がっていると私は考えています)が具体的な形として顕れてくる、実際には表裏の現象であると捉えた上で、それぞれに対して具体的な対応策を研究・検討する必要があると同時に、そうした無関心の対極としての医療はどうあるべきかという、より本質的な問題として位置づけなおし、コインそのものをめぐる議論が必要。

また、医療をめぐる議論には、より大きく社会の人々の価値観や考え方など、社会そのものの変質が反映されているということも、忘れてはならないのではないか。

今の私の問題意識を整理すると、そんな感じになるのかなぁ、と。

2015/1/30(金) 午前 9:58 [ spi*zi*ara2 ] 返信する

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