「ウソの国―詩と宗教」戸田聡ブログ

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「泣いてください」

 
  泣いてください
 
 その名は不思議
 人の喜び、イエスの喜び
 2017/5/17(水) 午前 9:17
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28088979.html
 
 
引用+彼の記事のようですが、批判は区別せずに書いています。彼は、どんなに批判されても、何ごともなかったかのように、記事を書いてきます。彼は、反論できたことがありません。彼は、弁明できたことがありません。だから、コメント欄を閉鎖しています。批判コメントを見なくて済む環境で、彼は、平気で書いてきますが、これは不感不応の異常な無視であって、信仰によって、くじけない、ということとは全然違います。彼の偽善に騙されないでください。
 
彼は成り上がって、何も分かっていない自分に気づかないのです。平気で書くことが信仰だと思っているのは、それこそ、人の気持ちが分からなくなり、怒気とも悪意とも気づかずに書いているのであり、それはそのまま信仰としてOUTでなのです。悔い改めることもなく、いつまで、偽善を何度も押し出して信仰の邪魔を続けるつもりなのでしょう。
 
何が腹立たしいかと言って、シャローム氏は、返事を書く、あらゆるスペースを、彼の意思によって、削除していることです。彼は、問いを出しても、答えなど全く求めてはいない、対話など、する気はない、ということなのです。
 
>あなたはどうですか。
 
>どう思いますか。
 
>ふしぎですね!
 
どうやって、答えよ、と言うのでしょう。口だけ・・偽善者の特徴でしょう。彼自身が、おかしいと思わないのは、超常的自分信仰によって、そういう感性が、鈍麻〜麻痺しているからなのです。
 
>ああ、もっと喜んでいいのだ、もっと喜びを表してよいのだと、
>分かってきた頃がありました。
 
どんなときにも、いつも、薄笑みを浮かべている、前にも書いたけれど、はっきり言って情緒がおかしいと思います。悟ったつもりの宗教陶酔者に多い現象です。どんなときにも、喜ぶ、というなら、それは、正常な人間ではありません。悲しみは、必ず訪れてくるものですから。
 
いつも喜んでいなさい、というのはどういう意味でしょうか。例えば、神は、キリストは、どんなときにも、生きなさい、と言ってくれるでしょう、ということは解釈〜推測〜想像に難くないと言えます。主が、あなたが生きていることを喜んでいます、と言っているような想像も可能です。それは、喜びとするべきことです。では、そのとき、悲しみに沈んでいる者は、ああ、そうだ、では喜んでいよう、と直ぐに笑顔になったりできるでしょうか、否です。
 
ここには、信仰というものを、条文のように言葉だけで理解してしまう間違いがあります。キリストが、人が生きていることを喜び勧めている、ということは、苦難と悲哀の時の、慰めなのです。人は、慰められています。慰められているときに、人は、へらへら笑ったりするでしょうか。せいぜい、慰められた後で、立ち直って、他者に微笑を浮かべる程度でしょう。超常信仰者は、あっという間に喜びに変わる奇跡で、輝く笑顔になるという妄想を向けてきます。むしろ、これは、悲しみに対する感性の劣化と感情鈍麻を招くだけですから、聞いてはいけません。悲しみは、少なくとも、うれし、たのし、めでたし、の喜びよりは、人を生かす大きなきっかけになるものです。
 
シャローム氏のような言葉面信仰者は、文字通りにしか理解しないものだから、聖句通り、いつも喜んでいないといけない、と思い込んで、どんなに悪いことをしても、どんな罪を、神に対して、人に対して、犯しても、いつもへらへら笑っていられるようになってしまったのです。何も感じなくても、へらへら笑っていられるのです。それが信仰だと思っているのです。自分の醜さに気づかないのは、自分信仰の特徴です。人間としての直感が、自分信仰によって、鈍麻した結果なのです。
 
>あなたはどうですか。
>どちらが良い悪いと言っているのではありませんが、
>あなたは喜びを顔に表す方ですか。表さないタイプですか。
 
ここでのテーマは、信仰の喜びについてであって、喜びを顔に表すか表さないかではないですね。のっけから勘違いしているようです。
 
>御霊の実のふたつ目の「喜び」も神のいのちの表れでした。
>イエスには喜びがありました。
>物やお金からは得られない喜びをもっておられました。
 
ここでのテーマは、物やお金の喜びを否定して解決することではないですね。キリストには喜びがあり、その信仰の喜びを宣べ伝えました。それは、試練に耐えて苦難を乗り越えるときに訪れる喜びであり、常時笑顔のことではありません。悲しいときに無理に喜びを装うことは、決して、信仰者の態度ではありません。悲しいときには、涙を流して泣くことのほうが、まだ癒しに近いのです。いつもへらへら笑っている、シャローム氏と、その仲間の言うことを信用しないでください。
 
