「ウソの国―詩と宗教」戸田聡ブログ

自由にも不自由にも首を絞められそうになってる糞爺のブログ (偽サイトにご注意!)

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  社交と信仰そして良心
 
 
私は、社交の丁寧さと同じような気持ちで、信徒同士が交わったり、説教者と交わったり、さらに、祈りにおいても、神と、同じように交わったりする傾向を憂慮している。
 
それは何故かというと、信仰の言葉と違って、社交における礼儀は、付き合い上の必要から、細かいところはあるが、言語化そして定式化しやすいからだ。
 
つまり、緩い戒律のようなものとして、覚えやすく、実行しやすい。礼儀作法、エチケット、誉めること、傷つけないこと、など、社交の礼儀は、分かりやすい。
 
しかしながら、そのようなマナーと同様に、信仰を考えることが出来るだろうか。信仰は、言葉にしやすく分かりやすいだろうか、定式化しやすいだろうか、断じて、否である。
 
実際には、信仰者同士でも、その社交におけるマナーを守ることで、柔和で謙虚だと思っていることが、結構、多いような気がしているから、憂慮するのである。
 
教会でも、人には柔和に接している、また、温かい雰囲気を大事にしている、他者を傷つけないように気遣いをしている、何事も謙虚に・・、といったことに努めて、信仰の教えを守っている気になることは禁物だ。
 
社交の柔和と、信仰の柔和は違う。社交の謙虚と、信仰の謙虚つまり敬虔は違う。信仰の柔和も敬虔も、社交でOKとされるところを遥かに超えて、神に向かっているからだ。
 
義人はいないという聖句も、誓うなという教えも、「見える」と言い張るところに罪があることも、主イエスの御名を通して神に祈ることも、皆、私たちが、罪を赦されて不義から義とされるうえで思い上がることのないように用意されている。
 
社交において、大事なことは互いに気分を害さないことだが、信仰においては、神の前に、気分の良さを目的とすること自体が傲慢である。信仰が社交ならば、御子は死ぬ必要はなかったはず。
 
神は、社交以上の深いものを、人に与え、かつ、人に求めておられる。それゆえ、御子は、私たちの罪のために、人としての命を捨てなければならなかったのである。したがって、私たちが救われるために必要な良心は、社交の良心を超えるものである。
 
また一方で、私たちが、与えられた良心において思うところだけではなく、さらにより深い人道や道徳の延長上に信仰はあるのであって、人道とは別に、または、道徳からは超越的に、それらを無視してよいようなところに、信仰があるのではない。
 
そのことは、信仰が良心においても好ましい温もりを与えることによって示されている。そのことを無視する者は、信仰に熱心なつもりで、人間の共感性を失っている場合がある。
 
神秘のみを追い求め思い込む信仰?は良心を失う。神秘は、神の業である。人が神の業を求めることは、身の程知らずであり、その結果、逆に、人間性を損なうだろう。
 
良心は、人間の弁えであり、神がそれを助けることはあっても、捨ててよいと命じることはない。救いが人の温もりと潤いに響くのは、神が、人間の本来の良心を認めておられるからだろう。
 
信仰の良心は、深く、温かく、潤いに満ちていて、それは、またしても、神と人の仲保者であるキリストがお手本である。神に対する人間性を生かし、さらに成長させるための良心である。
 
キリストが、アダムやモーセやダビデのようではなかったことは、すなわち、地上の王とならず、また、その子孫を残さなかったのは、キリストが、死者の列に加わらず、今も生きて、神の計画を担っていることを表している。それが復活の根拠となっている。
 
どこまでも偉大な神が遣わして、どこまでも人に身近な御子であるキリストが、その御言葉によって語りかけていることが、人間を見捨てていない証であり、私たちが、人間の良心を捨てず、かつ社交の良心を超えて、信仰の良心に生きるべき人間であることの根拠であり、キリストにあって、神秘を求めるのではなく、人間の良心を求めて祈るべき根拠である。
 
私たちは、人間の心を捨てて神秘を求める信仰者?になるのではない。私たちは、自らの人間の良心を生かすために、キリストの鋭い洞察と溢れる共感に巡り合い、信仰の良心に成長するところを、主に見ていただくために生きている。
 
 
  感謝と呪い  (HPより再録)
 
人が神様に感謝するとき
多くの場合
その賛美は的を外れており
現状の幸福か
多幸的な気分の先に向かっている
 
人が神様を呪うとき
たとえ恐れのためにあわてて
神を悪魔と呼び変えたとしても
多くの場合
その怒りは不幸なことに
ほぼ正確に神様に向かっている
 
しかし魂の奇跡のように
ごくまれに
人は神様に本気で
本当に感謝することがある
 
 
本当に神に従っているかどうかを、神が直接教えてくれるわけではない地上に生きて、人間である私たちは、思い込みが多かれ少なかれあるだろう。そのことを含めて、私たちは、しばしば失敗し、神をけがし、神を呪っているに等しいことをしているが、それにもかかわらず、私たちは、神の民として導かれて、少なくとも一度は、絶対孤独からの解放として、温かく涼しい癒しの泉を経験している。それは、教条の成就として受け取ったのではなく、人間の良心の喜びとして受け取っている。
 
そのことが、神が人間の良心を邪魔とは思っておられないことを表している。その良心を神秘主義や教条主義によって無にしてしまうことのないように、むしろ、その良心を生かすために、神は、御言葉によって、キリストの悲しみと愛を、絶え間なく、注いでくださっているのだろう。気づける人間でありたいと切に思う。
 
 
(2018年01月10日)
 
 
 
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超おはようございます

仕事始めで、材料手配、現場準備。新年会でした。

先ほどご帰還でブログ時間なく、緊急アップデシタ。

詳細にチェックできておりません

1;45〜4;00
夢千代日記
最終回までです

日向路、曇後晴

10℃[-3]
4℃[-5]

佳き一日を。

2018/1/10(水) 午前 1:11 [ sekiyann ] 返信する

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やっぱ働き者・・遅くまでお疲れ様です。

佳き一日を過ごされますように。拝。

2018/1/10(水) 午前 1:19 [ st5402jp ] 返信する

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