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このブログは、福島市を中心とした歴史、文化などを探索するものです。

季節外れのりんごの花

近くのりんご畑を覗いたら、小さいりんごの実が付いていました。

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ところが、所々に白いものが付いていました。
よく見ると、りんごの花でした。

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 どうして、今頃、りんごの花が咲いたのでしょうか。

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  いかにんじんは、信達地方(福島県福島市、伊達市及び伊達郡)のシンプルな郷土料理です。なぜシンプルかというと、その名のとおり具がスルメとにんじんだけで、醤油、日本酒及びみりんで味付けしたものです。

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                           ※ 写真はお借りしました。

 福島市飯坂町出身のタレント佐藤B作さんが、テレビでいかにんじんを地域の名物として紹介したことをきっかけにちょっと有名になりました。ネット検索で「いかにんじん」で検索したら、佐藤B作さんの実家らしき商店もヒットしました。
 
 さて、本題です。
 なんと5月9日から「いかにんじん」の味わいを再現した『ポテトチップス いかにんじん味』が地域限定・数量限定・期間限定(東北、関東(茨城県 栃木県 群馬県 長野県 新潟県)、販売予定数:約15万袋、6月上旬終売予定)ですが、発売されたという画期的な出来事がありました。

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 いつも買い物に行く地元スーパーY・BのY店では、すぐ完売、入荷未定という状況です。

『ポテトチップス いかにんじん味』は、スルメのうま味と素朴な味わいが特長なので地元民としては、もうちょっと数量を増やし、期間も延長してもらえればと思っています。



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中島の地蔵桜

二本松市内の桜の名所の一つ、中島の地蔵桜です。
説明は、次の写真を見ていただくことにします。

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4月9日(土)
午後3時15分〜3時40分頃

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 遠方の山は、安達太良連峰です。

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午後5時20分〜6時40分

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 ライトアップの桜はうまく撮れませんでした。

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“同じ道”の道標

 道標とは、みちしるべともいい、道ゆく人に正しい方向と目的地への正確な道のりを教え示すものです。
 福島市内の道標については、「福島市の文化財(福島市文化財調査報告書第13集)」(昭和48年3月発行)に写真付きで紹介されていますが、道標の全ては網羅していないようです。

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 何気なく「道ばたの文化財」(昭和53年5月20日発行)という本を読んでいたら、“同じ道”の道標というタイトルを見つけました。

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“同じ道”の道標は、福島市渡利字欠下地内の三叉路にあります。

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  「道ばたの文化財」の“同じ道”の道標によれば、自然石の道標に「左右 をなじみち」と刻んである。

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 つまり、この二股の道は右へ行っても左に行っても、やがて同じ道ですよ、という変わった道標。事実、300メートルほどで二本の道はまた一緒になるとされています。

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 しかし、この分岐点から未舗装の道を行ったら、300メートルになっても同じ道にはなりませんでした。

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        道が途中で行き止まりとなっていました。
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  一方、福島市文化財調査報告書第39集福島の村絵図Ⅰに掲載されている渡利村絵図で茶屋沼の北側と南側を通り、その先で交わる“同じ道”を見つけました。

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 また、2万5千分の1福島北部においても同じく茶屋沼を挟んで通る“同じ道”が確認されました。

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  300メートルは1000メートルの誤植のようです。
 
  なお、この道には、明治のころまで、右と左に仲よく塩問屋が1軒ずつ、有力者の家が3軒ずつあって、どちらの道も同じように栄えていたとされており、“塩の道”であったことも分かりました。

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  土日を利用して資料整理していたら、昨年10月末、福島市後援の行事に参加した際にいただいた「福島市民憲章」というリーフレットが資料の山に埋もれていました。

 福島市民憲章には、次のことが記載されています。
わたくしたちは、みどりにつつまれた信夫山と清い流れの阿武隈川をもつ福島市民です。福島市は、地味豊かなしのぶの里に古くから開けた人情の美しいまちです。
わたくしたちは、平和で、さらに住みよく希望にみちたまちをつくるため、この市民憲章をさだめます。
一 空も水もきれいな みどりのまちをつくりましょう。
一 教育と文化を尊び 希望に輝くまちをつくりましょう。
一 親切で愛情あふれるまちをつくりましょう。
一 きまりを守り、力をあわせて 楽しく働けるまちをつくりましょう。
一 子どもからおとしよりまで安全で健康なまちをつくりましょう。

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  さて、本題です。
  福島市の木・花・鳥が制定されているのを知りました。

