「ウソの国―詩と宗教」戸田聡ブログ

自由にも不自由にも首を絞められそうになってる糞爺のブログ (偽サイトにご注意!)

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「その名は迷走」

 
  その名は迷走
 
 {迷走、逆走せず進む}
 
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27665135.html
 
 
迷走そして逆走している、彼、シャローム氏が、この記事を転載したのは、とても不可解です。今もなお、人に向かって、こんなことが言えるつもりなのでしょうか。自分に向けて、ということなら、転載する必要はないのです。人に教えることより、自分が読んで、ひたすら、反省してほしいのです。今は、それだけが必要です。人に教えようとする姿勢は、自分は間違えていない、あるいは、自分が間違えるなら、人はもっと間違える、という優越意識にしかならないのです。
 
台風の迷走と、車の逆走から、信仰について語っています。はっきり言って、それだけの記事です。どういうことが、信仰における迷走・逆走か、また、信仰について、間違えるとき、または間違えないために、どうすればよいか、については、何も述べていない、という記事のようです。正しいならよいが、正しくないなら、正しくなれ、という、反省でもなく、教訓にもならない記事・・。
 
恐らく、聖霊への信仰を持っている人は、道を外れる心配というのを、あまりしないのではないか、と思います。何故なら、聖霊が付いていて、いつも自分を正しいほうへ導いている、と思っているから。つまり、一生涯、自分は安心、という信仰になります。こういうスタンスが、信仰にとって、最も危険だと私は思っています。既に記事がおざなりになっていますし・・。
 
安心してしまう人は、密かに、信仰から離れやすくなっていることを知らないのでしょうか。何故なら、人は、その本性として、すべてOKという安心を求めて生きているからです。この点は、世俗の人も、信仰の人も、同じです。多かれ少なかれ、そういう方向を向いているのです。早く、ただの、つまらない一人の人に戻ってほしいです。信仰は、そういう人を導くものだからです。
 
>逆走や迷走というのは、信仰のあり方においても、あまりいい感じではない
>向かうべき方向からの離脱であり、危険行為でもあるからだ。
 
いい感じではない、という表現でよいのかな・・・という気がします。2行目の、離脱、危険行為と、書いていることとバランスが取れていません。いい感じではないけど、神の導きが、聖霊が、正すから心配いらない、と言うのでしょうか。神の導きが、道を正すとしても、その導きを、逐一、モニターすることなど、人には出来ないのです。少なくとも、神の導きは、自動的に総てがよくなっていくというようなものではなく、自分がどう反応して考え、苦しんだか、ということに密かに反応した神の業であり、秘められたものは、迷走し逆走していると気づく者にとってだけ、迷走や逆走の背後にも、秘められて動いているかもしれないのです。
 
 
 (箴言、口語訳)
4:14
よこしまな者の道に、はいってはならない、
悪しき者の道を歩んではならない。
4:15
それを避けよ、通ってはならない、
それを離れて進め。
4:16
彼らは悪を行わなければ眠ることができず、
人をつまずかせなければ、寝ることができず、
4:17
不正のパンを食らい、暴虐の酒を飲むからである。
4:18
正しい者の道は、夜明けの光のようだ、
いよいよ輝きを増して真昼となる。
4:19
悪しき人の道は暗やみのようだ、
彼らは何につまずくかを知らない。
4:20
わが子よ、わたしの言葉に心をとめ、
わたしの語ることに耳を傾けよ。
4:21
それを、あなたの目から離さず、
あなたの心のうちに守れ。
4:22
それは、これを得る者の命であり、
またその全身を健やかにするからである。
4:23
油断することなく、あなたの心を守れ、
命の泉は、これから流れ出るからである。
4:24
曲った言葉をあなたから捨てさり、
よこしまな談話をあなたから遠ざけよ。
4:25
あなたの目は、まっすぐに正面を見、
あなたのまぶたはあなたの前を、まっすぐに見よ。
4:26
あなたの足の道に気をつけよ、
そうすれば、あなたのすべての道は安全である。
4:27
右にも左にも迷い出てはならない、
あなたの足を悪から離れさせよ。
 (箴言4:14−27、旧約聖書)
 
 

私たちは間違った方向に進んでいるとしたら、立ち止まって、方向を確かめて、もう一度元の道に戻っていく必要がある。私たちはイエスから離れてしまっては何事も出来ないのだから、いつもイエスが必要なのだ。