>ルカ 10:21
>そのとき、イエスは聖霊によって喜びあふれて言われた、
>「天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。
>これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました。
>父よ、これはまことに、みこころにかなった事でした。」(口語訳)
 
>イエスはその喜びを自分だけのものとしておられたのではありません。
>その喜びを、ご自身を信じる者にも共に経験してほしいという願いがあるようです。
 
キリストが、聖霊によって、信仰の喜びで讃美したからといって、不全なる人間が、多幸症になって、どんなに悲しいときにも、いつもへらへら薄笑いをする、などという病理に染まるべき理由にはなりません。この引用部分を書いた人は、実にシャローム氏に、よく似ている。超常信仰者は、恐ろしいことに、人間離れすることが信仰だと思っているようです。つまり、一種の病理を、聖なるもののように、崇めているのです。人間性を失ったら、信仰は成り立ちません。
 
>ヨハネ15:11
>「わたしがこれらのことを話したのは、
>わたしの喜びがあなたがたのうちにも宿るため、
>また、あなたがたの喜びが満ちあふれるためである」
 
>ヨハ 17:13
>今わたしはみもとに参ります。そして世にいる間にこれらのことを語るのは、
>わたしの喜びが彼らのうちに満ちあふれるためであります。(口語訳)
 
>ですから、キリスト教信仰と喜びは切り離せないものです。
>その喜びは、外からくるだけではなく、内側からくる喜びです。
>パウロは信仰のゆえに捕らえられ牢獄にある身でしたが、
>喜びの書簡と言われるピリピの教会の人たち宛の手紙を書いています。
 
>パウロは信仰のゆえに捕らえられ牢獄にある身でしたが、
>喜びの書簡と言われるピリピの教会の人たち宛の手紙を書いています。
 
>その中でこう言っています。
>ピリピ4:4
>あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。
>繰り返して言うが、喜びなさい。(口語訳)
 
パウロが伝えようとする信仰の喜びと、シャロームのへらへら薄笑いとは、全く関係ありません。信仰の喜びと、いつも喜ぶのが信仰だという迷妄とは、何の関係もありません。信仰は、多幸症の不自然な陶酔気分の病理に、人を導いたりしません。どうか、常時へらへら薄笑いを信仰として教えるのをやめてください。そんなことを教える者たちは、「いつも喜びなさい」という聖句を、単純な短絡で妄想化しているに過ぎないのです。どうか、悲しいときには、泣いてください、・・と書かねばならないとは、なんと悲しいことでしょう。
 
キリストと涙について引用しておきます。キリストの涙は、共感と愛と慰めなのです。
 
(説教要約12「キリストの汗と涙と血」より)
「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ」られ(ヘブル人への手紙5章7節)、またラザロが葬られた墓において「イエスは涙を流された」(ヨハネの福音書11章35節)と聖書は記しています。キリストは、私たちの罪を憂えて「悲しみの涙」を流されるとともに「愛の涙」を流され、また私たちのために「切なる涙」を流して祈られた方なのです。
http://www.geocities.jp/pascalianx/mes12.html
 
どうか、キリストを慕う人たちは、シャローム氏のへらへら笑いよりも、キリストの涙を覚えてください。
 
>《shalomのコメント》
に入ります。
 
>記事本文に引用されているイエスさまの言葉は
>ご自分の十字架の苦難と死を目前にされたイエスさまの弟子たちへの、
>否、私たちへの遺言の言葉です。
 
また言ってしまいますが、バカじゃないの・・。イエス・キリストを、故人にしてしまいましたか。シャローム氏には、生きたキリストは働きかけておらず、目に見えないキリストは、彼にとっては、いないのでしょうか。彼には、うっかりキリストの遺言と言ってしまうような記憶しか残っていないのでしょうか。彼という古い皮袋には、それしか入っていないのでしょうか。よくも日頃、生ける神、キリストの復活、などと言うセリフが言えたもの・・。
 
ここからは、シャローム氏の背教ぶりが、自己正当化の言い逃れとなって書かれています。
 
キリストが捕えられる経過の記事は、しばしば見られるところの、シャロームのボロクソ節のようだが、省略します。
 
>しかし、偽りの訴えと裁きにより
>十字架につけられるイエスさまの心には喜びがあり、
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
26:38
そのとき、彼らに言われた、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、わたしと一緒に目をさましていなさい」。
 (マタイ26:38、新約聖書)
 
このような苦しみの中で贖いを成就してゆく御方、イエス・キリストが喜んで笑っていたとでも言うのでしょうか。キリストは人の肉体として十字架につくとき喜んで笑っていたとでも言うのでしょうか。そんな気色の悪い救世主を、シャローム氏は、信じているのでしょうか。シャローム氏を、人間だとは思えなくなっている私は異常でしょうか。どうやら、人間性に共感のないシャローム氏は、イエスを捕らえに来た群れの中にいるようです。パリサイ人も含まれる群れの中にいたなら、シャローム氏は、きっと笑っていたことでしょう。
 
