人物

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全4ページ

[1] [2] [3] [4]

[ 前のページ | 次のページ ]

イメージ 1

 昨日に引き続き「秋山真之」の話である。

 彼は現在の松山市の出身である。
 生まれは慶応4年3月20日(西暦で言うと1868年4月12日)である。兄は陸軍大将「秋山好古」であることも周知のことである。

 旧松山藩下級武士の家系で、同じく松山出身の正岡子規との交友関係も有名であり、彼に感化され上京、愛媛県第一中学(現在の松山東高校)を中退、明治16年(1883年)に将来の太政大臣を目指すために上京し受験準備のために共立学校(現在の開成高校)に入学した。
 その後に、大学予備門(後の一高、現在の東京大学教養学部)を経て翌1886年に海軍兵学校に17期生として進学。

 大学予備門では東京帝国大学を目指すものの、秋山家の経済的苦境から真之は兄の好古に学費を頼っていたため、海軍兵学校に入学する。

 ある意味、「金のために軍人になった」一人でもある。ただし、当時の軍人は高級官僚とも言え、ましてや、海軍兵学校を首席で卒業することは並大抵のことではない。

 明治23年(1890年)に海軍兵学校を卒業後し、少尉候補生として海防艇「比叡(初代)」に乗艦して実地演習を重ね、座礁したトルコ軍艦の生存者送還(エルトゥールル号遭難事件)にも従事する。

 日清戦争より水雷の活躍に注目して設置された海軍水雷術練習所(海軍水雷学校)の学生となり水雷術を学び、卒業後に横須賀水雷団第二水雷隊付となる。のちに報知艦「八重山」に乗艦し、海軍大尉となる。同年11月には軍令部諜報課員として中国東北部で活動する。

 日露戦争日本海戦における水雷艇の活躍は非常ぬ重要であり、主力艦の砲撃戦ももちろん主役として華々しく活躍するが、日没後実は、この海戦最大の目的であった「敵艦隊の壊滅」を実現できたのは水雷艇のおかげでもある。

 明治31年(1898年)に私費留学であったものの米国へ留学。

 ワシントンに滞在して海軍大学校校長、軍事思想家であるアルフレッド・セイヤー・マハンに師事し、主に大学校の図書館や海軍文庫での図書を利用しての兵術の理論研究に務める。
 このとき米西戦争を観戦武官として視察し報告書を提出する。米海軍がキューバの港を閉塞する作戦を見学しており、このときの経験が日露戦争における旅順港閉塞作戦の礎となったとも指摘されている。翌1899年1月にはイギリス駐在となり視察を行い8月に帰国。
 明治33年(1900年)には海軍省軍務局第一課員、常備艦隊参謀となる。

 1903年(明治37年)に海軍少佐・第一艦隊参謀(後に先任参謀)になる頃、日露の関係は「戦雲急を告げる」という状況が続くこととなる。

 そして、日本海海戦の幕が開ける。彼の活躍は、聯合艦隊の活躍によって証明される。

 晩年には腹膜炎を煩う。惜しくも49歳で死去。大正7年(1918年)2月4日であった。

イメージ 1

以下は、1月19日の日刊スポーツよりである。

 NHKは18日、スペシャルドラマ「坂の上の雲」の会見を行い、主役の秋山真之を本木雅弘、その兄好古を阿部寛、正岡子規を香川照之、子規の妹律を菅野美穂が演じると発表した。

 作家司馬遼太郎氏の原作をベースに、日露戦争の激動の時代を生きた軍人兄弟と子規の青春群像を描く。09年秋、10年秋、11年秋と3年にわたり、各年4〜5回、計13回(1回90分)放送され、撮影も今秋から10年秋まで行われる。

 同作品は、海老沢勝二前NHK会長もドラマ化を熱望し、制作を発表した03年1月の定例会長会見では「最高のキャストと脚本が準備できるまで、放送はいつまでも待つ。スペシャル大河の意味を込め総力を挙げて取り組む」と語り、関係者によると「たとえ、私がNHK会長を辞めても、目の黒いうちは私がプロデューサー」とも話していたという。

