「ウソの国―詩と宗教」戸田聡ブログ

自由にも不自由にも首を絞められそうになってる糞爺のブログ (偽サイトにご注意!)

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「罪と病」

 
  罪と病
 
 
私のHPから、3つ考えてみます。
 
 ユダ  (HPより)
 
私はここにみる
誰よりも激しく主を裏切り
そして誰よりも激しく悔いて
悔いて改めるすべを持たず
主の復活を知らないまま
赦されることを求めようもなく
自らを許さず
主に関わった様々な人々の中で
ただ一人自ら命を絶った男を
 
私はここに想う
主をユダヤの救い主と望んだがゆえに
イザヤに示された
茨の道を歩もうとされた主を
誰よりもよく知り、
激しく愛したがゆえに
誰よりも激しく憎んだ男を
 
 
ユダは、政治とか財力に関心があり、パリサイ人にはならなかったが、キリストには、イスラエルのローマからの解放を期待していたのではないか、と思うことがあります。そのために、ユダは、金を集めて、人々を掌握し、イスラエルのために戦い、その功績によって、高い地位に就くことを夢見ていたのだろうか、とも考えます。そういう方向でのみ情熱があり、能力もあったのでしょう。漁師のペテロや取税人のマタイなどが弟子の中にいることに不満があり、一方では、優越感を持っていたのかもしれません。
 
しかし、キリストは、ユダとは違う使命を持っていました。それは、政治的にイスラエルを救うのではなく、魂を救う路程でした。ユダは、激しく期待したゆえに、憎さ百倍で、裏切ったのかもしれません。キリストは、ユダの欲望を叶える道にはいなかったのです。
 
 
  枕する所  (HPより)
 
忘れてはいけない
ユダヤは散らされ
キリストを殺した民と蔑(さげす)まれたが
キリストはユダヤに生まれ
キリストの教えも
ユダヤから始まったことを
 
主は知っておられたのです
十字架の後も
人が罪を犯し続けることを
 
集まれば噛み合わず
散れば孤独で
また集まれば諍(いさか)い啀(いが)み合い
また散ればまた孤独で
愛しながら傷つける相手を
求めて止まない人の罪を
 
もううんざりして
この世に疲れたとき
御国を求めることが
死を求めることにならないために
 
忘れてはいけない
狐には穴があり
空の鳥には巣がある
 
人に枕する所があるために
神の子には枕する所がなかったのです
 
 
ユダは自殺し、はらわたが飛び出したとも書かれています。
キリストは、十字架にかかり、殺されました。そして復活したキリストによって、伝道の再出発は、使徒となった弟子たちと、パリサイ人であったが悔い改めて使徒となったパウロたちが担うことになります。
 
ユダは、キリストが自分の期待とは違う方向に進んでいることを知って裏切っただけではなく、その赦しを、キリストに願うことをも拒むことになったわけです。なぜ、ユダのような人が造られたのか、これは、神の秘密ですが、弟子となっても救われるとは限らない、ということを表しています。言い換えると、信仰者になっても、自我によって、救いを拒んだがゆえに、救われない、というより、自ら救いから離れてしまう人はありうるということです。
 
必要だったことは、弟子たちの言動を見ると、正しくキリストを信じることではなく、キリストを、主と仰ぐほどに無条件に愛せたかどうかだったのでしょう。それは、今の私たちにも言えることです。
 
ただ、キリストが直に教えてくれるわけではないので、私たちの中に、自分を高めたい、または、今の立場を守ろうとする保身、などの我欲がないことを基準にするしかないでしょう。
 
「しかないでしょう」としか言えないところに、決めつけは不可であり、修正可能であることこそが人間の本質として不可欠であり、それが神を恐れる敬虔であることを主張します。そして、何よりも大切なこととして、人が自らを修正する原動力は、教理ではなく、人間の温もりと潤いであり、感動と解放感をもって、人は成長という変化を受けて遂げていくのだろうと思います。
 
