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 この言葉は、別に軍制のみのものではなく一般企業にも取り入れられているシステムである。

 用語の解説にまず入ると、「スタッフ」とは幕僚・参謀などをさす。

 因みに、ゼネラルスタッフという言葉も使われるようになる。当初ゼネラルスタッフは将軍付のスタッフという意味から始まる。
 しかしその意味合いから歩兵・騎兵など兵科を超越したスタッフとされるようにもなる。
 ゼネラル(将軍)も兵科を超越した階級でもあり、いわゆる参謀本部に所属する参謀そのものをさすように変遷する。さらに統合作戦本などができるとここに所属する参謀という意味にもなってくる。

 ラインのほうであるが、いわゆる「縦」の命令系統のことである。

 近代軍制においては常備軍が主流である。これは、各部隊を有機的且つ柔軟に運用するためである。
 もちろん、部隊の規模・種類は様々であり、その指揮官も部隊の大きさなどにより様々な階級が割り当てられることとなる。
 そして、ラインが保たれることにより指揮系統が発揮されるともいえる(因みに制服そして制服に冠される様々な徽章も指揮系統の象徴でもある)。
 ラインが保たれることにより、軍司令官が命令を発することで、末端の部隊まで統率され動くことも出来るととなる。

 ラインとスタッフの関係は縦と横の関係である。ラインは縦、スタッフは横のことである。
 スタッフはラインを補佐する形で存在する。師団参謀・軍参謀などが存在するのはこのためである。
 師団長・艦隊司令官などはラインである。そして、副官・幕僚・参謀はスタッフである。これがライン−スタッフ制の基本形であり、現在はこのライン−スタッフ制をすべての国が取っているともいえる。

 企業などの組織でもこのようなライン−スタッフ制に近い組織運営をしているところがほとんどではないだろうか?

 ある企業の営業部門を想定すると、営業本部が参謀本部にあたり、軍司令官が営業本部長といえる。各支店長が師団長や艦長にあたりその幕僚として各営業所長がいる。営業所単位で考えると、係長が幕僚(スタッフ)で営業所長がライン長とも言える。

 「クレメンス・ウィルヘルム・ヤコブ・メッケル(Klemens Wilhelm Jacob Meckel)」彼を語らずして日本の参謀本部誕生の話は語れない。

 陸軍の近代化を推し進めていた日本政府は普国に兵学教官派遣を要請した。

 普国側は参謀総長のモルトケの推薦により陸軍大学の兵学教官の「モルトケの懐刀」と言われるメッケル参謀少佐を派遣することした。
 当時日本では仏国人の軍事顧問団が派遣されており、仏国対する対抗として派遣を決めたのであった。そして彼は1885年(明治18年)に来日した。

 実は1年の任期でとある意味だます形で嫌がる本人の承諾を得たということらしい。ただし、彼はドイツに帰国後も自らが育てた日本陸軍の成長に日頃から気を留め、日露戦争開戦時、満州軍参謀総長に任命された児玉源太郎にメッケル自身が立案した作戦計画を記した手紙や電報を送ったりしている。

 また欧米の識者が日本の敗北を疑わなかった時期に早くから日本軍の勝利を予想、「日本陸軍には私が育てた軍人、特に児玉将軍が居る限り露国に敗れる事は無い。児玉将軍は必ず満州から露国を駆逐するであろう」と述べたと伝えられている。

 何故に参謀少佐と表記されるのかと言えば、普陸軍では参謀科は歩兵科、工兵科、砲兵科と同じく独立した兵科であるからである。

 メッケル参謀少佐は兵学の権威であり、独側の好意は望外の喜びであった。日本陸軍はメッケル少佐を陸軍大学校教官に任じ、参謀科将校の養成を任せた。

 メッケルの着任以前の日本では仏陸軍式の兵制を範としていたが、メッケルはそれを改め、普国式の兵制を導入した。
 陸軍大学校での教育は徹底しており、彼が教鞭を取った3年間で卒業出来た者は僅か半数と云う厳しいものでった。その一方で兵学講義の聴講を生徒に限定せず、聴講したい者であれば自由に聴講する事を許したので、陸軍大学校長であった児玉源太郎を始め様々な階級の軍人が熱心に彼の講義を聴講した。

 また、1886年に山県有朋、大山巌らによって始められた陸軍改革でも、メッケルはご意見番として貢献した。
 1888年彼は当初の予定を上回る3ヵ年滞在した後帰国した。

 陸軍大学教官当時彼は、関が原の戦いの東西両軍の陣形図を見せられ、「どちらが勝ったと思われますか?」と質問された際、「この戦いは西軍の勝ちである」と答えたという逸話は有名である。

 さて、1857年モルトケが総参謀長に就任当時に状況はどのようなものであったろうか?