 1話あたりの制作費も大河ドラマの6000万円を超える額になる。当初は06年放送予定だったが、脚本家の野沢尚氏の死去で予定が遅れていた。

 本木は「3年間の撮影は貴重な体験。秋山の磨いた決断力を少しでも表現したい」。阿部も「単純明快で、人生1つのことを成し遂げればいいという男の役。僕も1つのことを成し遂げるつもりでやる」。香川は「1秒も流されず、重く重くやっていきたい」。菅野は「登場人物はバチバチして、男に生まれたら良かった」と抱負を語った。

 ということで、「秋山真之」の話である。

 現代の日本人で彼の名前を知っている人間は数多くいる。しかし、当時、彼の存在は日本海戦時の上司であった東郷平八郎に隠れるようにしてあまり知られていなかった。

 中には、「日露戦争における日本海海戦が彼の人生のピークであった」「第一次世界大戦の結果を見事に言い当てた事を除き別段活躍をしていない」と言われるが、かれの仕事は参謀である。
 当然であるが、司令官(この場合は東郷)のアイデアを具現化するのが裏方である参謀秋山の仕事であったのであるから、秋山は当然陽の目をなかなか見ないこととなる。

 しかしながら東郷平八郎は「智謀如湧」と評価した。

 また、様々な名文を世に送り出しているのも彼である。

 「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」・「皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ各員一層奮励努力セヨ」

 上記のように非常に簡潔明瞭である意味秋山文学とも言われる文章を送り出している。「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」の原文は「本日天気晴朗ノ為、我ガ連合艦隊ハ敵艦隊撃滅ニ向ケ出撃可能。ナレドモ浪高ク旧式小型艦艇及ビ水雷艇ハ出撃不可ノ為、主力艦ノミデ出撃ス。」と長々とあかれてあったが、彼の手により驚異的に短いわずか13文字にまとめられてしまった。

 また、全艦隊に檄を飛ばす文章としても「皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ各員一層奮励努力セヨ」とその後何度もこの文章は使われることとなる。
  また。日本海海戦に勝利した連合艦隊の解散式における、東郷平八郎の訓示(聯合艦隊解散の訓示)の草稿も秋山がしたものとされる。この文章に感動した時の米大統領セオドア・ルーズベルトは、全文英訳させて、米国海軍に頒布した。

硫黄島といえば、これでしょうか?

ルーズベルトニ与フル書

 日本海軍市丸海軍少将書ヲ「フランクリン ルーズベルト」君ニ致ス。我今我ガ戦ヒヲ終ルニ当リ一言貴下ニ告グル所アラントス

 日本ガ「ペルリー」提督ノ下田入港ヲ機トシ広ク世界ト国交ヲ結ブニ至リシヨリ約百年此ノ間日本ハ国歩艱難ヲ極メ自ラ慾セザルニ拘ラズ、日清、日露、第一次欧州大戦、満州事変、支那事変ヲ経テ不幸貴国ト干戈ヲ交フルニ至レリ。之ヲ以テ日本ヲ目スルニ或ハ好戦国民ヲ以テシ或ハ黄禍ヲ以テ讒誣シ或ハ以テ軍閥ノ専断トナス。思ハザルノ甚キモノト言ハザルベカラズ

 貴下ハ真珠湾ノ不意打ヲ以テ対日戦争唯一宣伝資料トナスト雖モ日本ヲシテ其ノ自滅ヨリ免ルヽタメ此ノ挙ニ出ヅル外ナキ窮境ニ迄追ヒ詰メタル諸種ノ情勢ハ貴下ノ最モヨク熟知シアル所ト思考ス

