「ウソの国―詩と宗教」戸田聡ブログ

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「批判と責任」

 
  批判と責任
 
 
彼、シャローム氏は、しばしば続けて政治の転載記事を載せることがありますが、政治ブログの転載については、以前から、彼が、民主主義者ではなく、権威主義者であることを批判してきました。さらに、彼は、他者の記事を深く理解しているわけではないことも書いてきました。ときには最低限の理解にも達していないと感じることもあります。シャローム氏のブログは元々福音伝道のブログですから、肝腎の信仰の記事の不備と破綻を誤魔化すか、おかしな信仰の記事にかぶせて迷彩を施したいのではないかとも思っています。
 
このことは、コメントの遣り取りがあった頃からの長い付き合いにおける彼の応答から推測していることです。彼の他者の記事に対する評価は、恐らく、そのとき彼の、または彼の欲望の、気に入るかどうかだけで決めていると思います。今は、彼も、反政権のようですから、それに沿う記事なら、載せるのでしょう。彼は、例えば、ネトウヨの人のコメントにも、答えないか、あるいは、近所付き合いに喩えた比喩に対して、比喩が表わすところの、もっと大事と思われる政治的なポイントには触れずに、近所付き合いについて批評するだけ、という情けないレスを書いたりしていました。
 
彼は、自分が政権に批判的で、かつキリスト教にも批判的であるのに、根拠を示して批判しようがしまいが、自分に対する批判は悪口と見なして排除してきました。コメントの数が多いから荒らしだ、という成り立たない言い分を書いたことがあります。それを訂正しないまま、コメント欄を全廃してしまいましたから、変える意思はなく、今も同じ主張だと見なすしかありません。
 
あるときから、私は、コメント欄に直に書き込むよりも、すでに一応の推敲をしてアップした記事のほうを、コメント欄に書くほうがよいだろうと思い、分割して書いていました。それで一回のコメントが10〜20コメになることもあったわけです。彼、シャローム氏というブロガーは、その批判が記事になるほどに、問題の多い人ですから、コメント数も多くなるということです。それもコメント欄が全廃されては、昔の話になってしまいましたが。
 
彼の主張するところの、無罪信仰、という名は、私が付けたものです。というのも、そう名付けるに相応しい内容だからです。偽善も罪の一種だから同じように赦される、と言い、悔い改めなくても赦されるから罪を気にしなくていい、という内容を持っている以上、その彼の教えに従って、教えを守るなら、罪を犯しても気にしないのだから、自分勝手な、やりたい放題の人間になってゆきます。彼の教えが広まれば、そういう好き勝手に、やって悔いることのない、という身勝手な人が、たくさん生まれることになります。しかも、その教えには、彼が言うところの議論無用の絶対の神の啓示という根拠?が無条件に付いてくるわけです。
 
キリスト教もキリスト信仰も、人間を救うために与えられているのですが、彼の教えによる宗教と信仰自体が救いがたいものになってしまっています。これを、どうして、キリスト信仰の名で、いいですよ、なんて言えるでしょう。彼の絶対は、絶対に通してはいけません。
 
前に書いたことですが、人が断定し得る絶対は、ただ一つ、人には、絶対は絶対にあり得ない、という皮肉のようなパラドックスだけなのです。
 
言論にとどまる限り、書いたことを修正することが出来ます。すでに発行された書籍では、ほぼ不可能で、また、他の投稿欄に書いたことも訂正は難しいですが、新たに訂正コメントを書く、という方法はあるでしょう。言論にとどまらず、何かの実行を示す思想で、既に、実行されたあとでは、もう取り返しはつきません。実行は修正が出来ません。
 
私は、しょっちゅう、ブログの記事を、あとから訂正しています。私の文才の無さを露呈しているわけでもあり、私の作文上の注意散漫や情緒不安定によるものかもしれません。伝えたい意図と違うことがディスプレイや紙の上で固定してしまうのは、耐え難いからです。言ったことを、しょっちゅう変える、というのは、おかしいと言えます。なんとか、多くは、芯となる部分ではなく、表現上の誤解を避ける、という趣旨の訂正が多いだろうと・・思っていて、祈ってもいます。(汗、嘆)
 
実行されたあとは、その責任については、言い出した人も実行した人も問われるし、責任を負うしかありません。そのような場合に、キリストに、神に、委ねます、なんて、この地上では通用しません。この場合、信仰が生きるのは、責任を負うている立場の苦悩を、神に捧げて赦しを乞うことであり、責任自体を逃れることではありません。直観的に分かるでしょう。分からない人もいて、都合の悪いことだけ、神に委ねるのがいちばんなのです、とか言っていますが・・ひどい話です。
 
だから、せめて、言論の範囲では、修正可能にしておく必要があります。思想の書き方のみならず、心の問題として、修正可能は必要だと思います。私の記事の思想は、批判にしても信仰観にしても、言論の段階に過ぎないだろう・・と思っていますし。
 
ですから、修正することを、しっかりした考えを持っていないじゃないか、と嫌がることなく、修正してゆくべきでしょう。あとで、言い訳も、弁明も、できなくなって、批判される側が、次から次に、批判を削除してゆく、という醜い様を見るのは、故意にそれをやるような、悪質な偽善者だけだ、という方向で考えてゆけるような言論の世界にする必要があるだろう、と思っています。
 
神は、絶対不変として信じているので、神の全体は人には決して分からないけれど、神に修正はないでしょう。しかし、神が、既に全てを人に伝えているとは、到底、思えませんから、私たち信仰者にとって、全き真実は、決して明らかではないのです。この地上では、絶対に正しいことより、絶対に間違っていることのほうが、気づきやすいと思います。後者の方が、悲劇として、歴史の大部分をなしているからです。
 
そして、本当に絶対悪いかどうかは、その時代の必然性とか、私たち人間の、非絶対性、すなわち、不全性、ということもありますから、最終的判断は難しいので神に任せることになるのが信仰です。そういう人間の信仰の相対性から、つまるところ、私たち信仰者に必要不可欠なのは、やはり、修正可能であることだと思うわけです。完全なる神の前に、不全なる人間は、神に対して、修正可能をもって、必要なときに、修正〜改革までをなし、神にそれを捧げて祈り、成長を期待する以外にないと言えるでしょう。
 
これは当たり前のことなのです。しかしながら、世の中には、自分の、欲望のために、また、性格のために、自らの思想信条と、心中しそうな、あるいは、他者を巻き込んでじわじわと無理心中させそうな、そういう人間がいっぱいいるような気がします。
 
 
(2017年05月17日、同日一部修正)
 
 
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