「ウソの国―詩と宗教」戸田聡ブログ

自由にも不自由にも首を絞められそうになってる糞爺のブログ (偽サイトにご注意!)

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「富と救い」

 
  富と救い
 
 
私は、自分がそこそこ小金持ちだと思っていた時期はありますが、金持ちや富裕者であったことはありません。だから私は、貧乏にも、金持ちにも、共感は乏しいかもしれません。
 
記事について、特に、おかしいというほど気になるところは、今のところ、見当たらないのですが
あえて補足的に言うなら・・ということで、
 
大きな資本を要する仕事を始めるには、たくさんのお金が必要だろうということ、ゆえに、金持ちには、金持ちにしか出来ない役割もあるかもしれない、だから、金持ちであることを、全か無かで、信仰に反すると言うことは出来ないでしょう。聖句も、そのような意味を含んでいると思います。
 
 (テモテへの第一の手紙、口語訳)
6:17この世で富んでいる者たちに、命じなさい。高慢にならず、たよりにならない富に望みをおかず、むしろ、わたしたちにすべての物を豊かに備えて楽しませて下さる神に、のぞみをおくように、 6:18また、良い行いをし、良いわざに富み、惜しみなく施し、人に分け与えることを喜び、 6:19こうして、真のいのちを得るために、未来に備えてよい土台を自分のために築き上げるように、命じなさい。
 (1テモテ6:17−19、新約聖書)
 
物質である場合、惜しみなく施すことは、貧しい人に求めるのは酷になります。精神の糧なら、貧富に関わらず、誰でも出し合い、分け合うことも出来るでしょう。人間として共感する必要を全く感じない者以外は・・。
 
>目に見えるものに信頼をおいているとそればかりをたより、
>目に見えない神様への信仰がなくなってしまいます。
>悪魔はそういうところに攻撃してくるのではないかと思います。
>そうならないよう、目に見えない神様から目を離さないでいることが大切です。
 
目に見えるものに、つまりブログの体裁の良さに、信頼というより信仰を置いているかのような者が、転載していますので、その点は、非常に違和感があります。
 
>そのような富を持つと高ぶりをおこします。
>これは、神様が最も嫌われることです。
>神様のことを忘れてしまうので神様に頼らなくなります。
 
これは、お金だけのことではないような気がします。聖句からは少し離れることになるかもしれませんが、言い換えれば、高ぶり≒心の富み、ということも言えるような気もします。一所懸命に学んだ、これに人生を懸けている、人生または学問の知識では負けない自信、といったものも富みと言えそうな気がします。
 
また、恐ろしいことに、自分は神の啓示を受けている、というような、信仰から自信へ、さらに自己絶対化への走ってしまうと、信仰とは、まるで逆の方向を向く罪と偽善になりやすく、同時に偶像崇拝でもあります。自分の不全を隠したいがために、神の啓示だから議論無用と、他者の意見を一切聞かない者もいます。したがって、神を信仰しているつもりで、神に頼ってなどいないのです。神が、そのような彼を、快く思っているとは、とうてい言い難い状況なのに、気づかない人もいるということです。
 
それと、もう一つ、富んでいると罪に走りやすいなら、貧乏ならば救われるかというと、弱い人は肩を寄せ合うしかないことが多いから、救いに至る切っ掛けは多くなるかもしれないけれど、必ずしも貧乏ゆえに正しいとは言えないわけで、極端な貧しさは、むしろ人の心を荒ませることもあるでしょう。しかし、これは、信仰というより、政治と社会の問題かもしれません。
 
>富はすぐになくなってしまいます。頼るべきものを見失わないことです。
>富でいることが高ぶりを引き起こし神様から離れさせていくので要注意です。
 
まあ、なかなか無くならないで富を貪っている人々も、この社会には結構いるような気もしますが、お金でも、知識、学歴、ステイタスでも、権威、権力など、高い立場でも、神の啓示?、神への被愛妄想?、神による高い立場の自覚?などでも、富んでいることは、高ぶりを引き起こし、神から離れさせてゆくのは、事実です。高ぶりという富を持つ者が天国に入ることは、高ぶりを砕かれない限り、非常に困難です。このテーマで、よく引用される聖句・・
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
19:23
それからイエスは弟子たちに言われた、
「よく聞きなさい。富んでいる者が天国にはいるのは、むずかしいものである。
19:24
また、あなたがたに言うが、
富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。
 (マタイ19:23−24、新約聖書)
 
 
暫定的な結論としては、貧富は、どちらであっても、救いの条件にはならない。救いは、その人の人間性と経験を、神がどのように受け取って、どのように反応してくれるか、また、それを受けて、人がどのように反応するか、また、それを受けて、神が、どのように導いてくれるか・・・という連続ではないかと思っています。信じたから救われる、これは、神は見捨てはしないこと、また、本気の度合いにつれて、真実でしょうけれど、人と神との関係において、神も人も生きているので、固定することはなく、人としては、修正可能ゆえの成長可能に生きて、祈るしかないと思います。
 
 
 確かな拠り所はどこ?
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27607073.html
 
 
(2016年07月30日)
 
 
 
 

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