 畏クモ日本天皇ハ皇祖皇宗建国ノ大詔ニ明ナル如ク養正(正義)重暉(明智)積慶(仁慈)ヲ三綱トスル八紘一宇ノ文字ニヨリ表現セラルル皇謨ニ基キ地球上ノアラユル人類ハ其ノ分ニ從ヒ其ノ郷土ニ於テソノ生ヲ享有セシメ以テ恒久的世界平和ノ確立ヲ唯一念願トセラルゝニ外ナラズ、之曾テハ
「四方の海皆はらからと思ふ世になど波風の立ちさわぐらむ」
ナル明治天皇ノ御製(日露戦争中御製)ハ貴下ノ叔父「テオドル・ルーズベルト」閣下ノ感嘆ヲ惹キタル所ニシテ貴下モ亦熟知ノ事実ナルベシ。

 我等日本人ハ各階級アリ各種ノ職業ニ従事スト雖モ畢竟其ノ職業ヲ通ジコノ皇謨即チ天業ヲ翼賛セントスルニ外ナラズ 我等軍人亦干戈ヲ以テ天業恢弘ヲ奉承スルニ外ナラズ

 我等今物量ヲ恃メル貴下空軍ノ爆撃及艦砲射撃ノ下外形的ニハ退嬰ノ已ムナキニ至レルモ精神的ニハ弥豊富ニシテ心地益明朗ヲ覚エ歓喜ヲ禁ズル能ハザルモノアリ。之天業翼賛ノ信念ニ燃ユル日本臣民ノ共通ノ心理ナルモ貴下及「チャーチル」君等ノ理解ニ苦ム所ナラン。今茲ニ卿等ノ精神的貧弱ヲ憐ミ以下一言以テ少ク誨ユル所アラントス。

 卿等ノナス所ヲ以テ見レバ白人殊ニ「アングロ・サクソン」ヲ以テ世界ノ利益ヲ壟断セントシ有色人種ヲ以テ其ノ野望ノ前ニ奴隷化セントスルニ外ナラズ。之ガ為奸策ヲ以テ有色人種ヲ瞞着シ、所謂悪意ノ善政ヲ以テ彼等ヲ喪心無力化シメントス。近世ニ至リ日本ガ卿等ノ野望ニ抗シ有色人種殊ニ東洋民族ヲシテ卿等ノ束縛ヨリ解放セント試ミルヤ卿等ハ毫モ日本ノ真意ヲ理解セント努ムルコトナク只管卿等ノ為有害ナル存在トナシ曾テノ友邦ヲ目スルニ仇敵野蛮人ヲ以テシ公々然トシテ日本人種ノ絶滅ヲ呼号スルニ至ル。之豈神意ニ叶フモノナランヤ

 大東亜戦争ニ依リ所謂大東亜共栄圏ノ成ルヤ所在各民族ハ我ガ善政ヲ謳歌シ卿等ガ今之ヲ破壊スルコトナクンバ全世界ニ亘ル恒久的平和ノ招来決シテ遠キニ非ズ

 卿等ハ既ニ充分ナル繁栄ニモ満足スルコトナク数百年来ノ卿等ノ搾取ヨリ免レントスル是等憐ムベキ人類ノ希望ノ芽ヲ何ガ故ニ嫩葉ニ於テ摘ミ取ラントスルヤ。只東洋ノ物ヲ東洋ニ帰スニ過ギザルニ非ズヤ。卿等何スレゾ斯クノ如ク貪欲ニシテ且ツ狭量ナル。

 大東亜共栄圏ノ存在ハ毫モ卿等ノ存在ヲ脅威セズ却ッテ世界平和ノ一翼トシテ世界人類ノ安寧幸福ヲ保障スルモノニシテ日本天皇ノ真意全ク此ノ外ニ出ヅルナキヲ理解スルノ雅量アランコトヲ希望シテ止マザルモノナリ。

