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武蔵であるが、沈没している全体像が示されたわけではないが、上向きに沈んでいるようである。
対して大和はというと・・・
・ 上空の米軍攻撃隊指揮官達は「大和」の完全な転覆を確認する
・ お椀をひっくりかえすように横転した」という目撃談がある
・ 大爆発を起こし、艦体は2つに分断されて海底に沈んだ
などの証言・記録が残っている。 以下は、NHK特集「海底の大和」である。
海底の大和 1 of 5 |
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Musashi Expedition One English 昨日の、画像に引き続き、動画のアップとなる。
旧日本海軍が「戦艦」として最後に建造したのが本艦である。一番艦である「大和」は 「呉海軍工廠(現在のジャパン マリンユナイテッド)」の建造であり、武蔵は「三菱重工業」長崎造船所建造が建造したものである。 参考であるが、同造船所は、金剛型戦艦「霧島」、伊勢型戦艦「日向」、加賀型戦艦「土佐」、天城型巡洋戦艦「高雄」[7](八八艦隊未完成艦)に続いて5隻目となる。
「土佐」や「高雄」の4万トンであり、大和型7万トンへの一気に飛躍している。当然ドック拡張など技術的問題はかなりあったものと推測される。
因みに、海上自衛隊向けの艦船も多々建造している。
代表的なものは
・ こんごう級 「こんごう」「きりしま」「みょうこう」 4隻中3隻
・ あたご級 「あたご」「あしがら」 全2隻
・ あきづき級 「あきづき」「てるづき」「すずづき」 4隻中3隻
こうしてみると、本造船所の主力艦建造のシェアはかなり高い。
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【シブヤン海で戦艦武蔵を発見」MS共同創業者ポール・アレン氏が報告】
本日、上記記事がネット上でかなり踊っていた。
これに触発され、本記事を書くことに決めた。
「大和級戦艦」の概要は・・・
基準排水量:64,000t(満載:71,100t)
全長:263.0m
全幅:38.9m
主機:艦本式タービン4基4軸150,000馬力
速力:27.0ノット(約50km/h)
乗員:約2,500名
主砲:45口径46cm3連装砲 3基
装甲:舷側 410mm
甲鈑:230mm その大きさは、いまだ持って戦艦としては世界最大である。
建造費も莫大で、当時の金額で「約1億4千万円(資料により誤差あり)」と現在の貨幣価値にすると2兆ほどにもなる莫大なものであった。(参考であるが、零戦1機が10万円ほどである。)
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不来方城と盛岡城はどうやら異なるものらしい。
下記は「Wikipedia」からの引用である。
伝承によれば、かつてこの地には「羅刹」と呼ばれる鬼がいて、人里を荒らしまわっていた。このことに困っていた里人たちが、三ツ石(盛岡市に現存する「三ツ石神社」)の神に祈願したところ、鬼は神によって捕らえられた。この時、鬼が二度とこの地に来ない証として、岩に手形を残した。これが「岩手郡」、のちに岩手へと連なる地名の由来である。また、「二度と来ない方向」の意味で、一帯に「不来方」の名が付されたと伝えられている。
また「さぁさぁ踊れ」と人々が囃し、奉納した踊りが、「さんさ踊り」だとされ、現在でも盛岡の夏の風物詩として受け継がれている。
さらに、三ツ石神社のある盛岡市名須川町はかつて「三ツ割村(みつわりむら)」の一部であり、「三ツ石」の伝承が地名成立に影響を与えてきたことが知られる。
「不来方」から「森ヶ岡」へ
不来方の改名は、三戸城下から進出した時の南部藩主がこの名を「心悪しき文字」と忌み嫌ったためと伝えられる。後に「森ヶ岡」次いで「盛岡」が城下町の名として用いられるまで、当地は「不来方」の名で呼ばれたと伝えられる。これは「永福寺」所在地の裏山が「森ヶ岡」と呼ばれたことに関わると見られる。
「森ヶ岡」から「盛岡」へ
永福寺の山号は、現在「宝珠盛岡山」である。「盛岡」は、江戸時代後期の元禄期、当時の南部藩主・南部重信公と、盛岡城の鬼門を鎮護する真言密教寺院、永福寺・第四十二世清珊法印との連歌によって生まれたと伝えられる。
幾春も 華の惠の露やこれ 宝の珠の 盛る岡山
城下町として「盛岡」の名が定着、後に藩名そのものも「南部」から「盛岡」へ改められる。 しかし、町名として「不来方」が残ることは無かった。 さて、ではこの「不来方」という名前は盛岡市内のどこかに残ってはいないのであろうか?
ググっていると・・・
「県立不来方高校」があることはわかった。1988年4月1日開校の比較的新しい高校のようである。
多分、詳細に調べればもっと出てくると思われる。
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先日、盛岡城を攻める機会を得た。
当ブログ管理人の基本方針ではあるが、自ら攻城したもののみを報告することにしている。
盛岡城で、会津若松城・白河小峰城と奥州三大石垣を制覇したことになる。
現在の盛岡城…いわゆる盛岡城跡公園の概要図である。
堅牢な石垣もさることながら、足元は前日の雪でかなり滑った。仕事の帰りであり、靴は関東仕様のビジネスシューズでの攻城は難航を極めた(笑)
当時の城の見取り図も当然であるが掲示されてある。
今回は、JR盛岡駅から徒歩で来たので、ちょうど榊山曲輪からの入城となった。
もともと急こう配と圧雪で足元はかなり滑る。
上から見るとこのようになっている。
なんとか本丸に登城成功!
本丸へは上図にもあるが「淡路丸」経由で上った。これは淡路丸から本丸への入り口いわゆる桝形であろうか
本丸と二の丸の間は空堀で仕切られ現在は朱塗りの橋が架かっているが、存城当時は廊下橋(屋根のかかった橋)が架けられていたそうである。
三の丸の入り口(桝形)はかなり堅牢に作られているのがわかる。
「不来方のお城の草に寝ころびて空に吸はれし十五の心」石川啄木の歌碑が置いてあった。
隣接の盛岡歴史文化館が本日の最終目的地であった。
官兵衛の鎧は・・・時期外れで飾ってはありませんでした。
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