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戦艦「陸奥」 海底に横たわる船影捉える さて、世の中「武蔵」発見に沸いている中で、戦艦「陸奥」の現在をとらえた動画もアップされてきた。
別段「武蔵」に対抗するものではないであろうが・・・
戦後の日本人にとっては、大和・武蔵は旧日本海軍を象徴する戦艦であるが、当時の国民にとっては、長門・陸奥が代表する戦艦である。
長門型戦艦の2番艦で、1番艦の「長門」と共に、日本の力の象徴として戦前の国民に長く愛された。「陸奥」と「長門」は交互に連合艦隊旗艦の任にあったため、知名度は高く、戦前の学校の教科書に描かれたり、男子がイメージする軍艦といえば、当時の連合艦隊旗艦である「長門」や「陸奥」であった。『陸奥と長門は日本のほこり』といういろはがるたも作られたそうだ。
海軍兵学校でも「陸奥、長門の四〇センチ砲が太平洋を睨んでいればアメリカは攻めてこない」と語り継がれた程である。
現実は、その後の歴史が示してはいたが・・・・
1943年(昭和18年)6月8日、原因不明の爆発事故を起こし柱島沖で沈没。戦後に浮揚作業が行われ、1970年(昭和45年)には、艦体の一部や菊の御紋章、主砲身や主砲塔などが回収され、日本各地で「陸奥」の装備が展示された。大戦末期にアメリカ軍の攻撃で沈没し、終戦後に浮揚され解体処分された他の日本軍艦と異なり、艦体の一部が2011年現在も沈没場所に残っている。
軍艦 陸奥は陸奥湾に入泊した際には内神社は岩木山神社の御分神を祀っていたため、多くの乗組員も岩木山神社に参拝したそうである。
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Musashi (武蔵) Expedition 戦艦武蔵動画 ful lversion が公開された。
猪口敏平艦長以下1023名の墓標でもある。引き揚げの話も出てるが、今後も静かに眠らせておいてほしいと思う。
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無線送電実験にJAXAが成功 宇宙太陽光発電に一歩 宇宙航空研究開発機構(JAXA)などは8日、電気を無線で飛ばす実験に成功した。宇宙空間に浮かべた太陽光発電パネルから地上に送電する「宇宙太陽光発電」のに不可欠な技術で、今後の研究につなげる。(朝日新聞デジタル)
これで、アニメやSFの世界にまた一歩近づきました。 |
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棚倉城は江戸時代の近世城郭でる。「赤舘」が当地の戦国時代以前の中心であった。
以下は、上図の内容である。
赤館の南面に降る雨は久慈川となって関東を潤し、北面は阿武隈川となって奥州を潤す。
標高わずか345mのこの丘陵地は、関東東北の分水嶺であり、文化の交差点であり、軍事的要衝だった。
鎌倉初期この赤館は伊達氏が得た飛び地であったが、南北朝以後白川結城氏の一円(直轄地)となった。応仁の乱の時、白川結城氏は京以上の文化を花咲かせた。
永正10年(1510)戦国大名の佐竹氏は白川結城氏の依上保(大子を含む北茨城県)を支配した。
やがて佐竹氏は東館・羽黒館(塙)・流館(近津)等と赤館以南の九南郷館を支配した。
元亀2年(1571)白河義親は南郷の領土奪回にでて南郷一帯で激戦となった。これを好機と小田原の北条氏が佐竹家臣の下妻城を攻めたので、佐竹は赤館を放棄する和睦を結び、南転して行った。
この年は信長が延暦寺を焼き討ちした年であったが、棚倉が戦火に蹂躙された年でもあり、以後毎年のごとく棚倉は戦禍を被った。
天正3年(1575)佐竹は前年に続いて赤館を攻めたが葦名・結城連合軍が撃退する。この時葦名軍は付近の稲を青刈りした。青刈りはやがて情ある結城の武将斑目兄弟の悲劇となる。戦国無情の感がある。
天正18年(1590)正月伊達政宗は「七草を一葉によせて摘む根芹」と謳歌した。七草とは白河が入る七郡で、伊達市は分国を挟むことなくこの赤館で佐竹氏と対峙した。
今も南麓の川はこの時城攻めに掘ったものと伝えられている。しかし、同年の豊臣秀吉の「奥州仕置」で白川結城氏は消滅し、棚倉は佐竹領地と公認された。
