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なぜイエス・キリストや仏陀は書物を残さなかったのか?(その3)
本日、70歳前後のお坊さんとこのテーマでお話致しました。
このテーマに対しては若いお坊さんは答えられない人もいるかも知れませんねと微笑んでいました。(彼も若いときは理解ができなかったとも・・)
キリスト教関係者の方からは納得できる回答がない事については、文字を尊いと考える精神文化が背景にあるからかも知れませんねとのことでした。
■70歳くらいのお坊さんの回答
すべての人の過去世及び未来が見通せるお釈迦様は対面説法を重視されておられため、教えに関する書物を残されていないことは当然のこと。
つまり、人を見て法を説く(その人の過去・価値観・世界観・思考レベル等を総合的に判断し、最も適した形で法を説く)ことが重要で、文字にすると同じ言葉でも意味が180度変わることもあるからです。
文字にされた経典を残すと、様々な解釈が生まれ、様々な宗派が生まれ、時には対立・抗争が生まれます。
だから、偉人と呼ばれる人々は教えを文字に表さなかったと思います。
イエス・キリスト、ソクラテス、晩年の王陽明などです。
また、戒律もお釈迦様が現世にいらっしゃったときのものですから、現在に当てはめると疑問に感じることもあります。
たとえば、仏教の戒律ではタバコ喫煙は禁止されていません。
なぜなら、当時はタバコ喫煙するということがその地域では無かったからです。高僧と言われ戒律を守る人でさえ、タバコ喫煙しているのは個人的には僧としては似つかわしくないと感じています。
■私の所感
私が冒頭のテーマを20数年考え続けてたどり着いた現時点での結論と、同一の考え方にに驚きました。
このお坊さんは30歳台に難病にかかり死と向き合っておられます。(その2)で紹介させて頂いた税理士さんと同じですね。死を意識することが共通点、それを通して感謝を知る。
これを読まれた方は是非私が述べていることが真理に近いのかをご自身で考えてみてください。答えは他にあるかもしれません。
とにかく、王陽明のごとく徹底的に考え抜くことが大切なのではないでしょうか。
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