「ウソの国―詩と宗教」戸田聡ブログ

自由にも不自由にも首を絞められそうになってる糞爺のブログ (偽サイトにご注意!)

全体表示

[ リスト ]

「臭う欲」

 
  臭う欲
 
 聖書の味(2008.6.16)
 2017/5/19(金) 午前 8:52
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28091680.html
 
 転載元:shirasagikaraの日記
 転載元記事:2009-06-22
 舌に留まれ、のどへ走るな、このうまきもの
 
http://d.hatena.ne.jp/shirasagikara/20090622
 転載元記事:2008-06-16
 聖書ってほんとうにいいものですね
 
http://d.hatena.ne.jp/shirasagikara/20080616
 
 
転載元は、まず、振る舞われた数々の料理の話をします。20行余りも割いて、うまかった話です。真剣な信仰の話より、うまい話が好きなのでしょう。今までの事情を抱えている私だけかも知らないが、貪欲、という言葉を思い出しました。いやな感じなので、引用は省略します。
 
>そのほとんどは伝道の途中の振る舞いだ。
>恥ずかしながら、集会でたくさん聞いた聖書の話は
>こんなに覚えてはいない。ところが人間のことばでなく、
>神のことばの「聖書」はよく覚えている。
>それは黄金のように輝かしく、   
>銀のようににぶく光ることばのかずかずだ。
>旧約聖書ぼうとうの「創世記」1章1節の
>荘重な「初めに神は天と地を創造された」に始まり、
>新約聖書のおわりの「黙示録」22章20節の
>「アーメン、主イエスよ、来たりませ」まで、
>どれだけたくさんの聖なる言葉を舌にのせ、味わい、噛み、
>のどへ送ったことか。それは胃でこなれ、血となり、肉となって、
>わたしを育て、養ってくれた。
>この「記憶に残る」聖書の味を、またしても舌にのせ、
>ゆっくり味わい、のどへ送るのだ。
 
派手な言葉で、飾り立てただけの誉め言葉を並べています。光っていて、人が作られ、主が来られる、という話で、聖書の深さが伝わると思っている人が書いています。そして、自らの口の中や内臓、という、やや気持ちの悪いところを遠慮もなく書いて、食べて呑み込んだ、という聖書の味を喩えています。口と内臓とか、自分が飲むとかいう話が、気持ち悪いのではないか、下品ではないか、ということは考えないようです。
 
私も、しばしば気持ちの悪い比喩表現を用いることがありますが、それは、実際、気持ちが悪いから、その譬えとして書いています。この人は、比喩の選択を間違えていると思います。比喩の対象は、神の言葉なのです。人間の、ましてや、この人やシャローム氏の、口や舌やノドで消化できるものではないのです。
 
>「あなたのみ言葉は、いかにわがあごに甘いことでしょう。
>蜜にまさってわが口に甘いのです」(詩篇119・113、口語訳)
 
この人も、分からない、とは言えない人のようですね。み言葉が甘いのではなく、この人が甘いのだろうと思います。ここからは、同じサイトの別の記事の転載です。
 
>聖書って本当にいいものですね(2008.6.6)
 
映画評論家のことを書いて(気持ち悪いので省略)、その真似をして
 
>「いやあ、聖書って、ほんとうにいいものですね」と言いたい。
 
しかし、この人の記事は、信仰の糧にならない自慢話です。どこに胡坐をかいているのでしょう。そして、シャローム氏は、補足もしないようです。似た体質だから、うん、うん、おう、おう、その通り、とでも、思っているのでしょうか。
 
>ありがたいことに、わたしは勤めが国立国会図書館、
>それも調査局だったので、いつも机の周りは高い書架にかこまれ、
>書庫に入れば、そのころでも500万冊の蔵書が顔を並べていた。
>しかし、その万巻の書籍のなかで、くり返して読んだのは聖書だけだ。
>たぶん旧新約通巻で15回は読んだと思うが、
>父などはその倍以上読みこんだだろう。
>なぜ聖書はそんなにくり返し読む値打ちがあるのか。
>聖書は今も毎日読んでまた教えられるからだ。わたしだけではない。
>世界中の無数の人々、それも平信徒が読みつづけている。
 
