「時計のない国」からの便り

のんびり、あせらず、時の移ろいに身を任せて

無題

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全4ページ

[1] [2] [3] [4]

[ 次のページ ]

お知らせ

当ブログ購読者の皆様へ
 
初めまして。
当ブログ管理人、野辺山の仙人の息子です。
 
先日2013年11月27日11時28分に家族に看取られながら父は旅立ちました。
 
11月の半ばになって体調が急変してしまい、あっという間のことでした。
長い間癌を患っていたので、いつか来るとは思ってはいたのですが、いざとなるとあまりに急でまだ実感がありません。
 
ブログでも紹介させていただいている通り、父は生前から、お酒が好きで、阪神が好きで、カメラが好きで、人が好きで、何よりこの八ヶ岳が大好きでした。
病気になってから何度か入院することになっても、八ヶ岳の家や畑が気がかりで、退院したら一目散にこちらの家に飛んでくるような生活をここのところ繰り返していました。
 
非常に人に気を遣う性格で、亡くなる前々日に見舞いに行った時も
「仕事忙しいんだからもういいよ。」
と、病院に着くなり言われて、苦笑したのをよく覚えています。
結局、翌日に病状が悪化して話すことができなくなってしまい、その時の会話が最後になってしまいました。
 
振り返ってみると、2009年4月にこのブログを開設した時も自慢げに
「俺、ブログ開設したよ。」
と、報告してきた時は、飽きっぽい父のことだから、すぐに投げ出すだろうなと思っていました。
が、気づけば4年間キッチリ続けていて感心しています。
「結構、読んでくれる人いるんだぜ。コメントくれる人も増えてきたんだ。今日も早く帰ってブログ更新しなきゃ。」
と、自慢していたのをよく覚えています。
もともと物書きで文章を書くことが好きだったのと、カメラが好きで写真を披露する場になったのが相まって、彼にはすごくあっていたのだろうなと思います。
 
そんなブログですが、今日をもって更新は止まってしまいます。
「このブログで友達ができて、みんないい人なんだよ。」
と自慢していた通り、今改めてコメントを読み返してみても、皆様の温かい言葉で目頭が熱くなります。大好きな八ヶ岳の生活を紹介させていただいて、そこで共感いただいて、やり取りをさせていただいて、本当にありがとうございました。
 
父は「時計のない国」に行ってしまいましたが、向こうで一杯やりながら笑ってくれていると思います。
 
長いことありがとう。
ゆっくり休んでください。
 
仙人の息子より

和歌の庭、六義園

  ようやく退院しました。2週間の入院生活。微熱が治まれば、もうベッドに落ち着いてはいられません。外出許可を取ってあちこち歩き周りました。

  24日は文京区駒込の六義園まで足を延ばしました。5代将軍綱吉の寵臣、柳沢吉保の下屋敷です。庭は小石川後楽園と並んで江戸の2大庭園と言われた名園です。吉保自らが設計しして造り上げた「回遊式築山泉水庭園」。つまり中の島がある池の周りに樹木を植え、築山を築き、回遊して庭を観賞して楽しむ庭園です。
イメージ 1
  
  中国の  古典や和歌から吉保が選んだ八十八の名勝を「八十八景」と名付けて見所としています。紀の川の下流に川を隔てて向かい合う「妹山」「背山」という山があります。中の島はそれに因んで「妹山 背山」と呼ばれました。

イメージ 2

  大きな石畳みで作られた「渡月橋」を渡れば築山があります。高さは35ーメートル。頂上からは庭園のほとんどが望めます。「藤代峠」です。

イメージ 3

  熊野古道の難所に「藤白峠」があります。これに因んでいます。峠からは万葉集で山部赤人が
        
       若の浦に 潮満ち来れば 潟をなみ葦辺をさして 鶴鳴き渡る
                         
   と詠んだ名勝、和歌の浦の絶景が眺められました。
  
  「藤代峠」を降れば和歌の浦に見たてた「吹き上げの浜」があり、お茶屋が設けられています。

イメージ 5

  庭園は都心とは思えない静けさに包まれています。高層ビルが樹の上に顔を出していますが気にはなりません。
イメージ 4

  柳沢家は武田信玄の家臣でしたが、武田家の滅亡後、徳川家に仕え、吉保は館林藩主だった綱吉の小姓を勤めました。知行は160石。綱吉が将軍になると小納戸役となり、以後はとんとん拍子に出世、大老に登り詰め、甲府城主として15万石の大名となりました
かし、綱吉の死後、家督を長男吉里に譲り、自身は六義園の建設に専念しました。

