「ウソの国―詩と宗教」戸田聡ブログ

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「仲保者」

 
  仲保者
 
 
ちゅうほしゃ 【仲保者】 〔mediator〕 キリスト教で,神と人との間を仲裁・和解・媒介する者。 イエス-キリストをさす。( Weblio辞書より )
 
キリスト教と言えば、
キリスト教の国とか、カトリックとプロテスタントとか、日本のキリスト教の様々な教派と教団、といった集団や組織を考えるかもしれませんが、
キリスト信仰は、
キリスト・イエス御一方と人間一人との関係です。
 
キリストとの個人的関係がなければ、つながりは義理か掟であり、何かの組織かシンジケートの集まりみたいに思えて、信仰なんて、何の意味もないと思っています。
 
その個人的関係が、思い込みでないという根拠は、その個人的関係が、楽なだけではないということ、つまり、私を戒め、反省を促し、祈りへと導いている、ということです。そうでない場合は、自分信仰である可能性大です。
 
長い間、私にとって、人生そのものが、私とは相容れないものでした。祈りの場で、私は、思い切り、不謹慎に、ぼやいていたのです。そのとき、死と破滅につながりそうな絶対孤独から辛うじて逃れていたと思います。
 
祈りにおいて、すみません、おゆるしを、すみません、と言いながら、生きてゆけそうもない自分について、どうしようもない気持ちを、キリストあるいは神に向けていたのです。それは今も変わりません。・・何だか、私は、絶望体質なのでしょうか・・。
 
信仰は、命のパンと言われるけれど、私には、いつも必要な、無いと生きてゆけないところの、必須の、何とか効いてくれている精神安定剤かもしれません。
 
上のような信仰のあり方は勘違いもあるかもしれないが、私という人間は、建前だけの善い話など歯牙にも掛けたくなくて、一方、自分を助けてくれる何か、自分の助けになる何かには、必ず、しがみつくように出来ています。
 
信仰の祈りの場合、多くの場合、自分についての救いを求めます。助ける主体は、神に他なりませんが、神に直接話すための、こう言えばよい、という、口の利き方など私は知りません。
 
しかしながら、祈る相手は、神であり、キリストであり、神格になっています。勘違いでも思い込みでも、そのプロセスは、話せる相手、つまり人格と同様に話せる相手でありながら、かつ、神格でなければ意味がありません。
 
神格は、私などが交流できるような御方ではなく、全知全能はもっともっと誰よりも怖い御方だと言ってきました。しかし、その御方に気持ちを訴えないではおれないし、どんなに無礼でも、お世辞を言うよりはマシ、というより、神に対しての世辞は冒涜ですから、悲惨な気持ちでも本気ならば、飾らずに祈ります。
 
その執り成しを仲保者であるところの、キリスト、または、主イエスと呼んでいる御方に任せていることは言うまでもないことでしょう。私たちは、主イエス・キリストの御名を通して、神に祈っています。
 
 
  不信仰告白  ・・HPより
   (キリスト以外の神を知らない)
 
私は一本の髪の毛を
恐る恐る
火にかざしてみるのだ
 
 誰が神を
 神と名付けたか
 誰がやさしい父を呼ぶように
 神を呼んだか
 流された夥しい血を
 皿の上の相づちで受けながら
 誰が気安く赦される罪を認めたのか
 
私は生きるのに向かない
私は宗教に向かない
私は神の国に向かない
私は神を知らない
私は主に仕える水の泡である
 
 
私たちが祈るとき、その祈りの言葉は、髪の毛だけでなく全てを一瞬のうちに燃え尽かせる火のような御方に届いています。髪の毛は私自身です。神は全てを焼き尽くせる御方です。
 
血まみれの十字架のキリストの救いをいただくのに、うすっぺらな皿の上に盛った名前だけのような讃美の言葉を呟いて、頷いていてよいわけはないのですが・・
 
救いのパンくずでもいただくためには、サラダでもライスでもレトルトでも残飯でもゴミのような自分でも、これしかありません・・という祈りを心がけたいと思っています。
 
それを思うと身の竦む思いもします。
私たちは、御心に適わない無礼なことをいつもしているのです。
だからといって、
神を讃えるだけみたいな体(てい)のいい祈りなど
祈りの意味を失っているからクソ食らえなのです。
 
聖書において救われた人々は、相手がキリストだということをどれほど自覚していたかは分かりませんが、彼らは、言うべきことを、願いも、遠慮せずに、食い下がるように、本気でキリストに言いました。本気で求めることがあったからです。
 
慢心して自己中心の感謝と讃美を捧げていたのはパリサイ人でした。
 
人間は、何かに反応しています。他者に、外界に、感覚刺激に、自分の思いにさえ、反応しています。受けるだけということはありません。だから、信仰が自己満足だけになると、自己満足が自己満足に反応するしかなくなり、固定化し妄想化してゆくのでしょう。
 
神に対する自分自身の立場を心から弁えることが大切になります。
 
私は生きるのに向きません。私は宗教に向きません。私は神の国に向きません。私は神を知りません。私は主に仕える水の泡のような取るに足らない者です。主は、水の泡さえ、無にはせず、用いてくださることを信じています。仲保者なる主は、水の泡のような役に立たない人でさえ、無視せず、用いるところと救うところへ導いてくださると信じています。
 
主は、水の泡を、温めてくださると信じています。
 
 
(2018年01月09日)
 
相容れない(あいいれない)
夥しい(おびただしい)
呟く(つぶやく)
頷く(うなずく)
弁える(わきまえる)
 
 
 
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