 
このことが、誰よりも必要なのに、このことを、誰よりも無視している者が、この記事を転載しています。
 
どうやって確かめるのでしょう。神を讃美して、聖書語を並べる記事に、いつも感じることです。実際には、安穏としているだけなのです。堕落や罪や偽善から自分をやすやすと除外する前提を作ってしまう、という
信仰者の危惧を感じます。
 
方向を確かめるために、聖書を読むのでしょうか。内省でもしてみるのでしょうか。一番大事なことは、安穏の実質を持つ安心や平安から脱することです。自分を安全地帯に置くことこそが、堕落の第一歩なのです。安全地帯に置かなければ、そこから歩み始めることになります。そこから学習し始めることになります。それが一番大切で、学んで信じた立場に立ってはいけません。いつも学び信じる立場から出発して、その都度、裸にならないといけません。
 
キリストを離れては何も出来ない信仰者は、聖なるものの臨在を常に欲しています。だから、キリスト、神、聖霊、この聖三位が、いつもそばにいると言うことは、罪深き人の場合、だから安心、に結び付きやすいのです。神の平安は、一度与えられたら、ずっと安心という賜物ではないはずです。聖書の中で、人がどれだけ主を裏切ったを考えるべきです。そこに、キリスト者の安心材料はありません。私たちが、それでも、安らぎを得るのは、自分の言動に対して、秘められた導きの後、結果が表れ、その反応としてしかないのです。今までの経験から、恒常的平安の境地を唄う信仰は、殆ど信用できません。何故なら、信仰は、こんなにも小さく弱く低く罪深い、という自覚に表され、いつも安心という自覚からは遠ざかる方向にしかならないからです。平安はその都度、神と人の関わりの結果として与えられる、そのときだけもので、いつも安心・・は、それを自分の持ち物としている証拠だからです。
 
「見るべきものをシッカリ見て」
「みことばをガイドラインとし」
「導かれる御霊に教えられ」
「確かな目当て、天の御国に向かって」
 
こういうのは、信仰者の美辞麗句、キリスト教の通念的常套句、信仰者のリップサービス〜苦し紛れ、いつ書いても何だかいいこと書いたような気分にさせてくれる聖書語、だと思います。具体性に欠けている言葉・・。これを、いや、幼稚でも書くことが大事なんだ、書くことで、主の取り成し、神の導きがあるのだ、と言う人は、あったかどうか、あるかどうかを、確認できない神聖に託けて、自らの安易さを認めたくない人で、信仰らしく見せるための常套手段であります。何でも・・することが大切です・・というだけで根拠を示さない言説には警戒してください。
 
信仰について、文章を書き、それを人に見せようと思うなら、立派なことを書く必要はないが、少なくとも、上のリップサービスを排除することから、始めるべきでしょう。別に文学的にするとか論文のようにするとかいうことではありません。リップサービスに陥るくらいなら、むしろ日常的なことを書いて、日々の出来事を書く日記にしたほうがマシだということです。日記には、ヒントが隠れているかもしれないからです。そこから始めるべきです。それはブログに最適でもあるでしょう。
 
また、私たちの信仰生活は、事実上、迷いながら、歩き、ときに慌てるように走ることです。それを、迷いはなくなり、慌てることなく進めるのが信仰だと勘違いしている人は、いかにも平安を得ているような外面だけを装います。信仰は、迷う心と慌てる心とを捧げる先を与えてくれる賜物です。信じれば、そこから先、迷うことが全然なくなるという約束ではありません。
 
彼、シャローム氏は、信仰についての記事を、深いことが書かれているということではなく、誰が読んでも表面的には意味が分かり、優しく丁寧な言葉で書かれていて、神を讃美する記事、という基準で選んで転載すると思います。そして、誉めそやします。注意してください。
 
認識するべきことがあります。私たちは誰も、神を、キリストを、聖霊を、正しく表す文章など書けません。このことを認識していないと、以上に書いたようなことを内省することなく、安易に、信仰の記事を書いた、書いてもよい、そういう気分になるのです。私たちは、人間について書く態度からしか、信仰を見ることは出来ません。
 
 
(2016年08月31日、同日一部修正)
 
託ける(かこつける)
慌てる(あわてる)
 
 
 
 

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