聖書を読む、という、読書量が多いほど、信仰を深くするとは限らないという例でしょう。文章全体に、居丈高な断定という印象です。シャローム氏と同じで、心貧しさなど、何処にもなく。
 
>わたしに聖書の面白さを教えてくださったのは、
>経済学者の酒枝義旗先生だ。日曜ごとの聖書講義を10年お聞きした。
>なるほど、聖書はこういうふうに読むのか、こうも読めるのかと、
>驚きながら先生の話を聴いた。
 
この人にとって、聖書の面白さというのは、そんなに、はっきりしているのでしょうか。そうだ、という返事が聞こえてきそうなくらい、自分と仲間を誇っている態度を感じます。
 
>たしかに狭い人が聖書を話すと聖書も狭くなり、
>きびしい人が聖書を語ると聖書もきびしくなる。
 
ゆえに、このような人は、このように、狭い人を想定して、自分の広さを自慢するのです。
 
>酒枝先生の聖書講義は、深い学識を底に秘め、
>ご自身、主から教えられたことを、うれしくてたまらないかのように
>語られる、そのゆたかさ、のびやかさに特色がある。
>聞くものを笑わせ、胸を熱くさせ、キリストを指さされた。
>わたしも「いやあ、聖書って、ほんとうにいいものですね」。
>この思いで聖書を話したい。ほんとうにそうなんだから。
 
嬉しそうに語る説教というのは、ときに、シャローム氏や、この人の、文章や説教のように、有頂天の多幸気分や、預言者かヒーロー気取りになることがあると、私は、こういう記事を読むほどに、感じて、何度も批判記事にしています。「ほんとうにそうなんだから」ここに、これが信仰?の確信になっていて、訂正不能にさえなっている、という臭いを感じます。何故なら、どこが、どういうふうに、良いのか、全く書いていないので、説得力がゼロだからです。いい、いい、いい、と連呼する説教は、心貧しいのではなく、ただ貧困だということです。現実の中の実感や掘り下げた洞察がどこにもないのです。
 
こういう説教こそが、黙って、文句を言わずに、頷く態度を、信徒に植え付けてゆくのでしょう。ゆたかで、のびやかで、笑わせ、胸を熱くさせる、というのは、説教者だけが、上気して、好きなように、気持ちよく語っている姿ではないでしょうか。社交の世辞の気遣いを信徒にさせるタイプのようです。そういう人は、裸の王様であったり、空虚な権威主義であったりします。底が見えてからは、ピエロかペテン師に過ぎません。自分信仰の自尊の権威主義の伝染だけが脅威となります。シャローム氏において、顕著であります。
 
この人の記事を、いくつか、シャローム氏のブログの記事で今まで見てきました。実感よりも、誉めて自慢する態度では、聖書のことを話さないほうがマシだと思います。自分の弱さや罪を考えたすえの、信仰者らしい、敬虔も柔和も見られません。シャローム氏において顕著ですが、うっとうしいだけの親切の押し売りは迷惑であり、伝染性を考えるとキリスト信仰の未来を思うにつけ、無関心な信仰者が多いことには、暗澹たる思いがします。
 
>「これらのことが書かれたのは、
>あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、
>また、信じてイエスの名により命を受けるためである」
>(ヨハネ20・23)
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)
20:30
イエスは、この書に書かれていないしるしを、ほかにも多く、弟子たちの前で行われた。
20:31
しかし、これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである。
 (ヨハネ書20:30―31、新約聖書)
 
この人も、シャローム氏も、聖句の箇所を確認しないようです。23節ではなく31節。
 
参考までに、上の引用の前の聖句を挙げておきます。
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)
20:28
トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。
20:29
イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。
 (ヨハネ書20:28―29、新約聖書)
 