 翻ッテ欧州ノ事情ヲ観察スルモ又相互無理解ニ基ク人類闘争ノ如何ニ悲惨ナルカヲ痛嘆セザルヲ得ズ。今「ヒットラー」総統ノ行動ノ是非ヲ云為スルヲ慎ムモ彼ノ第ニ次欧州大戦開戦ノ原因ガ第一次大戦終結ニ際シソノ開戦ノ責任ノ一切ヲ敗戦国独逸ニ帰シソノ正当ナル存在ヲ極度ニ圧迫セントシタル卿等先輩ノ処置ニ対スル反撥ニ外ナラザリシヲ観過セザルヲ要ス。

 卿等ノ善戦ニヨリ克ク「ヒットラー」総統ヲ仆スヲ得ルトスルモ如何ニシテ「スターリン」ヲ首領トスル「ソビエットロシヤ」ト協調セントスルヤ。凡ソ世界ヲ以テ強者ノ独専トナサントセバ永久ニ闘争ヲ繰リ返シ遂ニ世界人類ニ安寧幸福ノ日ナカラン。

 卿等今世界制覇ノ野望一応将ニ成ラントス。卿等ノ得意思フベシ。然レドモ君ガ先輩「ウイルソン」大統領ハ其ノ得意ノ絶頂ニ於テ失脚セリ。願クバ本職言外ノ意ヲ汲ンデ其ノ轍ヲ踏ム勿レ。

 市丸海軍少将

 市丸少将はさらに英訳までさせている。
 そして、この手紙は、彼の目論見どおり米軍に発見される。7月11日には米国内で新聞に掲載された。

 それは日米戦争の責任の一端を米国にあるとし、ファシズムの打倒を掲げる連合国の大義名分の矛盾を突くものであった。そして、市丸利之助氏のはあの時代の帝国軍人であったにもかかわらず、世界史的視野を有していたことを「手紙」の随所に読み取ることができる。

 ただし、ルーズベルトは4月12日に死去したため、『ルーズベルトニ与フル書』は本人は目にしていないとみられる。

上記の文を現代語に訳したものが以下のものです。

日本海軍市丸海軍少将がフランクリン・ルーズベルト殿に、この手紙を送ります。この戦いが終わるに当たって、私はあなたに一言を告げることがあります。

 ペリー提督の下田入港を機として、日本が世界と国交を結ぶようになって百余年が間、日本の歩みというものは至極難儀を極め、自らが望んでいるわけでもなく日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、満州事変、支那事変と経験し、不幸なことに貴国と交戦するにまで至ったのです。

 これについてあなたがたは日本の戦争に対し、或いは好戦的で残虐な国民であると、或いは黄色人種の跋扈だとか、或いは軍閥の専断によると言われますが、これはとんでもなく的外れであります。
あなたがたは真珠湾の不意打ちを唯一つの対日戦争に対する宣伝資料としているようですが、日本が自滅から逃れるため、このような戦争を始めるところまで追い詰めらた事情は、あなたがたが最もよく存じているところではないでしょうか。

 おそれ多くも日本天皇は、皇祖皇宗建国の大みことのりに明らかであるように、養正(正義)、重暉(明智)、積慶(仁慈)を三綱とする八紘一宇という言葉で表現される国家統治計画に基づいて、地球上のあらゆる人々はその自らの分に従って『その生まれた土地においてその生を享受する』このような恒久的世界平和の確立を唯一の念願とされているに他なりません。
このことはかつて、
「四方の海 皆はらからと 思ふ世に など波風の 立ちさわぐらむ」
という明治天皇の御製に言われていることと同じであります。
これを聞き、あなたの叔父であるセオドア・ルーズベルト閣下が感嘆したことをあななたも良く知っていることでしょう。

 我々日本人にはいろいろな階級の人がおりますが、つまるところ彼らは色々な職業につきながら、この天業を助けるために生きているのです。
 我々軍人もまた、戦争という生業でこの天業を広く推し進める助けをさせて頂いております。
 今の我々は、あなた方の物量を誇る航空戦力や艦砲射撃に対して圧されている状況にありますが、 精神的には充実しており、士気はますます高揚し、歓喜に溢れているのです。これが天業を助ける信念に燃える日本国民の共通の心理でありますが、あなたやチャーチル殿には理解できないかもしれません。