徳川の天下となると、佐竹は秋田に追われ棚倉は天領となった。
慶長14年(1609)立花宗茂が5万石赤館城主となった。
翌年城の東に遷宮した宇賀神社は、今も棚倉町の氏神と栄えている。関ケ原で敗れて、筑前柳川城からここに移された立花宗茂が最後の城主。
元和8年(1622)丹羽長重が5万石赤館城主となった。赤館は戦国の館に過ぎないので、5万石に相応しい家臣団を擁する城郭ではなかった。かつて越前等123万石を支配した長重は、2年後から現在の城跡の地に平地城を築城しはじめた。以後の赤館は廃棄された。長重は粗壁の乾かぬうちに白河10万石に転封され去った。
寛永4年(1627)内藤信照が5万石棚倉城主となると築城と同時に、城下町特有の町形につくり、検断や名主を置き経済の中心地とした。
寛永6年(1629)京都徳大寺の玉室和尚が棚倉に流され、沢庵は上山に流された。中世的権利を主張する後水尾天皇の怒りを静めるため家光の乳母斎藤氏(春日局)が参内したが、天皇は皇女興子内親王に譲位するほどの紫衣事件であった。信照は根古屋観音堂の側に小庵を建て玉室を加護した。
この草庵跡に「玉室宗珀謹居之跡」の大石碑あり、付近で「南無阿弥陀仏」と書かれた小石が見つかると古老は語る。
天明3年(1783)天明の飢饉で根古屋村が滅んだ。山上に城のある麓の城下町を根古屋というが赤館の麓にも根古屋村があった。眼下の川は根古屋川といい、根古屋堰は御城水と呼ばれ城堀に清水を注いだ。
誰が名付けたか赤館と呼ばれ、古代人の足跡の上に、堀跡があり、その上に館跡があり、その上に公園がある。
人間の汗と涙と喜びで綴る祖先の生活を私たちに物語ってくれる。
現在の平和で活力のある棚倉の幸せを語ってくれる。未来の子孫のここから紺碧の空と四方の緑と眼科の街と川に愛着を感じ、家族を慈しみ町を愛し続けてくれるであろう。
赤館は単なる遺跡や公園ではない。棚倉人の心の楯として生き続ける聖地だ。
【赤舘城図】
立花宗茂が関ヶ原で西軍に与し、浪人生活ののち1万石で大名に返り咲いたのがこの赤舘である。
彼の気量は1万石であるわけもなく、元和6年(1620年)、幕府から旧領の筑後柳川10万9,200石を与えられる。
関ヶ原に西軍として参戦し一度改易されてから旧領に復帰を果たした、唯一の大名である。
また戦国武将としては世代が若く、伊達政宗や加藤嘉明・丹羽長重らとともに、徳川家光に戦国の物語を語る相伴衆としての役目も果たした。
なお、相伴衆となった晩年は秀忠・家光に近侍し、重用されたようで、将軍家の茶会や諸大名の屋敷が完成した際の披露会などに頻繁に将軍と共に随伴している。『立斎旧聞記』によれば、「この日本の諸大名歴々たりといえども、御前にて頭巾をかぶり、殿中にて杖をつく人は宗茂の他は一人もないとのことである。今すでに、将軍の寵遇、他に超えたり」。
家光が能、狂言、茶席など宴を催された際や、上洛、大坂行き、日光社参など、何処に行っても宗茂を相伴され、『徳川実紀』にも「立花飛騨守宗茂入道立斎はさる古兵にて武名一時に隠れなし。当代御咄衆の第一にて御待遇並々ならず」と記述がある。
【赤舘の主郭から棚倉城を望む】
立花宗茂の後を受けて1620年(元和6年)棚倉藩に5万石で入封した丹羽長重は、それまでの山地の城を避け、棚倉盆地の中央にあった都都古別神社を遷宮しその跡地に江戸幕府の許可を得て棚倉城を1625年(寛永2年)に築城した。
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CANDY ROCKET PROJECT キャンディでハイブリッドロケットを飛ばせ! 化学燃料ロケットの燃料は推進剤には、一般的には、「コンポジット推進剤」と呼ばれる合成ゴム系の材料を金属粉、及び酸化剤と混錬したもの(固体ロケット)や、ケロシン、ヒドラジン系の燃料に硝酸や過酸化水素などを酸化剤に使った液体燃料ロケットなどが現在は主流でる。
このCandy Rocket Projectでは、固体の燃料と気体または液体の酸化剤を使用するハイブリットロケット方式を採用して打ち上げに成功している。
今後、宇宙空間の緊急時における、食料などを燃料としたロケットが開発されるかもしれない。
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