私の父 「正(ただし)」は大正9年(1921年)1月15日生まれ、存命であれば明日が85歳の誕生日に当たります。1979年、58歳で他界しました。中学校長でした。今年の、メール年賀状に、亡き父が昭和49年(1974年)文部省派遣海外教育事情視察の際に、パリのサクレクール寺院を描いたスケッチを使った所、多くの方々から暖かいコメントを頂戴しました。「年賀状 亡父のスケッチ 借りにけり」今日、「明日は、おとうちゃんの誕生日だな〜」と思いながら、父の残した、「卒業式辞」「入学式辞」「研究報告書」「寄稿原稿」などを整理しているとき、思いがけない「挨拶原稿」を見つけました。1976年、待望の自宅を新築した時の、うちうちの「竣工披露宴」の挨拶メモです。親戚と工事関係者を呼んだ、ささやかな食事会ですが、そのために「挨拶原稿」まで用意していた、父の生真面目さが、同年齢に達した私としては、ほほえましく、いじらしく思えるのです。私事、身内の事で気恥ずかしいですが、少し「万感に迫る思い」がありますので、ご披露いたします。 ごあいさつ
『人が主(あるじ)で住(すまい)!!』という テレビのコマーシャルがある。 ○ 真理と正彰が子供の頃の私達の生活は間借り生活の連続で、 始めに述べたコマーシャルのような暮らしではありませんでした。 ○ この時期においての家族の願いは、自分の家が欲しいと言うことで一杯でした。 ○ 私には、学校という勤めの場があったので、息抜きの場があったものの、 (間借り生活では)孝子や子供達は、肩身がせまく、気苦労を掛けたと思います。 ○ 孝子や子供達は毎日どんなにか気を遣った生活だったかと、想い新たものがあります。 そうでした・・・小学校4年までは、「借家」ならぬ「借間」住まいでした。台所、便所は大家さんと共用でした。正に先週観た映画「ALLWAYS 三丁目の夕日」の世界でした。 ○ その後兄達のお力添えによって、この地に土地を求め、(ボロ家とはいえ)家を
手に入れることができた、あの時の喜びは今でも忘れません。 感謝の気持ちで一杯であります。 幸いにして、この家から真理を嫁がせる事ができました。 「蟹は自分に合った穴を掘る」と言います。 小学四年に始めて、「借家」になりましたが、明治維新前の足軽長屋のようなボロ屋で、雪が降ると、雪が舞い込むような家でした。「蟹は自分に合った穴を掘る」ですね・・・身の程を知れと言うことですね・・・このボロ屋は、石を重しにする 「こば葺き屋根」で、屋根のメンテナンスに費用が掛かる割にみすぼらしい印象で、子供心に瓦屋根の友達の家が羨ましかった〜その土地を買ったのが、私が高校3年の頃。父は新潟大学の付属中学の教頭に転出し、単身赴任。教員の待遇がやっと良くなりかけた頃ですが、姉が大学、私も大学進学希望と言うことで、家計は大変だったと思います。母は洋裁の内職をして家計を支えていました。京都の大学に進学した二歳上の姉は、25歳の時に山口に嫁ぎました。 ○ この間にあって、自分の家を造りたいという夢を見るようになりました。
○ そして描いた家の構想、これの実現の日を待ちながら、長い間暖めて来ました。 ○ それなのに、思わない交通事故、引き続いて病気、 このために、私達家族の夢は消えかかりました。 私が、大学二年のとき、通勤途中に交通事故に遭い、それが引き金となって、軽い脳梗塞に陥りました。何とか、半年後に、職場復帰を果たしました。当時は、余り深刻には考えなかったけど、父は参っていたんですね〜 ○ でも孝子の献身的な看病と、皆様の暖かい激励によって、
このように元気にしていただきました。 ○ 健康にも自信がついたので夢実現の決意をしました。 ○ 正彰が建築学科に入ったのも、幼い頃私が借り家の改造などの大工仕事をしていたのを 一緒に手伝っていたのが理由のようです。 ○ 私の構想を、設計図に書いてくれたのが、いまこの席にはおりませんが正彰です。 まさに「先憂後楽」が、この世代の人生観・・・今なら、「住宅ローン」を組んで、先ず「新築・改築」でしょうね・・・父が、建築デザイナーとしての私の「最初で最後のクライアント」となりました。私は、建築家としての才能に見切りを付け、「構造設計家」「研究者」の道を選びました。ですから私の「建築作品」はこれだけになります。 ○ たまたま、庄内町の兄が、仲間町に別宅を建築しました。その家を見せていただき、
その時の棟梁さんの大滝さんの技術の素晴らしさにほれこみ 私の夢の実現はこの人にお願いしてと決意し、兄の紹介によって 出来上がったのがこの家であります。 本当に、腕のいい棟梁でした。夏休み、帰省してズーッと仕事ぶりを見学させて貰いました。 ○ 学生の描いた図面を基に、私達家族の夢を形あるモノに造り上げてくれたのは、
この人があったからです。 感謝申し上げたいと思います。 正に、その通りです。日本の在来工法の建築大工技術は素晴らしいと思います。 ○ またこの夢実現のためには、本間、古沢両家の皆様から各方面に渡って、
物心両面から限りないご支援とご協力を頂きました。 ○ 本席は、この家族の喜びを皆様におわかちし、かつ感謝の意を表したいと考え、 はなはだ粗宴で失礼と思いましたが用意いたしました。 ○ 時間の許すかぎり、ご歓談頂ければ幸いと存じます。 長くなりましたが意のあるところをお汲みとり願いご挨拶します。 誠にありがとうございました。 こんな父でしたが、3年後、急性の直腸ガンで他界しました。(今だったら、治っていたと思います)こんな訳で、新築の家には3年しか住めませんでした。(合掌)この想い出の家も、2000年に、歳をとった母が、私の浦和の家に同居することになったのを機械に、売却しました。築後約30年の家でしたが、取り壊すことも無く、新しい家主に今も住んで頂いています。明日は、父の85歳誕生日、そして小正月です。「お父ちゃん、ご苦労様。ボクも頑張るからね〜!」このころ流行りました「喝采」です。 |
私の城下町・村上
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私、阿奉さんは1952年(昭和27年)新潟県の県北の城下町『村上』(むらかみ)で産まれ、1971年(昭和46年)高校卒業とともに故郷を離れ、以来、東京・浦和に住んでおります。
馬齢を重ねて今年は55歳になりますが、住んでいた家も7年ほど前売り払い、「故郷」と言っても帰る場所は無く、父の墓が在るだけになってしまった今、少年時代を過ごした、私の城下町「村上」に、そこはかとない郷愁を覚えるのであります。

村上のシンボル「お城山(臥牛山)」から、私の卒業した頃の「村上高校」を望む
この書庫には、「私の城下町『村上」にまつわる記事をご紹介しようと思っています。
現在、村上では若手の商店主が中心になって「むらかみ町屋再生プロジェクト」が進行中です。
『むらかみ町屋再生プロジェクト』 『同 相互リンクHP紹介』
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同窓会シリーズ第2弾 |
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http://blogs.yahoo.co.jp/srfch485/8653348.html 38年ぶりの同窓会行ってきました。 |
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日本民族の大移動 「旧盆」が今週末から始まります。 |








