航空機

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日本が作った航空機4

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 川崎航空機工業のお話である。
 現在の「川崎重工」のことである。因みに川崎重工は戦後初めて航空機を製作した会社である。その名は「KAL-1(写真上)」、1953年7月に戦後の国産機としては初の引込脚・全金属製のスマートな4座機としてKAL-1連絡機試作1号機は完成、同年7月21日に初飛行に成功。
 その設計・製作には戦時中、二式複座戦闘機「屠竜」や三式戦闘機「飛燕」の設計を手がけた土井武夫氏・井町勇氏をアドバイザーに迎えて進められたそうです。
 その後当然ですが「YS-11」製作にもかかわっていきます。

 話は川崎航空工業へ戻します。
 航空機メーカーとしての川崎の出発点は大正8年に渡仏中の川崎造船所社長松方幸次郎がサルムソン偵察機の製造権とそのエンジンの製造販売権を獲得したところからである。当初は川崎造船所飛行機科という造船所の一部所として始まった歴史であったが昭和12年(1937年)に川崎航空機工業として独立した。
 日本随一の液冷発動機メーカーでもあったため、空冷発動機全盛だった日本航空界において目立った存在であったそうです。この水冷式のエンジンはBMW・ダイムラーベンツよりの技術提携によって確立されたそうです。

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 川西と言えば二式大艇である!個人的に最も愛する、航空機(飛行艇)でもある。

 川西は、中島飛行機から袂を分けた川西清兵衛1920年に設立した川西機械製作所飛行機部が川西航空機の前身である。昭和3年(1928年)に川西航空機株式会社として独立した。
 海軍機を専門に手がけ、特に飛行艇や水上機開発では第一人者として活動している。また太平洋戦争末期には優秀な局地戦闘機「紫電」や局地戦闘機「紫電」改(上記写真)も送り出し戦闘機メーカーとしても名を残している。
 大型飛行艇の生産がメインだったため太平洋戦争中の生産機数は少ないものの、重量ベースで生産量を考えたときにはいわゆるシェア(太平洋戦争中の全生産機数に占める割合は約3%)は大きく飛躍するものと思う。
その血統を由緒正しく受け継ぐのが「新明和」の名である。PS−1/US−1といった名飛行艇を生み出し、飛行艇王国日本を支えている。

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 中島飛行機を継承する会社は富士重工である。その一部はプリンス自動車であるがこれはすでに日産の一部として存在するので、正当な継承者はスバルであろう。
 その、血筋の正当性を示すように日本国内唯一のボクサーエンジン(写真上:インプレッサSTI仕様BoxerEngine)の製造メーカーである。

 陸海軍大臣の監督のもと、気球および飛行機の研究を目的に1909年(明治42年)「臨時軍用気球研究会」が、軍民両方の委員で組織された。この研究会に、明治17年群馬県尾島町の農家の出身で苦学の末海軍機関学校を卒業した中島知久平機関少尉が御用掛として任官した。

 このころ海軍自身も1912年(大正元年)に研究会とは別に初めて独自に海軍航空術研究委員会を発足させて、事務所を田浦の横須賀推雷団内に設置、水上機の飛行場を近くの追浜海岸に建設することとなった。そして米国のカーチス式水上飛行機と仏国のモーリス・ファルマン式水上飛行機を購入する事になる。中島少尉は1913年5月、この海軍航空術研究委員会に属し実地研究に携わり、さらに横須賀海軍工廠造兵部の飛行機造修工場長、監督官に任ぜられ、ファルマン機生産監督のため仏への出張、第一次大戦を通じ航空機の重要性を痛感し、当時の大艦巨砲主義におおいに異論を唱えた。

 1916年欧州へ航空事情の視察を通じ中島知久平は「経済的に貧しい日本の国防は航空機中心にすべきであり、世界の水準に追いつくには民間航空産業を興さねばならない」と意を固め、健康上の理由にして海軍に休職願いを出した。そして神戸の肥料問屋石川茂兵衛の援助を得て、群馬県尾島町の生家の近くの養蚕小屋を借り、ここに所長たった一人だけの「飛行機研究所」の看板を掲げたのであった。
 ここに中島飛行機の歴史が始まったと言える。もっとも、創業当時フタッフ、佐々木源蔵(22才)、奥井定次郎(28才)、佐久問一郎(24才)らを中島は東洋一の飛行機工場を出来ると言いくるめ引き抜き、彼らは海軍が飛行機工場を作るものと思いこみ「大尉が行かれるなら」と快諾したが、まさか養蚕小屋とは思わなかったそうである。
 川西飛行機も中島と資金繰りのいざこざから袂を分けた、日本毛織の社長、川西清兵衛が創設している。そういう意味では兄弟会社でもある。

