http://ec2.images-amazon.com/images/I/51EG9YQHDAL._SS500_.jpgあと一月ほどで『憂国忌』だ。作家 三島由紀夫が、陸上自衛隊の市ヶ谷総本部に立て籠もり、檄を飛ばし、割腹自殺を遂げた日、1970年11月25日。あのとき私は、新潟の田舎町の高校二年生だった。 70年安保を間近に控え、大学はどこも「学園紛争」で荒廃し、大学は「全共闘」が立て籠もり、べ平連、を始め、一般学生「ノンポリ」「ノンポリ・ラディカル」などとよばれる、挑発にジーンズ姿の若者でむせかえるような熱気があった。 その年の二年前、東京大学のは、学園紛争のあおりで入学試験を中止した。 こんな騒然とした時代、三島は東大で全共闘学生を相手に、議論を行う。 ここに『討論 三島由紀夫vs東大全共闘−《美と共同体と東大闘争》』という書評サイトがある。
林房雄の書いた 「憂国忌」趣意書http://ec2.images-amazon.com/images/I/41EGVNKR64L._SS500_.jpg 「春の雪」を大部前に試写で観たが、小説の冒頭と結末の重要なシーンが脚本にないことが残念だった。それは、冒頭の日露戦争の写真を清顕が眺めるシーンと、月修寺を失意の清顕が訪ねたときに、門跡と清顕が話していると障子の向こうから聞こえる聡子の泣き声がカットされていたことだ。、「優れた文学作品は原作通りにやると映画が絶対に原作に負けてしまう」と言葉を返された。「僕はずうっとそうやってきた」という藤井氏の言葉は、「金閣寺」原作の「炎上」、「憂国」を手がけてきただけにそれだけ重く、反論できなかったが、あの二つのシーンを観たかったのは事実だ。「没後35周年の憂国忌」2005年11月25日 あれから37年、私は今年で55歳になり、自決した三島をもう10歳以上も追い抜いてしまった。「憂国忌 また今年も近づきぬ 若き三島と 歳重ねたる吾」 阿奉ゆうこくき またことしも ちかづきぬ わかきみしまと としかさねたるわれhttp://ec2.images-amazon.com/images/I/41TNFBCXBPL._SS500_.jpg |
阿奉選短歌
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ア〜〜ビックリシタ〜!ここのブログ開けたら出てきたんですもの三島が。
「潮騒」「長すぎた春」「金閣寺」あたりを高校時代に憧れの気持ちで読んだこと。
学生時代は安保安保で大学は殆ど休講(遊んでました〜)そして11月25日の自決。
多感な青春時代にトラックバックした気持ちで暫らく写真に見入っていました。
2007/10/19(金) 午後 5:03
安寿さん、あの自決事件の時、川端康成に次ぐ日本人ノーベル章文学部門の有力候補であった三島はずいぶん大人に見えました。いつの間にか彼の年齢と同じになり、そして追い越してしまった私。時の流れは随分と感慨深いものです。
2007/10/19(金) 午後 6:37
市谷駐屯地での事件は衝撃でした。
三島由紀夫の作品を好んで読んだ時代です。
もう、35年以上の月日が流れたのですね。
2007/10/20(土) 午前 9:14 [ - ]
先生におかれましては何時も彼の雑ブログをお訪ね賜り感謝致し居ります。
『憂国』の言葉の中に、大衆蔑視のニュアンスが無いことを願うものです。
東大の坊や(当時)とて憂国の念で、右も左も無知蒙昧な大衆を覚醒すべし、と思い上がっていたように思えてなりません。未だ彼らは何の結果も残せていない。
もし、信念に則って白色であれ赤色であれ革命(つまり天命を改める)を起こす程の気概があったのであれば、周公の如く周到に、劉邦の如く手段を選ばず成し遂げたはずではないかと思います。然るに阿Qほどの現状認識も志も無く革命ごっこを、夢想ならまだしも体制の瑣末な場所でアピールするなぞ全く笑止。
神風恍惚とするは愚なり。
命を賭したことを重視すべきではなく結果を重視すべきで、実体には迫れず浅はかにも『象徴』と思い違いした場での茶番を評価すらすべきでなかったのではないでしょうか。
結局、今の日本のていたらくに寄与してしまっていると思います。道真が言ったように大和人は革命には不向きで茶番は百害あって一利無し。一億国民を説き伏せる能の無い坊やたちの行いは日本の歴史に刻むべきではないと思っております。
2007/10/21(日) 午前 0:39
ノリタケさん、川端康成がノーベル賞をとったとき、テレビで解説していた三島の「先を越されてしまった・・」という感のある三島の焦りのようなものを垣間見た気がしました。
2007/10/21(日) 午前 4:42