どんなにしっかり教理が頭にあっても、温もりと潤いがなければ、教条となって人は縛られ解放とは反対の方向に向かうだけです。教理が不足していても、温もりと潤いがあれば、そこには解放があり、弁えることもなすべきことも、いつでも弾むように歩みを進めることが出来るでしょう。人が受けて自らも養うべきは、教理や教条ではなく、温もりと潤いです。むしろ、信仰は、それゆえにあり、そのためにあり、人は不全であるにもかかわらず、原因と結果の両方であると言いたいのです。
 
悲しみを受け入れて共感できるのは、涙を知っている温かい命の息づかいです。息と涙、それが温もりと潤いです。生きて泣ける心です。
 
悲しみに共感できる悲しめる心こそは、私たちが望んで、なかなか保持できないでいる、愛であり、だから、打ち鳴らされて人を煩わせ駆り立て縛る喧しいシンバルではなく、しっかりしていなくても、息と涙のある人は、求めることを止めないでしょう。
 
キリストに対する愛に条件を付けていなかったペテロも、キリストを理解してはいなかったし、裏切りもしましたが、そののち、キリストに帰る道を選ぶことが出来たのは、ペテロが、自分の思い込みよりも、キリストへの愛を優先させるだけの敬虔を持っていたから、自殺ではなく、激しく泣くことで、自分を改めることが出来たのでしょう。
 
修正不能、訂正不能であることが、いかに、人間と信仰を損なうかを知ってほしいと思います。
修正可能は、悔い改めと反省を可能にするために不可欠な人間の本質です。
 
 
  罪と神の御業(みわざ)  (HPより、一部改)
 
病むことの苦しみは
病んだ者にしか分からない
 
病気は罪の結果であり
病人は罪人であり
近づく者さえ汚(けが)れた者とされた時代
一人の盲人について
「誰の罪ですか」と問う弟子にイエスは
「誰の罪でもない
ただ神の御業が現れるためである」と答えた
そのように公然と言うことが、ゆくゆく
どれほど危険な結果を招いていくか
百も承知で
 
負わされることの苦しみは
負わされた者にしか分からない
 
長い間、いわれもなく
負わされてきた「罪」が
「神の御業」に言い換えられたとき
そう公言して憚(はばか)らない人が
目の前にいることが
癒し・奇跡と言えるほどの
驚くべきことであったのだと思う
 
聖書はそのあと
盲人の目が見えるようになったと記している
あげれば忘れてしまいそうなくらい
同じような奇跡物語が多く記されている
奇跡が実際起こったのかどうか
私は知らない
どちらとも信じていない
疑いの中をさまよいながら私は思う
それでも使徒たちが伝えないではおれないほどに
驚くべき何かがその時々にあったのだ
それはきっと
肉体や物を揺さぶるよりはるかに強く
彼らの魂を揺さぶったのであろうと
 
 
超常の奇跡物語になると、話は大きく、また単純になります。しかし、何度も書いたように、人類の長い歴史の中で、その後、めったに起こらないから奇跡と言われるわけです。
 
超常ではない奇跡が、魂に起こる奇跡であります。これは、人間らしい感性があれば、理解できることです。そして、この奇跡だけが、人間が考えて、人間の糧となる奇跡なのです。超常奇跡は神の業、ゆえに、神の意志のみに任せられることです。超常奇跡ばかりを信仰として語る愚は避けるべきです。
 
キリストは、人間に対しては、魂を揺さぶるために来られました。やがて地上では目に見えない存在となることをご存知だったからでしょう。
 
地上での物や肉体の超常奇跡は、めったに起こらないのだから、やがて忘れ去られるか、おまじないのように語られるだけでしょう。
 
魂の奇跡は、人間が生きている限り、いつどこでも、人間に起こり、人間を生かす力となりうる奇跡なのです。
 
 
(2017年12月13日)
 
煩う(わずらう)
駆り立てる(かりたてる)
縛る(しばる)
喧しい(やかましい)
遂げる(とげる)
 
 
 
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♪猫はこたつでまるく・・♪


寒くなりましたね。

日向路、晴れ
11℃[+2]
0℃[-3]

佳き一日を。

2017/12/13(水) 午前 0:51 [ sekiyann ] 返信する

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私は、ずっと丸くなって引き籠ったままです・・(汗)

今日一日が佳き日でありますように。拝。

2017/12/13(水) 午前 1:06 st5402jp 返信する

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