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木村昌福 その3

 さて、木村性を名乗ってはいるが、父親は静岡県静岡市紺屋町で弁護士をしていた近藤壮吉氏(大正5年病死)、母親は東京女子師範卒・帝国女子医専舎監のすずの次男として生まれる。
 生後すぐに母の実家で元鳥取藩士の木村家養子となった。このため木村の本籍は鳥取県鳥取市となったが、養育は引き続き静岡の近藤家で行われたそうである。
 本人は静岡県出身ではあるが、本籍地でいうと鳥取県出身と言えなくはない。
 また、この当時としては、高等教育を受けた両親の家庭で育ったといえる。

 なぜ、軍人を目指したかは不明であるが、旧制静岡中学の卒業席次は80人中39位で中の下といった成績であり、当時は軍人=エリートといった考えは多少はあったはずだが、やはり木村家が武士の家系であり、武士=軍人といった考えからではなかったのか?この点は当ブログ管理人の推測でしかない。

 海軍兵学校第41期には、草鹿龍之介、大田実、市丸利之助、田中頼三らがいる。
 この同期メンバーに関しては個々逸話は多々あるが、当ブログ管理人のイメージとしては硫黄島で書いた遺書米国大統領フランクリン・ルーズベルトに宛てた『「ルーズベルトニ与フル書』を思いつく。

 

 

木村昌福 その2

 軍歴は、生粋の水雷屋として軍歴を過ごした人物とのこと。
 当時は「車曳き」(駆逐艦乗り)と呼ばれたそうである。

 参考までに、駆逐艦とは・・・・
 
 軽装甲であるが高速で汎用性が高い航洋性を持つ艦艇であり、現代の海軍(海自も含む)では主、第2次大戦からすると大型化しておるが、主力の艦艇である。
 もともとは水雷艇駆逐艦と呼び、水雷艇(torpedo-boat)を駆逐する艦種だったが、第二次世界大戦までは魚雷を主兵装とし、駆逐艦隊は別名水雷戦隊と呼ばれていた。
 旧海軍は艦艇決戦思想からも魚雷戦に重きを置いており戦艦が最主力の考えはあったが、水雷戦隊も魚雷戦も重視していた。
  太平洋戦争ではで当然海戦となる事が多かったため、潜水艦と共に艦隊防空など、最も活躍をした艦種でもある。
 さて、本論に戻るが、開戦時は巡洋艦「鈴谷」艦長。
 1943年2月に第3水雷戦隊司令官に着任。
 ビスマルク海海戦で重傷を負い、復帰後第1水雷戦隊司令官に着任。
 7月にはキスカ島撤退作戦を成功させる。1944年にはレイテ島挺身輸送作戦「多号作戦」を二度指揮して成功させ、さらにミンドロ島の米上陸地点への突入作戦「礼号作戦」をも成功させた。
その後、海軍兵学校防府分校長、防府海軍通信学校長(兼任)として終戦を迎える。

 終戦時の最終階級は中将。その昇進は、海軍が解体される直前の11月1日であった。
 帝国海軍最後となる中将に昇進。これは海軍大臣米内光政の推薦であったとされる。

 終戦後は、トレードマークのカイゼル髭を剃り落し、山口県防府市の海軍兵学校防府分校跡地に於いて、彼を慕う旧部下と共に製塩業を営んだ。
 資金調達や販売先の確保などに自ら奔走し事業は成功した。

 総じて戦後評価される人物に共通と思われるが、太平洋戦争中の数々の武勲や戦歴についても寡黙であり、1957年に元海軍中佐で戦史家の千早正隆が木村らに取材してキスカ撤退作戦の経緯を雑誌に発表するまでは、家族すら木村の事績を知らなかったという。
 

木村昌福 その1

イメージ 1


















 ご存知の方も多い、「キスカ島撤退作戦」の指揮官、木村昌福の話をしようともいます。
 
 たまたま、一緒に営業活動をしている同業他社のかたが、同郷・高校の大先輩ということもありシリーズで取り上げたくおもいます。

 その旧制静岡中学の卒業席次は80人中39位、海軍兵学校第41期入校の席次は120名中84番、卒業時118人中107番とさらに海軍大学校に進学もしておらず、ハンモックナンバー至上主義的な海軍では厳しい環境であったとおもわれる。

 学力のIQと仕事IQは違う!といった典型的な方と思われる。

 このフォール卿は、戦後、外交官として活躍した。

 定年退職後、1996(平成8)年に自伝『マイ・ラッキー・ライフ』を上梓し、その巻頭に「元帝国海軍中佐工藤俊作に捧げる」と記した。
 平成15(2003)年10月、フォール卿は日本の土を踏んだ。

 84歳を迎える自身の「人生の締めくくり」として、すでに他界していた工藤艦長の墓参を行い、遺族に感謝の意を表したいと願ったのである。しかし、あいにく墓も遺族も所在が分からず、フォール卿の願いは叶えられなかった。

 フォール卿から依頼を受けて、恵隆之介氏は3ヶ月後に、遺族を見つけ出した。工藤俊作の甥・七郎兵衛氏は「叔父はこんな立派なことをされたのか、生前一切軍務のことは口外しなかった」と落涙した。

 サイレント・ネービーの伝統を忠実に守って、工藤中佐は己を語らず、黙々と軍人としての職務を忠実に果たして、静かにこの世を去っていったのである。

 さて、本テーマの主題は「スラバヤ沖海戦」の後から始まる。

 今から10年ほど前になるが、1998年4月英国では翌月に予定されている天皇の英国訪問への反対運動が起きていた。
 これに対して、元海軍中尉サムエル・フォール卿がタイムズ紙に一文を投稿した。

 「元日本軍の捕虜として、私は旧敵となぜ和解することに関心を抱いているのか、説明申し上げたい」

 スラバヤ沖で撃沈された英海軍の巡洋艦「エクゼター」及び、駆逐艦「エンカウンター」の乗組員4百数十名は漂流を続けていたが、翌2日、生存の限界に達した所を日本海軍の駆逐艦「雷(いかづち)」に発見された。

「エンカウンター」の砲術士官だったフォール卿は、「日本人は非情」という先入観を持っていたため、機銃掃射を受けて最期を迎えるものと覚悟した。
 ところが、駆逐艦「雷」は即座に「救助活動中」の国際信号旗を掲げ、漂流者全員422名を救助したのである。艦長・工藤俊作中佐は、英国海軍士官全員を前甲板に集め、英語で健闘を称え、『本日、貴官らは日本帝国海軍の名誉あるゲストである』とスピーチしたのだった。そして兵員も含め、全員に友軍以上の丁重な処遇を施した。

 このフォール卿の投稿によって、以後の日本批判の投書はことごとく精彩を欠くことになった。

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