  吉保と言えば「柳沢家の玄関先には利権を漁る商人、役職を求める武士で溢れていた」と悪名高い人物です。これは当時の「大衆誌」が面白おかしく、あることないことを書きたてた結果のようです。

  実際には北村季吟に和学を学び、和歌も詠み、黄檗宗萬福寺から印可を得ているほどの教養人だったと言われます。

  「六義園」は中国の詩経の漢詩の分類法「六義」から来ています。吉保は綱吉にただ忠実に勤めていた人物だったのではないでしょうか。

  評判をそのまま信じ込んではいけませんね。

 東京見物はここで中断して山に戻ります。

林芙美子記念館

   「花の命は短くて苦しみのみ多かりき」
     林芙美子が頼まれれば、よく色紙に書いていた言葉です。苦労に苦労を重ねてきた人ならではの言葉ですね。

    林芙美子の作品は暗い感じがして読んだことはありません。しかし、病院の近くに自宅をそのまま残した記念館があると知り出かけました。

    新宿区落合の閑静な住宅街に「区立林芙美子記念館」はあります。芙美子は公衆トイレで寝泊まりしたこともあるほど貧乏生活が長かったので、自宅と言っても大きな家とは思ってもいませんでした。ところが敷地は300坪、瀟洒な日本家屋です。

    芙美子はこの家を建てるにあたって住宅に関する本を200冊以上読み、さらに京都の庭師をたびたび訪ねて意見を聴いています。「終の住処だから妥協はしたくない」。芙美子の意気込みが感じられます。

    格子門をくぐって曲がりくねった石畳みを登って玄関に。
イメージ 1

    玄関の脇は客です。苦労しているだけに執筆依頼は決して断りませんでした。客間は原稿が書き上がるのを待つ出版社の担当者で溢れていたそうです。担当者は客間の前庭の多宝塔を眺めながら数時間手持ちぶさたで待っていることもしばしばでした。
イメージ 2

    顔を会わせたくない担当者は別々の部屋に、親しい担当者はお茶の間に案内する気の配りようです。

    原稿の執筆は午後10時から翌朝4時まで。一日中、机に向っていることもしばしばでした。後に夫の手塚緑敏の寝室になりましたが、当初は芙美子の書斎として建てられた部屋です。
イメージ 3
    芙美子は明る過ぎる、と奥の納戸を書斎にしていました。

   画家だった夫の緑敏のために隣棟にアトリエを建設しました。
 
イメージ 4

 緑敏は誠実な人柄で芙美子の死後、遺品の整理に尽くしたそうです。

  昭和26年6月28日、それまでの無理が祟って心臓を患っていた芙美子ですが、主婦之友社の仕事で主治医の反対にも関わらず外出、帰宅後、家族と団欒して床についたまま心臓麻痺で死去、47歳の波乱に満ちた短い人生を閉じました。

   森光子が生涯、演じ続けた「放浪記」は芙美子の自伝小説で出世作でもあります。昭和3年、恐慌の最中にも関わらず60万部も売れるベストセラーとなって文壇に登場したわけですが、一方では家事が大好きで、漬物を漬けて知人に配ったり、友人を集めて素早く酒の肴を作り振舞ったりしていました。