 中島飛行機総説当時は、おりしも第一次大戦後のインフレで各地で米騒動が起こっており、
 「さつはだぶつく お米はあがる  何でもあがる  あがらないぞい 中島飛行機」
などと地元太田の人々に揶揄される惨状であったものの、様々な苦難を乗り越え一流の航空機メーカーとして次第に君臨するようになる。

 中島知久平は海軍の退役軍人であったが、航空機メーカーとしての中島は陸軍とも結びつきが強く、陸海軍両方に対して様々な機体を製造していた。特に機体の量産能力には定評があり、1万機以上生産された零式艦上戦闘機のうち開発元である三菱製は約4割ほどで、他はすべて中島飛行機の製造であった。(写真下:二式水戦)
 太平洋戦争中の機体製造数も全体の37.1%を製造し第一位であるが、とくに昭和20年中の製造数はその年全体の47%を占め、終戦までその生産能力はダントツであったといえよう。

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 賛否両論あるかと思うが、日本の航空産業を語る上で「三菱」を避けて通ることは出来ない。

 大正8年(1919年)、三菱合資会社神戸造船所から独立した神戸内燃機製作所が航空機製造メーカー三菱としての第一歩であった。その後三菱内燃機製造、三菱航空機と社名を変え、昭和9年(1934年)に三菱造船と合併して三菱重工業株式会社(正確には三菱重工業株式会社名古屋航空機製作所)となった。
 会社創立当初はイギリス・ソッピース社から招いたハーバート・スミス技師を中心とした設計陣による10式トリオ(10式艦戦、10式艦偵、10式艦雷)や一三艦攻などの名機を生み出し、海軍の主力機体の大半を三菱製が占める勢いだった。しかし発動機製造では中島飛行機に大きく差をつけられており、九六艦戦や零式艦戦など三菱を代表する機体も最初は中島製の発動機を搭載するという屈辱を味わっている。だが太平洋戦争開戦前後に優秀な発動機を多数生み出したことでその差を縮め、戦争中の発動機製造数だけを見れば中島を抜いて第一位となっている(ただし、発動機の開発製造部門は昭和13年に分離独立した名古屋発動機製作所が行っていたが)。
 太平洋戦争中の機体製造数は全体の23.7%を占め中島に次いで第二位である。
 現在も日本随一の航空機メーカーとして操業中である。

(写真は一〇式艦上戦闘機)

主翼端の構造

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 上の写真は本日、日本に帰還するとき使用したANA205便(BOEING747)の主翼を撮影したものである。
 主翼の端に少し跳ね上がる小さな羽をつけている。これをつけるとつけないとでは、空気抵抗が大きく違い、結果燃費を悪くすると言うことです。
 
 これで大きく失敗をした戦闘機が存在する。それは「零戦」です。

 「A6M2」通常「零戦21型」と呼ばれる機体を改良し量産性と高機動性を期待して作られたのが、「零戦32型」である(写真下)。

 しかし、致命的な欠点が量産・前線配備が進む中で発生した。

 それは、航続距離である。21型は空母搭載を容易にするため、翼端の丸く丸くなる部分が折れ構造を持つ。どうしても量産性からすると複雑になる。いっそのこと「バッサリ切り飛ばし主翼を短くすることにより、高機動性と量産性を上げることが可能であろう、エンジンの出力も上げればさらに良い」と考えたものの現実は、燃費があまりにも悪く航続距離も1000キロ減少、局地使用型零戦とも考えられたようですが充分な飛行時間を取れずに活躍の場を失うことなる。

 翼端の構造はやはり充分検討すべきである。ある意味航空機の開発は「翼」の開発の歴史でもある。
 例えばX-29のような「前進翼」など、様々な形がアイデアとして出されいる。

 試行錯誤の歴史でもある。


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