「ウソの国―詩と宗教」戸田聡ブログ

自由にも不自由にも首を絞められそうになってる糞爺のブログ (偽サイトにご注意!)

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  神に近づきたがる者たち
 
 神の家族計画
 2017/4/21(金) 午前 9:45
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28049740.html
 
 
命について、転載元は、どうしても、神に近づく話にしたいようです。
 
>今日わたしたちは、人工知能が著しく進歩、発展してきた時代に生きています。
>ロボットが人に代わっていろいろなことをやってくれる時代となってきました。
>将棋電王戦と言われ、将棋の世界でも、
>人間とコンピューターが対決してどうだったかという話も話題になっています。
>これはこれで素晴らしいことだと思います。
 
AIの話をして、これはこれで素晴らしい、と言っています。どういう感想でしょう。性能が優れていることは素晴らしいということでしょうか。どうせ人間とは違うから、人間に代わることは出来ない、と安心しているのでしょうか。
 
>けれども、人間が高度のコンピューター技術を駆使してロボットを作っても、
>出来ないことが一つだけあります。
>当たり前のことですが、ロボットにいのちを入れることは出来ません。
>ガソリン燃料も持たず、電源装置もないのに、
>目的地を目指して何千キロもの距離を飛び続ける渡り鳥と、
>高速で空を飛ぶジェット旅客機と比較すると、
>その大きな違いはいのちがあるかないかです。
 
大きな違いである命とは、何なのでしょう。私には分かりません。しかし、自分は分かっている、と言いたい者たちのうち、おもに宗教関係の人は、分かったつもりになっているようです。ここにも、分からないと言えない、自分の知らないことについて遠慮する態度を持たない、という災いがあります。私は前に、中身を見ない限り、人間なのかAIなのかが分からなくなるときは来るだろう、という記事を書きました。命は目に見えないのです。ですから、命無きAIが、命のように、命ある人間とそっくりに、応対して、区別がつかなくなる可能性を書いたことがあります。
 
命と言うだけで、自分は神と同じ聖域に既にいて、モノではないことが自明であるかのように思い込んでいる高慢が、キリスト教の信徒の中には多いだろうと思います。このような思い込みは、危機意識の欠如を招くでしょう。AIを生み出している科学でさえ、危惧していることなのに、仕組みを知らないから、前提のように、心配ないと言い切ってしまうのでしょう。これから先、そういう人たちは、比較せよ、と言われて、いったい何を比較するのか分かっているのでしょうか。機械としての中身が秘されている場合には、比較する技術も、人だけでは、足りなくなるでしょう。
 
>鳥たちは、その空を飛ぶ姿、水の中を泳ぐ姿、美しい羽根などで、
>自分に与えられている鳥のいのちがどういうものであるかを見せています。
 
鳥の命のうち、どういうものであるか分かるところだけが、人に見えているに過ぎません。
 
>今もう、あちこちに咲き始めている梅の花も、寒い冷たい空気の中で、
>葉も緑もない木にいきなり、赤や白の花びらを見せてきています。
>梅の木のいのちがどういうものであるかを見せています。
 
木の命のうち、どういうものであるか分かるところだけが、人に見えているに過ぎません。
 
神の全能を恐れない者は、人以外の動植物の命ならば当然のように、分かっているつもりで、人には及ばないからと、高をくくって、恐れないでいるのでしょう。ときどき、その思い上がりは、自然の成り行きによって叩かれているようですが。
 
>同じように、イエス・キリストの33年の人生、その生きざま、死にざま、
>それは神のいのちとはどういうものであるかを見せています。
>そして、主なる神の御計画があります。

>それは、キリストの生きておられたそのいのちをもらって生きる人たちが起こされ、
>その人たちを通して、神のいのちがどういうものであるかを見せることです。
 
私たちを通して、伝えるべきは、人に及んで、人に共感可能になったところの、神の愛についてであります。神の命そのものがどういうものであるか、ではありません。実に言葉がゆるい。神の命が説明できるし理解できると誤解されやすく、神と人をはっきり区別する気のない無節操な文章だと思います。
 
>イエス・キリストは神の子と言われましたが、この御子キリストを信じて、
>新しいいのちを生きる人たちのことも神の子と呼ばれます。
 
天上の神が、地の民である私たち人間のことを、子供のように思ってくださるからと言って、転載元が、信仰者を神の子と呼ばれる、と言うことが、自分信仰の傾向のある者たちの身の程知らずの欲望を掻き立てて、大きな弊害をもたらしています。神の人に対する愛について言われたことを、人の位格にしてはいけません。
 
このような書き方をするから、神になりたがったり、彼、シャローム氏のように、神の代行者や代弁者気取りになったり、何をしても悔い改めないまま赦されるなどと、思い上がって言い張る信仰者が出てきてしまうのです。
 
>神はご自身と同じいのちを持つ、そのような子どもたちを求めておられるのです。
 
神が、この地上を探して、自分と同じ命を持つ者を探している、と受け取られそうな、この文を是とすることは出来ません。なぜ、今、人の、特に聖職者たちの信仰が、こんなにも無警戒に、締まりのない言い分に流れているのか、理解に苦しみます。
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)
1:9
すべての人を照すまことの光があって、世にきた。
1:10
彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。
1:11
彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。
1:12
しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。
1:13
それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。
1:14
そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。
 (ヨハネ書1:8―14、新約聖書)
 
>神によって生まれた人に、神のいのちがあります。
>その人たちは神の子と呼ばれますが、
>主なる神はこのような神の家族をもつことを計画しておられます。
 
また、ゆるく美味しい文言で結んでいます。信仰者に神の命があると言っています。信仰者には神からの導きがある、ということと同義なのに、なぜか、神に近づけようとするのです。そして、神の家族になると言っています。神の家族は、神の民と同義であるのに、なぜか、このように、神に近づいてゆく方向で言葉を選んで、神の子、神の家族なんです、いいでしょう、とばかり、伝道と言うより、宣伝に傾いた言葉選びで、言葉を繰り出すのです。
 
神と人との、決定的な区別をしないで、ぼやけたような言い方で、神に近づける、という印象を植え付けたいのでしょうか。植え付けられた人々が、お返しに、自分信仰をたくさん実らせてくれることでしょう。
 
 
(2017年04月22日)
 
 
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