   市の木はケヤキです。平成元年3月に制定されました。
堂々と根を張り、枝を繁茂させる旺盛な樹勢と美しい樹枝は、「伸びゆく福島」を象徴するもので、進展するまちづくりとあいまって、心豊かな市民性と郷土愛をはぐくむ、県都の木としてふさわしいものであるとされています。
市の花はモモです。平成元年3月に制定されました。
春、市の郊外を美しく彩るモモの花は、信夫野の風物として市民の心を和ませ、希望と活力を与えてくれます。くだものの里として恵まれた自然や風土、心豊かな福島市民を象徴するのにふさわしいものであるとされています。
 
市の鳥はシジュウカラです。昭和62年3月に制定されました。
市制施行80周年を記念し制定されました(明治40年(1907)市制施行)。四季を通じて市内に生息し、身近に見られ、他の鳥と識別しやすく、広く市民に親しまれている鳥で、福島市の良好な自然環境を象徴する鳥としてふさわしいものであるとされています。

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次に、福島市歌です。
何と作詞が北原白秋、作曲は山田耕筰という凄いコンビにより昭和11年11月22日に作られています。
それにしても詞は何とも格調高いものです。特に詞の中にある「東北の関門」とは東北地方を縦断する東北本線と奥羽本線が分岐する重要な駅であること、「桑田」とは日本銀行出張所が東北で最初に設置されたように福島市を含む県北地方が養蚕業・生糸製糸業の発展がめざまし、東北の経済・金融の中心地だったことを表していると考えられます
 
1.     霊山の雲は高く (りょうぜんのくもはたかく)
かがやく朝光 (かがやくあさかげ)
生々の気運ここに (せいせいのきうんここに)
殷賑今ぞ勢ふ (いんしんいまぞきおう)
東北の関門 若き我が都市 (とうほくのかんもん わかきわがとし)
栄えあれ福島 我等開かむ (はえあれふくしま われらひらかん)
 
2.     阿武隈の水は清く (あぶくまのみずはきよく)
後あり大仏 (のちありおさらぎ)
脈々の誠夙に (みゃくみゃくのまことつとに)
産業競ひ奮ふ (さんぎょうきそいふるう)
東北の関門 若き我が都市 (とうほくのかんもん わかきわがとし)
栄あれ福島 我等興らむ (はえあれふくしま われらおこらん)
 
3.     青空の下は廣く (あおぞらのしたはひろく)
沃えたりこの土 (こえたりこのつち)
累々の果実枝に (るいるいのかじつえだに)
桑田いよよ霞む (そうでんいよよかすむ)
東北の関門 若き我が都市 (とうほくのかんもん わかきわがとし)
栄あれ福島我等仕へむ (はえあれふくしまわれらつかえん)



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文知摺橋(旧岡部橋)

  文知摺(もちずり)橋は阿武隈川にかかる橋(左岸が福島市堀河町、右岸が福島市岡部)で、国道115号が通っています。

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 過去の地図(5万分の1、2万5千分の1など)を見ていくと、文知摺橋の位置が時々により違っているようにみえます。
 そこで、文知摺橋がどのような変遷を調べたところ、当初、岡部橋という橋でしたが文知摺橋に名称変更となったこと、また、岡部渡し〜初代岡部橋〜二代文知摺橋〜三代文知摺橋と橋の位置を少し変えられていたことが分かりました。
 
○岡部渡し
 阿武隈川舟運図(明和6年(1769)末から同7年(1770)7月までに制作)には、五十辺村と岡部村を渡し船で結ぶ「岡部渡し」が描かれています。舟運図が描かれる前ですが、元禄2年(1689)には松尾芭蕉が岡部渡しを舟で渡り文知摺観音に向かったとされています。

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○初代岡部橋
明治22年(1889)5月に岡部橋(仮板橋9尺、長さ125間)が完成し、橋賃の認可を得ました。
しかし、板橋だったため台風等による阿武隈川の洪水により、明治23年8月、同27年9月(同23年10月仮橋架設)、同29年9月(長さ237m、幅2.7m)、同31年9月、同35年7月、同43年8月、大正元年9月、同2年8月、同3年8月、同5年5月等に落橋、流出又は大破・破損しており、新たな板橋の架け替え、補修を繰り返しています

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     ※ 撮影時期不明

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      ※ 大正8年11月 県工事として架けられた岡部橋の開通式

