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 さて、本テーマの主題は「スラバヤ沖海戦」の後から始まる。

 今から10年ほど前になるが、1998年4月英国では翌月に予定されている天皇の英国訪問への反対運動が起きていた。
 これに対して、元海軍中尉サムエル・フォール卿がタイムズ紙に一文を投稿した。

 「元日本軍の捕虜として、私は旧敵となぜ和解することに関心を抱いているのか、説明申し上げたい」

 スラバヤ沖で撃沈された英海軍の巡洋艦「エクゼター」及び、駆逐艦「エンカウンター」の乗組員4百数十名は漂流を続けていたが、翌2日、生存の限界に達した所を日本海軍の駆逐艦「雷(いかづち)」に発見された。

「エンカウンター」の砲術士官だったフォール卿は、「日本人は非情」という先入観を持っていたため、機銃掃射を受けて最期を迎えるものと覚悟した。
 ところが、駆逐艦「雷」は即座に「救助活動中」の国際信号旗を掲げ、漂流者全員422名を救助したのである。艦長・工藤俊作中佐は、英国海軍士官全員を前甲板に集め、英語で健闘を称え、『本日、貴官らは日本帝国海軍の名誉あるゲストである』とスピーチしたのだった。そして兵員も含め、全員に友軍以上の丁重な処遇を施した。

 このフォール卿の投稿によって、以後の日本批判の投書はことごとく精彩を欠くことになった。

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【攻撃を受ける英重巡洋艦エクゼター】

 日本海海戦以来初の日本の海軍が行った艦隊同士の海戦でもある、「スラバヤ沖海戦」の詳細な戦況は省略させていただきたい。

 結果として、インドネシア・スラバヤ沖で日本軍のジャワ島攻略部隊を連合軍が迎撃した海戦。日本海軍が連合軍の艦隊を撃破し、これにより日本軍のジャワ島上陸・占領が進むこととなった。

 双方の被害は以下の様であった。

 日本軍艦艇

 大破 駆逐艦:朝雲

 連合国軍艦艇

 沈没 重巡/エクゼター(英) 軽巡/デ・ロイテル(蘭)、ジャワ(蘭)
    駆逐艦/コルテノール(蘭)、エレクトラ(英)、ジュピター(英)
    駆逐艦エンカウンター(英)、ポープ(米)

 小破 重巡/ヒューストン(米)

 上記のように日本海軍の圧勝であった。
 さらに3月1日、バタビア沖海戦が行われ、インドネシア方面の連合軍艦隊は壊滅した。

 指揮官を失った残存4隻(ジョン・D・エドワーズ、ポール・ジョーンズ、ジョン・D・フォード、アルデン。いずれもアメリカの駆逐艦)は応急の隊列によりバシー海峡を強行突破、連合国領内へ撤退した。ここに到り連合国による蘭領東インドの維持は完全に不可能になった。

 そして、今回の「タイトル」にある話は、戦いの後におこる話である。

 スラバヤ沖海戦は、1942年2月27-28日にかけた太平洋戦争の初期に行われた海戦のひとつである。日本海軍が米英豪蘭連合軍の艦隊を撃破した。

 1942年、日本軍は資源地帯であるオランダ領インドネシア占領を目標としていた。

 2月になると、その中心地であるジャワ島占領を目的として、行動を開始した。そのため、陸軍の上陸船団とその護衛艦隊として重巡洋艦を中心とした第5戦隊を派遣した。


 一方、連合軍はそれを阻止するために、カレル・ドールマン少将を司令長官とする連合国艦隊を編成した。しかし、この艦隊は急遽編成された各国で構成された多国籍の混成艦隊であったため、部隊として円滑に行動できるものではなかった。

 参加兵力は以下のようである。

【日本軍艦艇】

 第5戦隊 司令官:高木武雄少将 重巡洋艦 那智、羽黒
  第七駆逐隊第一小隊 駆逐艦 潮、漣、山風、江風

 第2水雷戦 司令官:田中頼三少将 軽巡洋艦 神通
  第一六駆逐隊 駆逐艦 雪風、時津風、初風、天津風

 第4水雷戦隊 司令官:西村祥治少将 軽巡洋艦 那珂
  第二駆逐隊 駆逐艦 村雨、五月雨、春雨、夕立
  第九駆逐隊小隊 朝雲、峯雲

 蘭印部隊 司令官:高橋伊望中将 重巡洋艦 足柄、妙高 駆逐艦 雷、曙

【連合国軍艦艇】

 カレル・W・F・M・ドールマン少将

 蘭海軍
  軽巡洋艦:デ・ロイテル、ジャワ
  駆逐艦:コルテノール、ヴィテ・デ・ヴィット

 英イギリス海軍
  重巡洋艦:エクゼター
  駆逐艦:エレクトラ、エンカウンター、ジュピター

 米海軍
  重巡洋艦:ヒューストン
  駆逐艦:ジョン・D・エドワーズ、ポール・ジョーンズ、ジョン・D・フォード、アルデン、ポープ

 豪海軍
  軽巡洋艦:パース

 因みに、高木武雄少将とは当ブログ管理人は高校の後輩なることが、この記事を調べる中で発見したことの一つである。

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 この表題の主人公は海軍中佐「工藤俊作」である。写真は海軍少尉のころです。

 彼の略歴は、
 山形県生まれ。山形県立米沢中学校を経て、1920年、海軍兵学校に入学(第51期)。1923年、海軍兵学校を卒業。

 因みに、八八艦隊構想のため、海軍兵学校は第50期から第52期までは入学定員が300名に拡大されていた。あまりの大人数のため「食事は右手のみを使用すること」など兵学校で訓令が出たほほどであったらしい。

 遠洋航海終了後に、軽巡「夕張」に配属された。
 1924年10月に戦艦「長門」に転属、同年12月に海軍少尉に任官。以降、水雷学校、砲術学校の学生を経て、1926年に海軍中尉、第二号掃海艇乗り組みとなる。

 1927年、駆逐艦「椿」に転属、1929年、駆逐艦「旗風」の航海長となり、カムチャッカ方面の警備を担当。1930年に軽巡「多摩」、翌年に水雷学校高等科で学ぶ。

 1932年に水雷学校を卒業し、以後、駆逐艦「桃」水雷長、重巡「鳥海」分隊長、駆逐艦「狭霧」水雷長、軽巡「球磨」水雷長、「多摩」水雷長、軽巡「五十鈴」水雷長を歴任。1937年、海軍少佐に昇進、翌年、駆逐艦「太刀風」艦長となった。1940年陸上勤務となり、海軍砲術学校教官、横須賀鎮守府軍法会議判士を勤めた。同年11月、駆逐艦「雷」艦長となり太平洋戦争を迎えた。

 そして、「雷」は第六駆逐隊に属し、日米開戦時には香港の海上封鎖任務に就いていた。その後、南方の諸作戦に参加した。1942年、スラバヤ沖海戦に臨むこととなる。

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「貴官らは日本帝国海軍の名誉あるゲストである」

この言葉は、駆逐艦「雷」艦長・工藤俊作氏の言葉である。


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