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[ 平和防災愛国 ]
2018/3/31(土) 午後 6:33
日本か海戦でロシア側の6,000名以上の捕虜は、多くが乗艦の沈没により海に投げ出されたが、日本軍の救助活動によって救命された。
また対馬や日本海沿岸に流れ着いたものも多く、各地の住民に保護された。
日本は戦時国際法に忠実であり、国際社会に日本は文明国であるとアピールするためにも戦時法遵守が末端の小艇の水兵にまで徹底されていた。
ロシア兵捕虜は、日本国民が戦時財政下の困窮に耐える中、十分な治療と食事を与えられ、健康を回復し帰国した。軍法会議での処罰を恐れる士官は日本にとどまることもできた。日本の戦時国際法の遵守には世界各国から賞賛が寄せられた。
負傷し捕虜となったロジェストヴェンスキーは長崎県佐世保市の海軍病院に収容され、東郷の見舞いを受けた。
極端な寡黙で知られる東郷が、付き添い将校が驚くほどに言葉を尽くし、苦難の大航海を成功させたにもかかわらず惨敗を喫した敗軍の提督を労った。
ロジェストヴェンスキーは「敗れた相手が閣下であったことが、私の最大の慰めです」と述べ、涙を流した。
[ マレーシアにまた行きたいな ]
2018/2/18(日) 午後 1:55
1942年、スラバヤ沖海戦の掃討戦において撃沈されたイギリス海軍の重巡洋艦「エクセター」の乗組員376名を3月1日に「電」が救助した。
「雷」は翌3月2日、英駆逐艦「エンカウンター」等の乗組員422名を救助し、翌日、パンジェルマシンに停泊中のオランダの病院船「オプテンノール」に捕虜を引き渡した。
工藤俊作は1942年8月に駆逐艦「響」艦長に就任、11月に海軍中佐に昇進した。1944年11月から体調を崩し、翌年3月15日に待命となった。
戦後、工藤は故郷の山形で過ごしていたが、妻の姪が開業した医院で事務の仕事に就くため埼玉県川口市に移った。1979年に胃癌のため死去。生前は上記の事実を家族にも話さなかった。これは「雷」が1944年に沈没して多くの乗組員が犠牲になっており、その自戒の念から軍務について家族にも黙して語らなかったものと思われる。遺族がこの話を聞いたのは助けられた元イギリス海軍士官、サー・サムエル・フォール元海軍中尉からである。
アームストロング砲
軍服・装備など
[ 武雄 淳 ]
2011/6/3(金) 午後 4:09
[ エネルギーを考える ]
2010/7/31(土) 午後 9:14
[ ssk*4*87 ]
2010/3/16(火) 午後 1:42
[ しんた ]
2009/10/12(月) 午後 5:17
合計24機スクランブル発進!
航空機
[ brassww2006 ]
2009/5/27(水) 午前 10:08