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   ※ 昭和11年撮影

阿武隈川左岸(堀河町)側の土手から橋の位置を確認すると、堀河町側は今の橋とほぼ同じですが岡部側は少し下流にちょっと左斜めに架けられていたようです。

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また、阿武隈川の左岸(堀河町)側には、川床に十本を超える木製杭が残っており、もしかすると板橋、または橋が落橋した後に開設する渡船場の痕跡ではないかと考えられます。

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○二代文知摺橋
昭和12年9月9日、初代岡部橋のやや上流に鉄橋の二代文知摺橋(長さ238.5m、幅7m)が架けられました。同11年3月に着工し、18万6千円をかけての竣工、10月10日に渡り初めがあったとされています。
(注)岡部橋から文知摺橋に名称変更となったのは、大正元年11月とする説あり。

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      ※ 昭和31年撮影

阿武隈川左岸(堀河町側)の土手から橋の位置を確認すると、堀河町側は今の橋よりちょっと上流のミニ公園、岡部側も少し上流にちょっと左斜め、対岸の土手にガードレールが設置されているところに架けられていたようです。

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○三代文知摺橋
現在の橋が三代文知摺橋になります。二代文知摺橋が老朽化と激増する交通量に及ばなくなったことから、初代岡部橋があった位置付近に昭和51年12月に着工、昭和54年12月に三代文知摺橋(幅9.25m、歩道2.25m×2  長さ242m)が架けられました。12月3日に文知摺橋架替工事竣工開通式が行われ、同日から供用開始されています。

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女形石とカモシカ

  福島市山口字女形(おながた)にある女形石です。

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祠の中には、花崗岩の女陰形(高さ約60cm、幅約70cm)が鎮座しています。

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祠脇の女形石(おながたいし)由来記によれば、行基が傍らの石を見て、女形(めのかた)と呼びて後村人が女形石(めのかたいし)と称えたものが(おながたいし)となり、婦女子の信仰の対象となったとされています。

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 ところで、女形石を撮った後、山裾にある祠の上をみたら、立ち止まってこちらを見ているカモシカを見つけました。

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 もしかすると、あのカモシカは雄かも知れませんね。

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支那そば 佐川

 森合の県立図書館近くにある「支那そば 佐川」です。

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 壁に掲げられている献立をみるとうどん類、丼類もあり、支那そばの店とは思えません。

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  このお店は50年以上から営業しており、10年位前に「佐川食堂」から店の名前を変えていますが、献立はあまり変えていないようです。
 注文したのは、店名にもなっている支那そば(450円)です。
 スープは昔ながらの醤油味で、麺はごく普通の中華麺でちょっと柔らかめです。値段からすれば、昔ながらの「旨過ぎる」ラーメンでした。

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椿と櫻

 2月28日、ブロ友のyyさんが所属する会の写真展に行ってきました。

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 エレベーターに乗り合わせたご婦人が「4階でやっている写真展に人がいっぱい行っていますよ」と教えてくれました。
 展示されていたのは45点(うち賛助出展1点)で、どれもなかなかの秀作揃いで、写真のセンスが全くない自分にはどうしたら撮影できるのか驚きです。
 このうち、yyさんのブログ椿と櫻と題する写真を出展したとあったので、ご紹介します。
 
 椿です。

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 櫻です。

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石阿弥陀の一里塚

 「革籠原防塁」とされる遺構を探している途中、畑の中に二つの塚が2基ならんでいるのをに見つけました。

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近くの案内板によれば、石阿弥陀の一里塚(いしあみだのいちりづか)とのことでした。
一里塚は、江戸幕府が慶長9年(1604)に東海道・東山道・北陸道に一里(約4km)ごとに5間(約9m)四方の大きさの塚を築かせたのが始まりとされています。

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塚と塚との間隔は約10mです。
北側(左側)の塚はほぼ原型を留めていると考えられるが、南側(右側)の塚は東側が一部欠損しているとされています。
 北側(左側) 直径約12〜13m、高3.2m
 南側(右側) 直径約7〜12m、高2.5m

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平成17・18年の白河南中学校建設に伴う「芳野遺跡」の発掘調査では、調査区域から一里塚の方向に東西に延びる17世紀前半の道路跡(幅約10m)の存在が確認されたそうです。道幅から当時の主要道の可能性が高く、このことから石阿弥陀の一里塚は慶長年間(1596〜1615)に成立した初期の奥州街道に伴う一里塚と考えられるともされています。。

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 ということは、この一里塚の間を初期の奥州街道が通っていたということになります。

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一里塚を見たのは初めてなので、これからじっくり一里塚について調べたいと思います。
 

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