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若いころ座禅をしに禅寺に良く行ったものです。
若い頃ですからそれなりに悩みはあるものでそれに打ち勝つ為に自分を鍛える、
なんて考えて行ったものです。
女のこと、金のこと、仕事のつまずき、人間関係のゴタゴタ、無目的日々に対する苛立ち、
今の諸君とマッタク同じでした。
座禅とは座ることも含めてその前後の作法がきめこまかに決められています。
まず座ることから、飯を食うこと、風呂に入ること、顔を洗うこと、寝ること、糞をすること、
息をすること、すべてです。
すこしでも違えばどやしつけられます。つまり徹底的に自分をきめられた型に嵌め込むわけです。
初めはおっそろしく不合理なはなしだと思いました。
この型に嵌め込まれることによって自分が心身ともに凝縮されて行きます。
反発が出てきます。
初めに肉体的苦痛が来ます、それから精神的苦痛がきます。
妄想に近い想念が沸き散らかします。
この過程が大事です、(ここで逃げ出すヤツがけっこういます、フンタイへ後戻り!)
そして反省が出てきます。
鍛えるというよりいままでの自分を変える、ということに気がつきます。
いままでの自堕落で、怠惰で、無責任で、自己中心だったいままでの自分の生きざま
(もしかすると今のお主そのものではないか?)を変える、これを型を破るといいます。
これを自力でやるわけです。
本当は我々自身が自分で作った型(考え方、やり方、倫理、道徳、習慣、)に
日々嵌め込まれている場合が大半です。
先ず自覚していないから、誰も教えてくれなかったから、これをやぶるのは至難のワザです。
このため、すでにある型(禅寺の作法)に自分をはめこんでかたを破る必要があるわけです。
このように考えると、座禅とは実にすばらしい方法だとおもいます。
(いろんな禅寺でやってるから行ってみたらどうだ!フンタイ)
前回“フンタイ”という言葉を宿題にしましたが、糞袋(要するに糞をかかえて生きている袋です)
と書きます。禅の言葉で、よく禅道場の入り口の看板に書いてあります。
ただ食って糞をしているだけで、なあ〜んも反省しない人間のことを言います。
人間としてこの世に生を受けてフンタイのままでいいはずはないでしょ。
(分る?)自分の今までの型って何だろう、一度は考えてみよう、
そして思い切ってフンタイから脱しようではないか、諸君!!
もう一つ禅寺の坊主から聴いた言葉があります。
“この人だけにはアイすまぬ!”と言うような人をもたぬ人間は信用するな! と。
ぼくなどは本当にあいすまぬひとばかりです。お主、あいすまぬと思うひと何人いる!
だいぶ偉そうなことをたくさん言ったので 今日はここまで
注.あいすまぬ とは 申し訳ない! ということなり!! 高張敬基
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