「ウソの国―詩と宗教」戸田聡ブログ

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「つなぎとめるのは」

 
  つなぎとめるのは
 
 
シャローム氏は、神の一方的な配慮だけで信仰が成り立つという信仰から、そのような神の話を好んで転載するようだ。神の一方的な恵みによって、人が選ばれ、救われる、というのだが、彼が好むのは、一度選んだら、救われることが決定しており、何をしてもしなくても救われるほうが、偽善者にとって都合が良いからだ。というより、もしそうでなかったら、偽善を続けている者にとって極めて不都合な話になるからだ。
 
確かに信仰者の誕生は、神の一方的な選びという恵みが必要であり、そこに人の意志は働いてはいないと思われる。そのプロセスは、人には、不思議な成り行きと認知されるだろう。そこから神の、選んだ人への関わりが始まる。
 
しかし、信仰の成長は、神の働きに、人がどう反応するか、ということなしには、成り立たない。人の反応を、神が全く必要としないのであれば、人がこの地上に誕生するのは意味がない。また、キリストが、人の姿と心を持って、この地上に誕生することにも意味がないのである。
 
神は、人の世界を救うために、聖書を書かせ、キリストを遣わしたのだから、人の世界に関わる神が、人の反応に無関係であるはずはない。いったい、人が反応しないで、神の、人への働きと支配が、どう成り立つと思っているのだろうか。神の救いは、神の一人芝居で、人は、それに巻き込まれて、どうしようもなく救われて、信仰は成就する、とでも言うのだろうか。
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
1:34そこでマリヤは御使に言った、「どうして、そんな事があり得ましょうか。わたしにはまだ夫がありませんのに」。 1:35御使が答えて言った、「聖霊があなたに臨み、いと高き者の力があなたをおおうでしょう。それゆえに、生れ出る子は聖なるものであり、神の子と、となえられるでしょう。 1:36あなたの親族エリサベツも老年ながら子を宿しています。不妊の女といわれていたのに、はや六か月になっています。 1:37神には、なんでもできないことはありません」。
 (ルカ1:34−37、新約聖書)
 
キリスト信仰が成り立つためには、キリストが誕生し公生涯を歩まれ、十字架に死に、しかし、今の人々に、聖書によって、優れた洞察力と説得力で、人間性に働きかけて、かの日、多くの人々の心を動かしたように、この日、多くの人々の心を動かしている、という真実で十分である。
 
史実にこだわり、奇跡にこだわって、決めつけないと気の済まない、史実信仰者たちは、マリアの処女懐妊と、キリストの肉体の蘇りに、執着して、それなしでは信仰はあり得ないと言う。処女の懐妊と死人の蘇り、という奇跡が、あった、なかったで、今も揉めている。それらが、あった、なかった、ということが、今の信仰をどう変えると言うのだろう。奇跡の史実に、戒律のように、こだわれば、こだわるほど、信仰は、人間性を失い、人間離れしてゆく、というのが、いつの日も変わらない、人の本性のようだ。
 
かの日には、人々は、奇跡を見せなければ、奇跡だと言わなければ、神ではないと言うほどに、世界は、まだ、未開の精神であったと言えよう。しかし、この日、つまり現代、人々は、心を大切にする準備も弁えも、ある程度は出来ている。人類は、それなりに進歩したのである。同様に、奇跡話には、むしろ、警戒が強くなっている。奇跡話のインチキを、嫌というほど、見て聞いてきたからの、良心である。にもかかわらず、未だに、大昔の、あったかなかったか、という奇跡を、あったと信じなければ、受け入れられない、という神経には、元々昔の人々の、奇跡を見なければ信じない、という未開の精神の名残りであろうか。ひたすら、奇跡にしがみつく者がいる。あるいは、自分に都合のよい奇跡でも起こらないと、キリストが最も厳しかった偽善者である自分の、救いがたさを、どうしようもなくなった者の、悪あがきか・・。
 
何が大事かをご存知の神は、今を生きる人間にとって、何が大事かをご存知である。
 
奇跡にだけ注目して、人間を疎かにする者は、大事なことを書き忘れる。
 
マリアは信仰者として、神が最も好まれる低い立場から、答えたのである。
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
1:38そこでマリヤが言った、
「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」。
そして御使は彼女から離れて行った。
 (ルカ1:38、新約聖書)
 
神の前に、この態度を忘れないことだけが、信仰に必要十分なのだ。
 
教理と奇跡と史実にこだわる信仰は、魔術のようなわざを喜び、神の立場を強調して宣べようとするだろう。人間の心を大切にする信仰は、人間の立場で言えることを言うだろう。そして、誰よりも人間の心を大切にしているのは、人間を救おうとする、神ご自身である。
 
聖霊、聖霊、聖霊と、いくら強調したところで、目に見えない御方は、目に見えない働きをするだろう。その働きを、目に見えるかのように、いくら人の言葉で、華やかに言い表しても、それは依然として、神に遠く及ばない頭の中で、辻褄合わせをしただけの、人間の心に響かない観念を打ち鳴らす打楽器に過ぎない。それを、どうして、人を神につなぎとめる信仰と言えようか。
 
 
 「イエスにも聖霊が臨まれた」
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27611411.html
 
※ 自分を救おうと躍起になっている偽善者の誘いに乗ってはならない。
 
 
(2016年07月31日、同日一部修正)
 
 
 
 

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