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江戸時代「鎖国」をしていた・・・・
当ブログ管理人もそのように社会の授業で習いました。
しかし、先日下記のような記事が流れ、今後義務教育では「鎖国」という表現は無されないようです。
実際、江戸幕府は鎖国をしていたのでしょうか?
異論はありますが、私個人的な見解として、鎖国をしていたとみるべきであるとおもいます。
経済面(貿易額)を見れば所謂鎖国ののち急速に海外との貿易額は増えてます。江戸幕府の対外政策は「国民の対外交流を大きく制限しつつ貿易額の増大を計った」ということになるとおもいます。
完全に外交を遮断したわけではなく、蘭・中・朝鮮などとは国交を交えつつも、一般国民(この当時国民という表現が正しいかどうかはわまかりません)には厳しく外国人との交流を禁止しております。
1633年(寛永10年)第1次鎖国令。
奉書船以外の渡航を禁じる。また、海外に5年以上居留する日本人の帰国を禁じた。
1634年(寛永11年)第2次鎖国令。
第1次鎖国令の再通達。長崎に出島の建設を開始。
1635年(寛永12年)第3次鎖国令。
中国・オランダなど外国船の入港を長崎のみに限定。東南アジア方面への日本人の渡航及び日本人の帰国を禁じた。
1636年(寛永13年)第4次鎖国令。
貿易に関係のないポルトガル人とその妻子(日本人との混血児含む)287人をマカオへ追放、残りのポルトガル人を出島に移す。
1639年(寛永16年)第5次鎖国令。
ポルトガル船の入港を禁止。それに先立ち幕府はポルトガルに代わりオランダが必需品を提供できるかを確認している。
これだけの事例がある事から、やはり鎖国は制度として確立されていたと考えるべきではないでしょうか?
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歴史
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江戸城と言えば言わずと知れた徳川幕府の中枢である。当然城砦としての機能と同時に現代風に言えば行政機関としての機能も併せ持つ。
今回、さまざまなサイトでも紹介されているが、江戸城は築城当時「最終決戦」に備えた城であったことを証明するものであった。
歴史的には軍事的な機能は果たすことなくその役目を終え現在は皇居として首都東京の中心に存在している。
以下は、2/8日経より引用である。
縦27.6センチ、横40センチの江戸始図は、江戸城の石垣や堀、出入り口など城郭の平面構造を詳細に描写。本丸の堀に面した石垣の上には大天守と2つの小天守が多聞櫓(やぐら)と呼ばれる長い櫓で連結されている。巨大な要塞として機能するさまが見て取れ、大天守と3つの小天守が連結する姫路城に類似した構造だったことが判明した。
本丸の出入り口には、枡形(ますがた)と呼ばれる侵入した敵を攻撃するための方形の空間が5つ、連続して設けられていた。攻め込んで来る敵の勢いを止め、多方向からの攻撃が可能で、熊本城のようなつくりと分かった。松江歴史館は「江戸城は、姫路城と熊本城の優れた部分を合わせた最強の城だった」と分析している。
江戸城の天守は2代秀忠と3代家光が建て替えたが、57年の明暦の大火で焼失した後は再建されなかった。家康の江戸城を描いた絵図もあるが本丸の詳細は不明だった。
江戸始図は17日から3月15日まで松江歴史館で公開される。 |
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不来方城と盛岡城はどうやら異なるものらしい。
下記は「Wikipedia」からの引用である。
伝承によれば、かつてこの地には「羅刹」と呼ばれる鬼がいて、人里を荒らしまわっていた。このことに困っていた里人たちが、三ツ石(盛岡市に現存する「三ツ石神社」)の神に祈願したところ、鬼は神によって捕らえられた。この時、鬼が二度とこの地に来ない証として、岩に手形を残した。これが「岩手郡」、のちに岩手へと連なる地名の由来である。また、「二度と来ない方向」の意味で、一帯に「不来方」の名が付されたと伝えられている。
また「さぁさぁ踊れ」と人々が囃し、奉納した踊りが、「さんさ踊り」だとされ、現在でも盛岡の夏の風物詩として受け継がれている。
さらに、三ツ石神社のある盛岡市名須川町はかつて「三ツ割村(みつわりむら)」の一部であり、「三ツ石」の伝承が地名成立に影響を与えてきたことが知られる。
「不来方」から「森ヶ岡」へ
不来方の改名は、三戸城下から進出した時の南部藩主がこの名を「心悪しき文字」と忌み嫌ったためと伝えられる。後に「森ヶ岡」次いで「盛岡」が城下町の名として用いられるまで、当地は「不来方」の名で呼ばれたと伝えられる。これは「永福寺」所在地の裏山が「森ヶ岡」と呼ばれたことに関わると見られる。
「森ヶ岡」から「盛岡」へ
永福寺の山号は、現在「宝珠盛岡山」である。「盛岡」は、江戸時代後期の元禄期、当時の南部藩主・南部重信公と、盛岡城の鬼門を鎮護する真言密教寺院、永福寺・第四十二世清珊法印との連歌によって生まれたと伝えられる。
幾春も 華の惠の露やこれ 宝の珠の 盛る岡山
城下町として「盛岡」の名が定着、後に藩名そのものも「南部」から「盛岡」へ改められる。 しかし、町名として「不来方」が残ることは無かった。 さて、ではこの「不来方」という名前は盛岡市内のどこかに残ってはいないのであろうか?
ググっていると・・・
「県立不来方高校」があることはわかった。1988年4月1日開校の比較的新しい高校のようである。
多分、詳細に調べればもっと出てくると思われる。
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先日、盛岡城を攻める機会を得た。
当ブログ管理人の基本方針ではあるが、自ら攻城したもののみを報告することにしている。
盛岡城で、会津若松城・白河小峰城と奥州三大石垣を制覇したことになる。
現在の盛岡城…いわゆる盛岡城跡公園の概要図である。
堅牢な石垣もさることながら、足元は前日の雪でかなり滑った。仕事の帰りであり、靴は関東仕様のビジネスシューズでの攻城は難航を極めた(笑)
当時の城の見取り図も当然であるが掲示されてある。
今回は、JR盛岡駅から徒歩で来たので、ちょうど榊山曲輪からの入城となった。
もともと急こう配と圧雪で足元はかなり滑る。
上から見るとこのようになっている。
なんとか本丸に登城成功!
本丸へは上図にもあるが「淡路丸」経由で上った。これは淡路丸から本丸への入り口いわゆる桝形であろうか
本丸と二の丸の間は空堀で仕切られ現在は朱塗りの橋が架かっているが、存城当時は廊下橋(屋根のかかった橋)が架けられていたそうである。
三の丸の入り口(桝形)はかなり堅牢に作られているのがわかる。
「不来方のお城の草に寝ころびて空に吸はれし十五の心」石川啄木の歌碑が置いてあった。
隣接の盛岡歴史文化館が本日の最終目的地であった。
官兵衛の鎧は・・・時期外れで飾ってはありませんでした。
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現在前橋城の跡地にそびえるのは「群馬県庁」である。
城跡に県庁・市役所などが建てられているのは日本国内いたるところにある。特に江戸時代初期に建てられた城跡にはその傾向があると思われる。
参考であるが、平成27年NHK大河ドラマ「花燃ゆ」関連の施設であり、関連サイトもできている。
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