 軍隊のありようはある意味科学技術の有り様と供に変化を余儀なくされる。
 時は19世紀半ばである。鉄道・通信など様々なものが発明され実用化の段階になって言った時期でもある。さらにプロイセン軍も徴兵制を推し進め要員も飛躍的に増大していった。

 人員が増え、使用する技術も複雑化するに対応するにはなんと言っても人材が不可欠である。同様の状況はプロイセンに限ったことではない。さらに言えば現代でも同様であろう。

 科学技術が戦略戦術に大きな変革をもたらしたことも事実である。前出のシャルンホルストの時代には考えとして存在していた、「外線作戦」「分進合撃」といった複数の部隊を別々の方向から進め敵を圧迫、包囲、そして殲滅するような戦術が当然巧みに展開する可能性が出てきたのである。

 他方向の敵を圧迫するにあたり、当然であるが、各部隊の連携が最重要課題である。バラバラに動けば作戦は失敗するであろうし、命令戦法で行動を規制していては柔軟性にかけ、外線作戦などのメリットを失ってしまう。(太平洋戦争のMI作戦などが命令戦法で分進合撃戦法が失敗した代表例かもしれない。)

 つまるところ、本部(この場合は参謀本部となる)の思惑にのっとりつつもある程度独断で行動してくれる状態が理想とも言える。現実の戦闘では様々な不確定要素が生まれ実働部隊はこれらの要素、例えば天候の急変などに対処を求められる。
 予想外の事態に対して部隊にある程度の自由裁量を認めてあれば対処もしやすい。わざわざ本部の命令を仰ぐ必要もなくなり、迅速な対応にもつながることとなる。

 モルトケ総参謀長の最大の仕事は優秀な人材を育成することであったはずである。
 最新の技術を理解し作戦に応用することが可能な若手の将校を教育・育成し、参謀本部・各部隊に任命して言ったのである。
 この教育課程の中で若手の将校はモルトケとドクトリンも共有するようになっていた。このドクトリンの共有システムが「訓令統帥」と呼ばれるシステムである。ただし、普墺戦争当時は充分この新システムは機能しなかった。熟成され普仏戦争の段階では充分機能し仏軍を圧倒することに成功し、「普国」から「独国」へ統一される。

 当然であるが、この功績で参謀本部の地位は陸軍内部ではトップとなる。
 現代の軍隊組織は全て参謀本部が全ての部隊を統括するシステムをとっているが、このプロイセン参謀本部を基にしているのである。

 ただし、太平洋戦争当時の日本ではあまりに参謀本部が力を持ちすぎ暴走し戦線を悪戯に拡大してしまった状況を生み出す結果ともなった。

イメージ 1

1813年に第5代プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は、ロシア遠征に敗北したナポレオンに宣戦布告し、ブリュッヘル将軍を総大将に、シャルンホルストを「Erster Generalquartiermeister(現在の参謀総長)」、グナイゼナウを「Zweiter Generalquartiermeister(現在の参謀次長)」に任命して、ナポレオン支配からの独立を目指した。戦傷が元で死亡したシャルンホルストの跡をグナイゼナウが継ぎ、プロイセン軍は1814年にはパリを占領し、ナポレオンをエルバ島に追放した。

 ヘルムート・フォン・モルトケ(上記写真)、グナイゼナウはプロイセン陸軍を特徴つける重要な慣行を制度化した。軍指揮官との共同責任 (Joint Responsibility) と委託命令(Mission-type tactics)である。実施部隊の参謀長は軍指揮官と決定に対して責任を分かち合う。不一致の場合に参謀長は、参謀総長に直接見解を伝えることが出来る。こうして参謀科将校の団結を強化し、軍指揮官に対する牽制となった。また、委託命令とは、高級指揮官は目的・目標を明確に指示するが、達成については実施部隊の下級指揮官が臨機応変に実行する権限を与えることである。

 プロイセンで参謀本部が兵站総監部から独立したのは1821年のことである。
 新設された役職ながら、陸軍大臣と同格とされ、最高指揮官である国王を補佐する立場とされた(輔弼とよばれる)。ある意味この時点が「参謀本部の誕生」の瞬間とも言える。

 本格的な「参謀本部」を形成したのは「プロイセン」のちの独国である。

 ゲアハルト・フォン・シャルンホストが参謀本部誕生の父とも言える人物であろう。
 このプロイセン参謀本部の原点はフリードリヒ・ヴィルヘルム大選帝侯(在位1640年-1688年)まで遡る。この時代、プロイセン公国に初めて常備軍が設けられたことでも知られる。
 当時強力であったスウェーデン軍を真似て食料、野営地、武器等を担当する Quartier-meister-stab という部署が設けられた(兵站幕僚と訳される)。この組織がプロイセン王国に発展する時代の流れに生き残り、General-quartier-meister-stab(兵站総監部)と呼ばれる部署に発展する。

 1808年にゲアハルト・シャルンホルストがこの兵站総監部を率いた。

 シャルンホルスト就任当時参謀本部は上記兵站総監部の下の組織であった。
 ナポレオンとの戦いの中軍制改革を急ぐことは当事のプロイセンにとっては急務であった。シャルンホルストは、アウグスト・グナイゼナウとカール・フォン・クラウゼヴィッツらと共同で様々な改革に着手する。
 そして軍団・師団長(ライン)と参謀(スタッフ)をおき、「訓令」によりある程度の柔軟性を各部署に持たせた。これにより、ナポレオンの命令を墨守するのみで柔軟性を欠くこととが多かった仏軍に対抗できるようになったのである。

 当事の参謀の任務は輸送・総務・測量などともに、戦略・戦術とされ、軍事官僚としての管理官の職責から一歩前進したといえる。

 シャルンホルストはさらに参謀たちを教育するためにも本部勤務と部隊勤務を両方を経験させることを実施した。参謀は隊付では司令官と同じ訓練を行うようにる。本部勤務時に基本戦略作成にかかわる。これらの人事交流で本部で練られた様々な基本戦略、ドクトリンともいえる部分を本部と現場が共融できる環境を整えていったのである。当然であるが同じドクトリンを持つ将校が急速に増えて行ったことも重要である。


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