 あなた方の精神的な弱さを悲しく思い、一言書かせていただきます。
 あなた方の立ち振る舞いをみると、白人とくにアングロサクソンによって世界の利益を独り占めにしようとし、その野望の為に有色人種を奴隷としてきたではありませんか。
好計を弄して有色人種を騙すといういわゆる悪意のもとの「善政」によって彼らから考える力を奪い、無力にしてきたのです。
 近世になって日本があなた方の野望に抵抗して、有色人種とくに東洋民族としてあなた方の束縛から解放を試みましたが、 あなた方は日本の真意を少しも理解しようとはせず、ひたすら有害な存在であるとして、かつては友邦であったはずの日本人を野蛮人として、公然と日本人種の絶滅を口々にするようになったのです。
 どうして神意に背くのでしょうか。
 大東亜戦争により、いわゆる大東亜共栄圏が成立すれば、それぞれ各地の民族が善政を行い、そしてあなた方がこれを破壊しなければ、全世界が恒久的平和を実現するのも決して遠くはないのです。
 あなた方白人はすでに充分な繁栄を遂げているのにも満足せず、数百年来あなた方の搾取から逃れようとする哀れな人類の希望の芽を、どうして若葉のときに摘み取ってしまうのですか。
 ただ単純に東洋のものを東洋に返すということに過ぎないのです。あなた方白人はどうしてそうも貪欲で狭量なのでしょうか。

 大東亜共栄圏はあなた方の存在を少しも否定しません。
 むしろ、世界平和の一翼として、世界人類の安寧幸福を保障するということに日本天皇の神意があるということを理解できる雅量をあなた方に望んでいるのです。

 ひるがえって欧州の情勢をみても、相互の無理解が原因で人々が闘争することがいかに悲惨であるか、痛嘆せざるを得ません。

 今ここでヒトラー総統の行動についての是非を云々することはつつしみますが、彼が第二次世界大戦を引き起こした原因は、一次大戦終結のとき、その開戦の責任一切を敗戦国であるドイツ一国にかぶせ、極端な圧迫をするあなた方の戦後処置に対する反動であることを看過できません。

 あなた方がいかに善戦してヒトラー総統を倒したとしても、どうやってスターリンを首領とするソビエトと協調するつもりでしょうか。
 おおよそ世界が強者の独占するものであるならば、永久に闘争を繰り返し、遂に界人類に安寧幸福の日は来ることはないでしょう。
 あなた方は今、世界制覇の野望を一応は実現しようとしております。あなた方も得意になっているのでしょう。しかしながら、あなたの先輩であるウィルソン大統領は、そういった得意の絶頂のときに失脚したのです。

 願わくば、わたしの言外の意を汲んでいただき、その轍を踏むことがないように。

市丸海軍少将

昭和天皇とゴルフ

イメージ 1

 ここ信州もゴルフが出来る季節になっております。私もすでに1ラウンドをし、連休終了までに2ランドを控えております。
 そこでゴルフの話です。 
 昭和天皇がゴルフ狂であられたことは、あまり知られていない史実と思います。
 終戦により「ゴルフ絶ち」をされたからで、新宿御苑・皇居内にも9ホールのコースを作られていたそうです。いかに好きであったかをしのばせる事実です。

 以下は東洋経済2004/7/24増大号よりです。作者は作家の海老沢泰久氏です。

「昭和天皇のゴルフを想う」

作家/海老沢泰久
えびさわ・やすひさ●1950年生まれ。94年『帰郷』で第111回直木賞受賞。『ぼくの好きなゴルフ』『ゴルフが好き 岡本綾子の生き方』『美味礼讃』など、著書多数。

