村上が城下町であることは、その町名で納得がいきます。内藤藩の武家屋敷は、「お城山」のふもとにある武家の邸宅や足軽長屋、お寺がのあった「本町(もとまち)」地区、と町人済んでいた「町人町」地区とに分けられます。強いていえば、そのた外周に「農民」の住む周辺の「村」が幾つか点在しています。
村上は、山城であった「舞鶴城」とその「ふもと」の「武士の住まい=本町」が城の周囲を囲んでいた、「お堀」で「町人町」と区画しておりました。
私が小学校に入学した、昭和33年ころは、そんな争いはありませんでしたが、明治初期から、昭和の戦前までの数十年は、旧武家が通う「本町学校(尋常小学校→小学校+高等小学校)と、旧町民が通う「町学校」とが、ちょうどこの写真にあるテニスコートを隔てて、隣接してあり、「旧武家の子弟」と「町人の子弟」とが、休み時間になると、「石合戦」をやって喧嘩がをしていたものだと、大人から散々聞かされたものです。
昔武家屋敷や足軽長屋があった元町の地名は「堀片」とか「飯野」とか「羽黒口」とか「二の町」「三の町」などという地名で、町人が住んでい地域の地名は、その職業毎に「鍛治町(かじまち)、「大工町」「細工町」「肴町(さかなまち)」「塩町」「阿良町(あらまち)」「長井町」「大町」「小町」「小国町」「庄内町」などと地名がついています。
この前の記事「越後 村上藩 に関する蘊蓄(うんちく)」の古地図で、黄色い部分が「武士が住んでいた本町」、オレンジ色の部分が「町人町」です。
さて本題の、「むらかみ町屋再生プロジェクト」ですが、これは、町人が住んでいた地域の、商家を、明治・大正・昭和初期の町屋のスタイルに改装し、レトロな城下町の警官を再現するという、気宇壮大な、建築学的に言っても意義のある試みな訳です。
町屋はたいがい、間口が狭く奥行きが長い、「うなぎの寝床」ふうの造に
なっていますが、このような、撒布宇有為だった「お茶やさん」が
こんな風に、風情のある「大正レトロ・昭和レトロ」風の風格ある
町屋に返信させるわけです
{【稲葉 修】(1909−1992 ] 「村上大辞典」より転載
明治42年(1909)、代々村上内藤藩の藩医を勤めた稲葉家の九男一女の末っ子として村上市堀片に生まれた。村上本町小学校から旧制村上中学校に進み、五年生のとき同盟休校主導の責任を取り退学、翌年旧制山形高等学校に進んだが、ここでも集団カンニング事件の責任をかぶり退学するなど武勇伝を残した。その後、中央大学に進み、昭和11年法学部卒。大学院で憲法、行政学を研究し、15年には講師に、20年には教授となる。
昭和24年、衆議院に初当選以来、約40年間に渡り、国政の場にあって戦後日本の復興と郷土発展に尽くし、その功績により春の叙勲で勲一等旭日大褒賞を受賞した。47年47年の田中内閣成立で文部、49年の三木内閣で法務大臣を務め、51年に発覚したロッキード事件では、真相解明のため検察への政治介入を許さず、稲葉法相の名を全国に高めた。その後も政界の浄化、世界連邦の建設を政治目標に天下のご意見番として政治活動に情熱を傾けた。
21年に政界入りを決意し、24年に3回目の挑戦で初当選する。多芸な趣味人としても知られ、剣道七段、囲碁六段、無頼の釣り好きで「日本の水をきれいにする会」の会長も務めた。また熱烈な相撲ファンで、昭和48年以来日本相撲協会の横綱審議委員を務め、相撲界の発展に貢献した。
平成4年(1992)8月15日、肺炎による心不全の為逝去。故山に還り、村上市宝光寺に眠る。
稲葉修 氏 は、私の卒業した「村上高等学校」が「旧制 村上中学校」の時の、大先輩で、我々が「村上高校」在学中の「創立75周年記念式典」に文部大臣として、講演にこられ、例の懐かしい「村上弁」で旧制中学時代に、権威主義的な校長の排斥運動の首謀者として、「退学処分」になった話を披露してくれたものです。
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