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【攻撃を受ける英重巡洋艦エクゼター】

 日本海海戦以来初の日本の海軍が行った艦隊同士の海戦でもある、「スラバヤ沖海戦」の詳細な戦況は省略させていただきたい。

 結果として、インドネシア・スラバヤ沖で日本軍のジャワ島攻略部隊を連合軍が迎撃した海戦。日本海軍が連合軍の艦隊を撃破し、これにより日本軍のジャワ島上陸・占領が進むこととなった。

 双方の被害は以下の様であった。

 日本軍艦艇

 大破 駆逐艦:朝雲

 連合国軍艦艇

 沈没 重巡/エクゼター(英) 軽巡/デ・ロイテル(蘭)、ジャワ(蘭)
    駆逐艦/コルテノール(蘭)、エレクトラ(英)、ジュピター(英)
    駆逐艦エンカウンター(英)、ポープ(米)

 小破 重巡/ヒューストン(米)

 上記のように日本海軍の圧勝であった。
 さらに3月1日、バタビア沖海戦が行われ、インドネシア方面の連合軍艦隊は壊滅した。

 指揮官を失った残存4隻(ジョン・D・エドワーズ、ポール・ジョーンズ、ジョン・D・フォード、アルデン。いずれもアメリカの駆逐艦)は応急の隊列によりバシー海峡を強行突破、連合国領内へ撤退した。ここに到り連合国による蘭領東インドの維持は完全に不可能になった。

 そして、今回の「タイトル」にある話は、戦いの後におこる話である。

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1942年、スラバヤ沖海戦の掃討戦において撃沈されたイギリス海軍の重巡洋艦「エクセター」の乗組員376名を3月1日に「電」が救助した。
「雷」は翌3月2日、英駆逐艦「エンカウンター」等の乗組員422名を救助し、翌日、パンジェルマシンに停泊中のオランダの病院船「オプテンノール」に捕虜を引き渡した。

工藤俊作は1942年8月に駆逐艦「響」艦長に就任、11月に海軍中佐に昇進した。1944年11月から体調を崩し、翌年3月15日に待命となった。

戦後、工藤は故郷の山形で過ごしていたが、妻の姪が開業した医院で事務の仕事に就くため埼玉県川口市に移った。1979年に胃癌のため死去。生前は上記の事実を家族にも話さなかった。これは「雷」が1944年に沈没して多くの乗組員が犠牲になっており、その自戒の念から軍務について家族にも黙して語らなかったものと思われる。遺族がこの話を聞いたのは助けられた元イギリス海軍士官、サー・サムエル・フォール元海軍中尉からである。

2018/2/18(日) 午後 1:55 [ マレーシアにまた行きたいな ]


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