Na◎〜1さん、お久しぶりです。去年の今頃も、市ヶ谷を部隊にした三島演劇の話題を討議しましたね。今から思えば昭和という時代は正に劇的な時代ではありました。(といっても、私、阿奉が知る「昭和」はせいぜい1964〜、即ち東京オリンピック以降ですが・・・)私より二世代年かさの三島にとっての「昭和」は、かの「大東亜戦争」が青春時代の、多くの人が当時の国に殉じて死んでいった「現人神=天皇」の時代の昭和であったろうと思います。
安田講堂に立てこもった多くの東大生、他大学からの外人部隊も、60年安保時代はせいぜい中学生〜高校生の世代、私達が彼等を「全共闘世代」と呼ぶ、やはり「大学生=選良」の時代であったと思います。三島と討論した「東大全共闘」も民衆闘争を訴えながら、やはり一般国民の目から観れば、あなたの言う「革命ごっこのお坊ちゃま」であったと思います。<続く>
2007/10/21(日) 午前 4:42
憂国忌には何度か参加させていただきました
最近、「暁の寺」の影響ではないか
と思うことがあります
近代能楽集や「豊饒の海」の深さを感じています
いまでも「天人五衰」のラストは
感動して読んでいます
まだまだ、狭くても深い理解を求めていきたいとおもいます
大変さんこうになりました
ありがとうございます
2007/10/27(土) 午後 6:24 [ us123 ]
三島作品の『潮騒・金閣寺』などの様なよく名の通るものは中学の頃読んで感想文を提出させられて、まかり間違って賞と名の付くモノを頂戴した思い出がございますが、個人に興味はなく、割腹の最後を遂げられた際にTVで流れた時間たまたま亡き父と見ていました。
父は吐き捨てるように『バカな事を!』と。
世の中の動向を把握していない年頃のわたくしには、「三島の死」は興味無く、父の言葉の方が気になっていました。
この歳に理解ならずも、父の言葉をわかる事がうれしいものです。
命を無駄にして、パフォーマーになってしまうのは『バカな事』であると。
2007/10/28(日) 午後 11:47 [ nom ]
ゲストブックに書き込みありがとうございました。
時々・・これから遊びに寄せていただきます。
憂国忌 菊たむけんと 夢想華 ・・・(星羅 )
命を賭したことを重視すべきではなく結果を重視すべきで、実体には迫れず浅はかにもとは云いすぎですよと・・・
今の若者は憂国の気持ちなどあるのでしょうか?
どれだけ政治が、国が腐敗してもデモすら湧き上がらない!
無関心で優雅?に生活いている今の学生・・・
「あなたの言う「革命ごっこのお坊ちゃま」であったと思います」・・
かも知れないが・・純粋であったと・・時に純粋はバカに見えるが
・・・三島の方がオレは生き方としては好きだ!
人間の行為は、完璧などということは人生の内の1%もナイのではないか?大部分の割合で浅はかさがあって当然で、結果より行動、湧き上がる気持ち、命を賭け訴えたかった事を彼の命と引き換えにわだかまり無く検証してあげるのも命の、パフォーマンスを見せつけられた大衆として、観客としての責任に近いものを感じますが・・
2007/10/29(月) 午前 11:55
ここに来ると、今年もまた憂国忌が近づいたと思い出させてくれます。阿奉先生の「心のうた」の一ページですね。しかし気になるのは、憂国忌そのものが懐古調で、これからの日本にとって三島の思想がどのように生かされるのかよく解らないことです。我々の世代と共に忘却の彼方に向かうのでしょうか?Na◎さんの問い掛けが気になります。
2007/11/5(月) 午後 10:56 [ zen*92*1* ]
us123さん、全く同感です。三島は結局政治の人ではなくて、軍人に憧れた文人だったのです。
2007/11/7(水) 午前 11:26
あじさいさん、三島の「楯の会」設立の頃、私は中学〜高校生でしたが全く私もパフォーマンスだと思っていましたが、現実自衛隊の総監室に日本刀を持って出向くなど作家・文化人であったからそれが可能であった訳で、当時の自衛隊の警備の甘さというか、自覚の希薄さがこの芸術家を錯覚させたのだと思います。
2007/11/7(水) 午前 11:32
星羅パパ、私も貴兄と同じ心情であります。あの時代は、全共闘にせよ、右翼にせよ、高度成長に浮かれ昭和元禄と浮かれていた日本の将来を本当に憂いていた若者・青年がいたことは事実です。
2007/11/7(水) 午前 11:35
ぜんさん、三島はもう歴史上の人物になってしまった訳で、「憂国忌」の太宰の「桜桃忌」に近いものになった気がいたします。国を憂いその愛国心の発露がこの歌舞伎のような自決という構図になってしまった訳で、三島という非常に政治寄りの作家が起こした「歴史上の事件」だったと思うのです。
2007/11/7(水) 午前 11:36