 昭和天皇がたいへんなゴルフ好きであったというのは、いまではあまり知られていない。
 初めてクラブを握ったのは、皇太子時代の大正6年だそうだから、日本のゴルファーとしてはかなり早く、非常にモダンな方だったことが分かる。すすめたのは、西園寺公望の女婿の西園寺八郎と、横浜正金銀行重役の森村市左衛門で、彼らは大正3年に駒沢に創設された東京ゴルフ倶楽部の会員だった。ゴルフクラブも彼らがニューヨークに注文し、スラゼンジャー製のを3組献上したらしい。
 当時、日本には神戸と横浜根岸と駒沢にしかコースがなかったが、4番目のコースとして箱根富士屋ホテルが仙石原コースをつくりはじめていた。天皇は、クラブが届くとその年の7月に箱根宮ノ下の御用邸に避暑に行き、そのコースでさっそく練習をはじめた。まだコースは工事中で7ホールしか完成していなかったが、避暑のあいだ、ほとんど毎週出かけたという。
 天皇はそこでゴルフ熱にかかったのだと思うが、熱のおもむくまま、すばらしい行動に出た。宮ノ下から東京に戻ると、西園寺八郎に命じて、赤坂離宮内に4ホールの練習コースをつくらせたのである。
 だが、ゴルフ熱というのはそういうことをすればするほど上がるのが特長で、天皇もその例に漏れなかった。ついには大正11年、新宿御苑の中に、全長1736ヤード、パー32の、9ホールの皇室専用コースをつくってしまったのだった。
 ゴルファーの夢の実現といっていいだろう。天皇はこの御苑コースでしばしばプレーしたが、昭和5年には、来日したアメリカのプロゴルファーのウォルター・ヘーゲンをここに招いて彼のエキシビションプレーを見物し、その記念に彼に金のシガレットケースを下賜したりもしている。
 また、これはよく知られていることだが、大正11年の4月には、来日したイギリスの皇太子(のちのウィンザー公)と駒沢の東京ゴルフ倶楽部で9ホールのマッチをしている。
 マッチはフォアサムで、天皇と組んだのは西本願寺門跡の3男で当時のトップアマチュアだった大谷光明、イギリス皇太子と組んだのはイギリス王室の侍従長だったが、イギリス側が1アップで勝った。
 しかし、天皇がゴルフを楽しんだのも満州事変がはじまる昭和6、7年ごろまでで、以後は話に聞かない。御苑コースも同じころに取り壊されたらしい。じつにお気の毒なことだった。・・・・・

 昭和天皇は皇太子時代、日本で初めてとなる欧州海外視察などを行っており、上記にありますが、モダンで、開明的な人柄であったと思います。
 そして忘れてならない最大の功績は「太平洋戦争終結」を決断したことと思います。

勝海舟

イメージ 1

 勝海舟 文政6年1月30日(1823年3月12日)生まれ、明治32年(1899年)1月21日没
(因みに山岡鉄舟・高橋泥舟と共に「幕末の三舟」と呼ばれたそうです。)
 幼名は麟太郎、本名は義邦。もともと勝海舟の祖父が旗本の株を買うことにより武士となった。海舟自身は小身の旗本であった勝家に養子となり勝義邦を名乗ることとなる。

 海舟の業績のひとつは「西郷隆盛」との交渉による江戸城無血開城である。
 そしてもう一つは長崎の「海軍伝習所」「神戸海軍操練所」の運営であろう。もっとも、日本の海軍を目指した結果神戸海軍操練所を去ることを余儀なくされ、約2年の蟄居生活を送る。

 勝家は徳川慶喜の10男精(くわし)が跡を継ぐ。もちろん、晩年この慶喜の名誉回復を明治政府に働きかけ実現もしている。

全4ページ

[1] [2] [3] [4]

[ 前のページ | 次のページ ]


よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト『さとふる』
実質2000円で特産品がお手元に
11/30までキャンペーン実施中!
ふるさと納税サイト『さとふる』
お米、お肉などの好きなお礼品を選べる
毎日人気ランキング更新中!
コンタクトレンズで遠近両用?
「2WEEKメニコンプレミオ遠近両用」
無料モニター募集中!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事