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なぜイエス・キリストや仏陀は書物を残さなかったのか?(最終章)
上記テーマに関する事柄は(その3)までにて述べさせて頂きました。
また、キリスト教信者のなかにも書物を重んずる神学に傾倒することは果たして正しいのかと疑問を呈する方がいらっしゃるのを昨日初めて知りました。
人から教えて貰うのではなく自身で考え答えを出されたのだなと感じました。
どうすれば現世も来世も幸せになれるのか?
それには多くの言葉は不要です。
5つの行(ぎょう)を実践すればよいとご本尊様は説かれています。すべての神様の総体であるご本尊様の教えはどの宗教にも反する内容はないと感じています。是非、ご確認ください。
■五行のお諭し
一、真心を常に忘るべからず
一、慈悲哀れみの心を養うべし
一、善根功徳の行を積むべし
一、感謝の真を捧ぐべし
一、不平不満を思うべからず
上記を実践できる心が「正しき心」であり、個本尊様は「我が名を聞かんもの我ありと知らんもの(ご本尊様を知らない人)すべての傍らにありて守護したもう」と仰られています。
すなわち、正しき心さえあれば、ご本尊様を知らない人、他宗の人もお救いになると仰られています。
追記)
智弁尊女は、他宗への参拝は禁じていません。
天理教の信者さんを褒め称えたこともあります。
また御先祖供養は、極力先祖から続く菩提寺で行うようにも述べられています。(宗派が変われば、言語や作法なども変わるので、お経の意味をご先祖様が理解しづらい為。極端な例ですが英語を知らないご先祖様に英語でお経を上げているようなもの。)
ここまで、お読みになられた方は上記の理由がなぜなのかお分かりだと思います。
すべての宗教が正しき心にて紡がれていく事をお祈りしこの章を終えたいと思います。
合掌
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なぜイエス・キリストや仏陀は書物を残さなかったのか?(その3)
本日、70歳前後のお坊さんとこのテーマでお話致しました。
このテーマに対しては若いお坊さんは答えられない人もいるかも知れませんねと微笑んでいました。(彼も若いときは理解ができなかったとも・・)
キリスト教関係者の方からは納得できる回答がない事については、文字を尊いと考える精神文化が背景にあるからかも知れませんねとのことでした。
■70歳くらいのお坊さんの回答
すべての人の過去世及び未来が見通せるお釈迦様は対面説法を重視されておられため、教えに関する書物を残されていないことは当然のこと。
つまり、人を見て法を説く(その人の過去・価値観・世界観・思考レベル等を総合的に判断し、最も適した形で法を説く)ことが重要で、文字にすると同じ言葉でも意味が180度変わることもあるからです。
文字にされた経典を残すと、様々な解釈が生まれ、様々な宗派が生まれ、時には対立・抗争が生まれます。
だから、偉人と呼ばれる人々は教えを文字に表さなかったと思います。
イエス・キリスト、ソクラテス、晩年の王陽明などです。
また、戒律もお釈迦様が現世にいらっしゃったときのものですから、現在に当てはめると疑問に感じることもあります。
たとえば、仏教の戒律ではタバコ喫煙は禁止されていません。
なぜなら、当時はタバコ喫煙するということがその地域では無かったからです。高僧と言われ戒律を守る人でさえ、タバコ喫煙しているのは個人的には僧としては似つかわしくないと感じています。
■私の所感
私が冒頭のテーマを20数年考え続けてたどり着いた現時点での結論と、同一の考え方にに驚きました。
このお坊さんは30歳台に難病にかかり死と向き合っておられます。(その2)で紹介させて頂いた税理士さんと同じですね。死を意識することが共通点、それを通して感謝を知る。
これを読まれた方は是非私が述べていることが真理に近いのかをご自身で考えてみてください。答えは他にあるかもしれません。
とにかく、王陽明のごとく徹底的に考え抜くことが大切なのではないでしょうか。
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