   父親に実子と認知して貰えないなど若い頃に大変な苦労をした反動で家族を大切にしたいといった気持ちが強かったのでしょう。






  JR山手線の新大久保駅近くに皆中(みなあたる)稲荷神社と言う不思議な読み方をする神社があります。

イメージ 1

    室町時代の建立で、伊賀鉄砲組百人隊がこの地に住むようになり、彼らの信仰を集めていました。ある夜、射撃の腕が上がらず悩んでいた与力の枕元に稲荷之大神が現れ、霊符を授かりました。その与力は翌朝、神社に参拝して霊符を授かり射撃場に出かけました。するとあら不思議、百発百中。それを聞きつけた旗本たちもこぞって霊符を授かりました。おかげで皆んな名人に。そこから「みなあたる」稲荷神社と呼ばれるようになったとか。その霊験あらかたなことで江戸時代から参拝者が絶えなかったと言います。

    現代でも参拝者は絶えず、特に勝負事の開運を願う人が多いと言われています。この人の願いはなんでしょう。

イメージ 2

   仙人は「宝クジが当たるように」と願を掛け、お守りを購入。しかし、探せど探せど売場は見つかりませんでした。残念。ひょっとしたら数億円手に入っていたかも・・・。

    病院の起床時間は朝6時、消灯時間は午後10時です。昔に比べれはゆったりした時間です。起床前の病院は静まり返って侘しさがまして来ます。

イメージ 3
  
廊下の片隅に患者を手術室に運ぶストレチャーが置かれています。
癌で亡くなった父が逆光の中、手術室へ運ばれて行った光景が思い出されました。
イメージ 1

    我が一族は癌家系です。祖父は肺癌、伯父も癌。親父は食道癌で62歳に死去しました。男どもは早死でもあります。一昨年、肺癌で75歳で亡くなった長男家の甥が最高齢の記録です。

    親父は大変な飲兵衛でした。しかし、60歳の頃に肝硬変と診断されて、禁酒を余儀無くされました。お正月には徳利一本、寂しそうに眺めている親父。それでも、どうだ一杯ーーいつまでも息子と一緒に飲みたがる親父でした。

    食道癌と診断したのは高名な医者でした。手術はせずに通院で、放射線の治療を続けました。それでも効果は無く、国立がんセンターで再検診してもらうことになりました。つまり今で言うセカウンドオピニオンです。

  その結果は、すぐに手術が必要 、でした。直ちに入院。しかし、親父は、翌年に控えていた私たち夫婦の結婚式で、ぜひスピーチすると頑張っていました。これも手遅れの原因になったのかも知れません。

  結局、手術を受けたのは式が終わってからになりました。入院してから2ヶ月後でした。解剖して分かったことは放射線治療が効いていた所からわずか数ミリ外れている部位からあちこちに転移していました。最初に癌が発生したのは喉頭と食道の境目と言う発見が難しい所でした。

   末期の水になったのはコーラ。切り取った食道から漏れて来るのも気にせず美味しそうに飲んでいました。あの飲み助の親父にはせめて末期の水は日本酒にしてやりたかったなあ。

  解剖は母と私の二人できめました。妹二人には大変に恨まれ、大弱りした覚えがあります。後で聞いた話では、高名な医者は回復する見込みの無い患者は手術しないとのことでした。医者選びは難しいものです。良い医者に恵まれるかどうかは、その人の定めなのでしょう。

  親父の療病生活を見ていますので、私も長生き出来ないと覚悟はしていました。70歳過ぎまで生きたからには、これからの命を大事に大事にして生きて行くつもりです。

    病院から見た日の出です。
イメージ 2

    今夜は仲秋の名月。病棟からも眺められるか、期待しています。

全4ページ

[1] [2] [3] [4]

[ 次のページ ]


.
野辺山の仙人
野辺山の仙人
男性 / A型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
友だち(7)
  • サウスウインド
  • ゆうこ つれづれ日記
  • ato*i*_0626
  • おねえさん
  • よこちゃん
  • Kyuta!(*^o^*)/
友だち一覧

スマートフォンで見る

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

スマートフォン版Yahoo!ブログにアクセス!

1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

標準グループ

Yahoo!からのお知らせ

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト『さとふる』
実質2000円で特産品がお手元に
11/30までキャンペーン実施中!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事