「ウソの国―詩と宗教」戸田聡ブログ

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「信仰の奇形」

 
 信仰の奇形
 
 
今まで神の意志と行為に対する思い込みの決めつけによる自分信仰であるところの、無罪信仰、教理信仰、奇跡信仰、超常信仰、魔術信仰、史実信仰、などの言葉を用いて、矛盾に満ちた奇妙で偽善的な信仰?の特徴としての、訂正不能、自己正当化、自己絶対化、非を認めない、隠蔽体質、被害的他罰的な信仰?の性格特徴、神に仕えているつもりで実際は世間体などのこの世の利益に仕えている特徴、などを書いてきた。
 
自分信仰者は、実に、神を熱心に信じているつもりで、自分の思い込みに仕えて、そこから抜け出すことができないでいる、という嘆くべき現状にある。不動で揺らぐこともないという信仰は、彼らによって、人間世界には何も通用しないような、矛盾だらけの奇妙な道徳律とお伽話、そして、神と奇跡が手に取るように分かるかのような、とても奇怪な論理を作り出している。
 
人でさえ複雑であり、言葉では表せないほどに、善も悪も見極めがつきにくいのに、彼らは、実に、単純で短絡的な当為(「べき」の付くこと)に従っているつもりのようだ。つまり、彼らは、知性においても、情性においても、壊れているとしか言いようがない。しかも、最も問題で事態を最悪にしているのは、自分に誤りの可能性を認めないことだ。
 
どんなに奇天烈な教理を捏造して持っていたとしても、誤っている可能性を認めている人は、まだ、人に対して最低限の、謙る姿勢を持っているわけで、外面が恐くても、ただの変わり者で頑固な人として、立ち直る可能性も持っていると言えよう。
 
しかし、人が誤りの可能性を認めないことは、一対一で、神に成り上がっている証拠なのである。付き合いの表面的な社交の礼儀を持っていたとしても、それが柔和ということとは全く異なる偽善的態度であることは明らかであり、彼らの訂正不能性は致命的に信仰に反している。
 
信仰は、人が神を信じることであって、人が神の領域に住むことではない。信仰は、信じ仰ぐことである。人が神より下であるのだから、人が信仰について神を信じるのだから絶対だという判断は成り立たない、ということが分からないなら、その人は、容易に、自分の思い込みの信仰を神の意志として絶対化してしまうのである。
 
私たちは、自分の信仰を、神の御心だから疑ってはいけないという先入観から目覚めない限り、絶対化は避けられないだろう。絶対化した自分の信仰の言葉を、もはや自分の罪深い言葉として見ることができず、先入観として、訂正するなど恐れ多いと、一途に絶対化し、神の啓示だと言い張り、修正しないことが神を恐れることだと信じ込んでいる向きが多いのは嘆くべきことである。
 
私たちは、徹底的に、天上に住んでいる御方とは違うという自覚を持つべきである。その神と人の違いを弁えることについては厳格すぎるということはない。そこを知らないと信仰とは言えないからだ。神の言葉と、人が信仰について語る言葉とは、その完全性と無謬性において、決定的に違うのである。徹底的に時空も能力も限られた我ら人間は不全であり、聖なる領域は完全であることを弁えるべきである。修正することが神を恐れない態度なのではなく、逆に、修正しないでいることこそが、神を恐れない不遜であることに気づいてほしい。人間は地上の言葉しか持ってはいない。修正を重ねて成長するという本質を弁えなければ信仰は腐ってゆく定めなのである。
 
理解は、新しい理解によってしか、新鮮ではあり得ないのだ。それは、神が手とり足とり教えてくれて分かるものではなく、ただ、成り行きとして私たちが気づくべきことなのである。主のほうを向いて、主の言葉を聞いて、というのは、主の方向と主の言葉が分かると言う思い上がりであることに気づいてほしい。聖書を何度も何度も読んで、一途に訂正不能の思い込みを強くしている者もいる、ということを忘れないでほしい。問題は聖書を読む量にあるのではなく、神とキリストと聖書に対して、不全の人間である自分として向かい合っているかどうかにかかっている。
 
神の働きや神の人に対する導きは、決して、私はそれを受けている、などと人が言えるものではない。私たちは、目に見えない神に生かされているというのに、なぜ、自分が神から聞いて知っているかのように、神を知るという傲慢を続けているのか。私たちは、神に比べれば、無知というしかないほど知恵足らずである。その自覚を持たずに、得々と語る者からは何も得られないばかりか、本来持っているはずの知性と感性さえも腐らせ、破壊されるだけであることを知るべきである。
 
信仰には特別の知性や感性というものは必要ない。しかし、本来持っているはずのそれらの賜物を捨ててよいとは書いていない。そのような理性を敵として捨て去ることを勧める者たちは、ただ、自分の理性が貧弱であるために、そこで勘違いして、この世の知性的な人や感性の優れた人に対しての嫉妬と怨念によって、それらを捨てることを尊いと触れ回っているに過ぎない。
 
信仰者が持つべき、最低限で、かつ、必要十分な知識を、節操または弁えまたは信仰の芯と呼んで書いてきたが、自分信仰者の固まってしまった信条は、それを全く受け付けなかった。ここにおいて、手遅れというのは、あるのかもしれないと思ってしまうほどだが、少なくとも固まった信条からの信仰の話は、まともには聞けないほどくズレているし、さらに崩れてゆくことは確かである。
 
彼らのような自分信仰者への裁きは神がなさるだろう。私たちは、その時までに巻き込まれてはいけない。彼らは、熱心に見えても、信仰とは関係ないばかりか、信仰?の世界を自分で作って、真実を滅ぼしてゆく者たちである。
 
彼らのような自分信仰者は、知性を忘れ、感性を忘れ、恥を忘れて、その言うところ、まるで、信仰の糧にはならないほど幼稚であり、人を導く偉人になろうとして、信仰の話も、信仰の話し合いも、詭弁で満たしてゆく者たちであるから、いずれは地上での生活も、その言論と行いによって、矛盾だらけになって崩壊するだろう。
 
信仰の話において、批判を受け入れず考えない慮外者たちを覚え、彼らに近づかないようにするべきである。信仰は批判禁忌ではない。人の世界で信仰が生きるために人の話し合いは必要であり、何も文句を言われたくないために沈黙を勧める者たちに惑わされてはならない。
 
彼らのような自分信仰者は、自分の利益と自尊のために紛れ込んだ者たちであって、信仰の義など求めてはいない。話し合いと学習機能の入出力による訂正機能によって新たにする気のない者たちは、最低限の正直も誠実も、神の前に偽らないことさえも、気にしないほど、恣意的な信念に毒されているからだ。神と人の関係の有り様は地上では神によって秘されている。信仰は地上では人間同士の間に芽生えて知るものである。その人間同士の間が、闇と沈黙であってよいはずはないのである。
 
キリストが敵としたのは、知性と感性を殺して無思考の戒律にすり替えた者たちであり、当時のパリサイ人や祭司たちは、結局キリストを殺すことになる。そのような者は現代にも自分信仰の思い込み信仰者として、現代のパリサイ人として存在している。彼らは、心の中で偶像化した奇怪な論理を振り回して、いくら指摘されても無思考に無反省に同じことを繰り返し言い続ける亡者である。
 
無知が無恥になるようなことがあってはいけない。
 
信仰の知恵は無思考を招くことはない。
人間は、神の導きを受けて、考える生き物である。
 
 
(2017年02月20日、同日一部修正)
 
奇天烈(きてれつ)
捏造(ねつぞう)
謙る(へりくだる、遜る)
芽生える(めばえる)
 
 

 

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