「ウソの国―詩と宗教」戸田聡ブログ

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「整わない」

 
  整わない
 
 
神の意志と行為の、その地上での表れは、歴史が示しているように、人間にとって、整った話にはなりません。神のなさることは未だ納得などできない必然です。
 
整わないことを、体裁だけ整った話として語るなら、語るたびに、信仰は、さらに体裁だけになってゆくでしょう。神の栄光を語るだけで、現実から目をそらしてはいけません。
 
目をそらせば、信仰者たる人間そのものが体裁だけになって、内実が整わなくなるでしょう。離れてゆくのです。人間でないものが、人間でないものを語ることになるでしょう。
 
絶対の神がおられるという信仰は、ならば何故このような?・・といった疑問が、いつの時代も投げかけられてきました。その疑問への答えは、今はまだ、神の秘密という成り行きです。
 
程良く辻褄を合わせる、などということを考えてはいけません。信仰の辻褄を合わせて無感動に呑みこむことに、程良さなどありません。知らないことは知らないのです。
 
しかし、神がいない、というのが事実であるならば、何が整うのでしょう、何も変わりはしないのです。しかも、そこに新たな希望が生まれる可能性すらないのです。
 
信仰者は、無宗教や異教の人々と同じ感性と知性を保ちながら、考えてゆく必要があります。自分は神のしもべだから違う、という自己満足は何も解決しません。
 
それによって、信仰者は、無宗教や異教の人々と同じ土俵で、事実から考えることもできるのです。そういう立場を疎かにする者たちは、ひたすら魔法を待つ神経異常になります。
 
才能ではありません。ただ泣くべき時に、泣ける人であってください。共感してください。そんなときに、悟り顔で、うっすら笑っているような異常神経にならないでください。
 
整っていないことを認めることが、未知への可能性になります。想定したゴールから語るのではなく、今、整わない荒野に生きていることの自覚から語るべきです。
 
不変の信仰を地上で求めれば、忍耐ではなく、いわれなき正当化と短絡と合理化と、ときに詭弁によって、安穏を自分で捏造するようになるでしょう。
 
私たちは、揺さぶられるけれども、それゆえに活性を持っています。私たちは、それゆえ、嘘の言葉だけの予定調和を、活発な反発力と反省力によって否定します。
 
揺るがない信仰とは、大いに感じて揺さぶられながら忍耐し考える信仰です。その癒しと慰めは、祈りに答えて、キリストが与えてくださるでしょう。
 
整っているかどうかにかかわらず、キリストの愛がもたらし、私たちが受け取るのは、信仰の忍耐強さであり、悲しみゆえに生まれる希望が私たちの命のパンであります。
 
信仰は、成り行きの試練と恵みの、神と人の、導きと祈りの、双方向の現在進行形です。
 
 

 
その双方向が、自分の人生を、よかったと実感できるような納得のゆく方向へ必ず導いてくれるかと言えば、それは分かりません。神の御心には、人が納得がいかないこともあるのです。だから、信仰は、救われると分かるから信じるのではなく、キリストに縁付いた信仰者にとって、ただ、キリストが好きだから、という理由のみに収束してゆくことになるのです。
 
 
(2018年01月08日)
 
土俵(どひょう)
捏造(ねつぞう)
詭弁(きべん)
 
 
 
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〉揺るがない信仰とは、大いに感じて揺さぶられながら忍耐し考える信仰です。その癒しと慰めは、祈りに答えて、キリストが与えてくださるでしょう。

〉ただ、キリストが好きだから

そうですね。私もそう思います。
今朝もありがとうございます(^∇^)

2018/1/8(月) 午前 6:53 [ じょいふる ] 返信する

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コメントありがとうございます

2018/1/8(月) 午前 7:28 st5402jp 返信する

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