現代においては、キリストの肉体を見ることが出来ないので、超常の奇跡も、正常な人は、それほど期待しないものですが、超常信仰者は、それだけを待っているようです。もう、何の言い訳も通用しなくなって、あとは有無を言わせず、どんでん返しの奇跡で救われる以外に術がなくなったからでしょう。それで、自分に都合の良い術なのに、どんでん返しを、また、神に当てはめる、という逆のことを、日夜、企み、実行し、記事を書くのです。それをまた、決めつけ、自分を高める唯一の手段として、日々、神を裏切っています。見ないで信じる、という意味も、曲げて固定しているのではないかと思います。見えないところに、奇跡は、魂の奇跡として、起こっているのですが。
 
超常信仰の自分信仰者は、魂の奇跡ではなく、滅多に起こらない物や肉体の奇跡だけを信じるようになっています。見ないで信じるのだと、二千年前の、信じたからといって今何かが変わるわけではないことを、事実として信じて、譲れない、などと言い張ります。その分、人間にとって大事な思考と感性を、批判や反対意見といっしょに、削除してゆくのです。彼らは、魂の奇跡に接しても、超常の奇跡ではなく人間的な出来事だから、何も感じず、信じないでしょう。シャローム氏において、今までの経過においても、顕著であります。
 
自分信仰者は、人間性を軽視して自慢ばかりします。いたるところに、その臭いが漂います。彼らは、聖書の解釈を絶対とします。それを普通だと思っています。信仰を、人の思想を表す文章と同じように見なして扱います。聖書の解釈は誰がするのでしょう。恐らく、彼らは、神の啓示だから、という詭弁をまた持ち出すのでしょう。聖書が神という絶対者についての文章であることへの恐れを知らないからです。彼らは、自分で分かったと思ったら、神と神の言葉を決めつけるのです。
 
彼らは、何事にも動じないのを信仰だと思っているようだが、実際には、人を無視しているだけのことが多く、無視して無感覚になることを欲しているだけです。シャローム氏において、顕著であります。無感覚で、反応しないことが信仰だと思っているので、だんだん、人間に対して心を配ることが出来なくなります。人の気持ちが分からなくなり感知できなくなる結果、共感は失せて、不機嫌と上機嫌だけの心になってゆきます。過ちに対して鈍感で、被害者意識において過敏になり、思うようにならないと短絡的に、強制力による削除などの行為を発動しやすくなります。
 
そして、訂正不能の信仰から、自分の不備や矛盾を認めることがなく、信仰の罪も認めなくなり、災いを、ひたすら、他者のせいにします。こうやって、彼らは、人間性を失い、温もりと潤いを失い、思慮と情感を失い、厚顔だけが目立つようになり、厚顔を隠蔽する浅はかな世辞しか言えなくなり、とぼけた骸骨のように滑稽になっているのに、自己矛盾に気づかず、悔いず、改めず、祈りは、やたら自分びいきの神に対する讃美となり、自分だけしかいない自己領域に神殿を捏造し偽装し、何を言われても、同じ言い分を繰り返すという断末魔となるのです。批判されても、何もしないし、できなくなっているところの、シャローム氏において、彼が、讃美すればするほど、語れば語るほど、あらゆる判断と選択において、顕著であります。
 
 
(2017年05月20日、同日一部修正)
 
胡坐(あぐら)
頷く(うなずく)
術(すべ)
滑稽(こっけい)
 
 
[[img(https://poem.blogmura.com/darkpoem/img/darkpoem88_31.gif)]]
[
https://poem.blogmura.com/darkpoem/ranking.html にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
 
[[img(https://philosophy.blogmura.com/thought/img/thought88_31.gif)]]
[
https://philosophy.blogmura.com/thought/ranking.html にほんブログ村 哲学・思想ブログ 思想へ(文字をクリック)]
 
[[img(https://philosophy.blogmura.com/christian/img/christian88_31.gif)]]
[
https://philosophy.blogmura.com/christian/ranking.html にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
 

この記事に

閉じる コメント(0)

コメント投稿

顔アイコン

顔アイコン・表示画像の選択

名前パスワードブログ
絵文字
×
  • オリジナル
  • SoftBank1
  • SoftBank2
  • SoftBank3
  • SoftBank4
  • docomo1
  • docomo2
  • au1
  • au2
  • au3
  • au4
投稿

開く トラックバック(0)


.


みんなの更新記事