キリストが与える信仰の喜びと、いつも喜んで讃美することを勧めるシャローム氏の悦びとは、何の関係もありません。彼は、人間感情を失って、冷血の教条コレクターになっているだけです。今までの記事において、彼は、180°キリスト信仰とは逆です。
 
悲劇を喜びと言い、悔い改めず贖いの成就にも答えようとしないシャローム氏は、腹いせでもしている気分なのでしょうか、独りで喜んでいるしかないようです。ならば、公開される場所にキリストの御名で記事を書かないでください。神の恵みである信仰は、キリスト者に与えられ、求道者に期待されるものです。・・彼は、以前、コメントを削除するときに、怒る理由はない、とコメントに書いたことがあります。怒りでないなら、何でしょう。恐ろしい教条の使命感に支配されていたのでしょうか。
 
私は、毎回、シャローム氏の書く記事を読むたびに感じる怒りを、できる限り、冷静な集中力に変えて書いています。罵詈雑言を極力控えるように努めますが、今日は書いた・・。
 
>それだけではなく、ご自分の偽りの裁きによる十字架の死により、
>イエスさまの喜びが訴え、
>裁く者すべて人の心に喜びを与えることを信じておられたのです。
>その証人が使徒パウロなのです。 
>パウロはイエスさまと生前会ったことのない人で、
>むしろ、イエスを信じる人々を捕え、投獄し、死に至らせていたのです。
>ところがその迫害者パウロがよみがえられたイエスと出会い、
>打倒されたのです。迫害者は使徒パウロと変えられたのです。
>投獄する立場からピリピの獄に投獄される者となっていたのです。
>その明日をも知れぬピリピの獄中から手紙を書いているのです。
>裏切り者の代表ペテロもイエスの言葉の真実を証ししています。
>イエスさまを訴え、裁く者、迫害者、裏切り者
>・・・・・・へのイエスさまの約束の言葉であり、
>ひとりの例外もないすべての人へ与えられる喜びなのです。
 
パウロは、迫害者であることから、悔い改めて、使徒となりました。ペテロは、裏切りの後、激しく泣いて、悔い改めて使徒となりました。この二人は、悔い改めて救われました。シャローム氏のように、悔い改めないまま「ひとりの例外もないすべての人へ与えられる喜びなのです」などという勝手な解釈の言い逃れが通用すると思っているような者が、悔い改め抜きで自動的に救われた例が聖書にあるでしょうか、断じて、ないのです。醜い真似は、やめてほしい・・。
 
>「わたしがこれらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにも宿るため、
>また、あなたがたの喜びが満ちあふれるためである」
>(新約・ヨハネによる福音書15章11節)
 
>「今わたしはみもとに参ります。そして世にいる間にこれらのことを語るのは、
>わたしの喜びが彼らのうちに満ちあふれるためであります。」
>(新約・ヨハネによる福音書17章13節)
 
信仰の喜びをキリストは伝えます。シャローム氏は、狂気と凶器と病気へと誘います。いつも喜んで、廃油のように黒く照り輝いて、笑って隠し事を続けながら。
 
>多くの人に一番愛されているアクセサリーは十字架ではないでしょうか。
>天と地、神と人、人と人を結ぶ神の愛を象徴しているからではないでしょうか。
 
最後に、あまりにも軽いシンボルの話。彼は、何も真剣には捉えていないのでしょう。
 
>ふしぎですね!
 
不思議というより不気味なシャローム氏という生き物、・・彼の笑いを、へらへら、と形容する理由は、こういう、まともを装って不思議がって、感嘆符までつけてくる彼が、自分のやってきたことなど何事も無かったかのようににいられることが、ふざけていると思うからです。しかも、彼は、こういうやり方を、約6年、いや、それこそ、牧師であった頃から、ずっと変わらず、反省せずに、続けて来たのだろうと推測されるからです。・・どうか誰も害を受けることのないように祈っています。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
26:38
そのとき、彼らに言われた、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、わたしと一緒に目をさましていなさい」。
26:39
そして少し進んで行き、うつぶしになり、祈って言われた、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」。
 (マタイ26:38−39、新約聖書)
 
信仰の喜びは、私たちには耐え難い血と涙のプロセスを経て、最大の悲しみと苦しみを超えて、私たちに与えられるものであることを、キリストは証ししています。それをまるで、いつも感じていられるような、楽しいときの笑う喜びといっしょにしてはいけません。
 
 
(2017年05月18日、同日一部修正)
 
騙す(だます)
崇める(あがめる)
躁病(そうびょう)
与る(あずかる)
 
 
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