「ウソの国―詩と宗教」戸田聡ブログ

自由にも不自由にも首を絞められそうになってる糞爺のブログ (偽サイトにご注意!)

全体表示

[ リスト ]

「裏切り」

今回は、かなり厳しい話になります。
 
 
  裏切り
 
 
信仰は、信じる者が変質することによって、人の罪深さを浮き彫りにするとともに、妄想化によって、人の身勝手さや汚さを際立たせる、という皮肉な現象を示すことがある。
 
何故なら、信仰には、正直さが、少なくとも神の前で必要であり、そういう節操があるゆえに、人の前でも、一般的な約束違反の裏切りより、信仰の裏切りは、目立ってしまうからだ。
 
裏切った信仰者は、自分が救いに相応しくなくなったことを必死で隠そうとする。そして、言葉で、行いで、さらに信仰者とは思えない白々しい偽善と詭弁の所業に至るのである。
 
そのことによって、裏切った信仰は、隠蔽と偽装の底なし沼に堕ちて、背きの偽善の亡者のとなるのだろう。その段階では、人が見ても、裏切りが発覚することがある。
 
そういう者に対しては、回心、すなわち、改めて悔い改めをするように勧める以外にない。また、他者が巻き込まれないように警鐘を鳴らすべきである。
 
裏切っても神の愛は変わらない、という言い訳をする者がいるが、神の愛は、少しも変わることなく回心を待つのであって、裏切り者への愛はその域を出ないということである。
 
つまり、神は人を裏切ったりしない。しかし、人は神をしばしば裏切るので、そのたびに、人には、悔い改めの機会が、しばしば必要になるということである。
 
誰かが裏切ったと、背教者だと言って、混乱を招く場合も考えなければならない。その場合、そういうことを吹聴する者の目的は、相手を貶めるか、自らの裏切りを隠すためだろう。
 
根拠を聞きただす必要があるのだが、キリスト者は批判禁忌の不文律に染まっていて、人の裏切りに、指摘する勇気のない場合は思いやるべきとしても、無頓着である場合も多い。
 
神は、人が裏切っても、驚くべき忍耐によって、回心を待っておられる。さらに裏切ると、裁きが待つことになるが、それでも、生きている限り、悔い改めの機会が失われることはない。
 
つまり、神は試練を与えるが、神が見捨てて裏切りが進むことはない。救われない裏切りは、裏切る人の背きの単方向で促進され自ら破局を招いてゆくのである。
 
最初から信じていなくて、自分を高めるために熱心な信仰態度を見せかける偽善者に対しても、神は、回心を待って揺らぐことはない。
 
ペテロはキリストを裏切ったけれども、パウロはキリストに背いていたけれども、どちらもユダのように絶望から自ら命を終わらせることはせず、悔い改めて使徒となった。(ユダはキリストを売ったという罪悪感の重さに耐えられなかったのだろうか、分からない・・。)
 
 
裏切りの兆候(≒偽善の兆候でもある):
1.やたら神を讃美する。何を言っても返ってくるのは神への讃美の言葉が大半になる。
2.反対意見や批判を、手段を選ばず、削除し隠蔽し、無かったことにしようとする。
3.反対者や批判者を、憎むだけになり、思考停止に陥り、道理や節操を考えなくなる。
4.批判者を侮辱して、驚き呆れた批判者が去るように仕向ける。
5.裏切りが続くと、信仰の節操や道理といったものが分からなくなる。
6.企みによる言動が、信仰による言動を上回るようになる。
7.発言を慇懃無礼で誤魔化しても、見えないところでは行動が攻撃性だけになる。
8.一貫して、悔い改めず、反省をしない。他者のせいにしてボロクソに言う。
9・悔い改めて反省したように見せかけることがある。他の言動で確認するしかない。
10.1〜9を、処世の生業として続けている場合がある。
 
 
人はしばしば神を裏切る。そのことで主は悲しまれるけれども、
全知全能永遠不変の神はどこまでも忍耐強い愛と摂理によって回心を待っておられる。
 

 
主はキリスト、神は神、というつもりで書いているが、キリストと書かずに、主と書いているのは、主と書くときの三位一体の合一感を欲しているのかもしれない。
 
キリストは神か人かについては、議論があるのかもしれないが、神を恐れ、キリストを慕う信仰においては、救い主として信じた御方が神であっても人であっても、もはや、私にとって、神の子、救い主、キリスト、主イエスであることに何ら変わりはないのである。
 
何故なら、私たち人間に分かることは、例えば、素晴らしい、非凡である、佳きものを与えてくれた、といった範囲に限られており、はっきり言って、神かどうかなど、全知全能かどうかなど、全知全能ではない人間には分かるはずもないからだ。
 
神だから信じるのではない。自分の人生に常に不可欠だと思わずにはいられないから、ずっといてほしいから、御縁のように、次の機会ではなく、その時、信じる、と告白するのである。
 
ここで、気づいてほしいことは、信仰は、恋愛や結婚に似たところがあり、神の御心なのか、よく分からないが、縁付くという言い方を、私は使っている。ゆえに、そのあり方は、エロスの情熱に近いのである。
 
 
(2018年01月11日)
 
蔽う(おおう)
慇懃無礼(いんぎんぶれい)
誤魔化す(ごまかす)
貶める(おとしめる)
生業(なりわい)
 
 
 
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]  
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 

この記事に

閉じる コメント(2)

こういう人たちは信仰が自分と神との関係によって成立しているのではなく、人に見せるためのもの、示すためのものになっているということなんですかね。神を自慢するための道具にしてしまっているということかもしれないですね。
いつもありがとうございます。

2018/1/11(木) 午前 6:56 [ よなたん ] 返信する

顔アイコン

そういう人もいるでしょうし、ひょっとしたら、これこそ信仰だと思っているのかもしれません。
例えば、どんな罪も赦される、神は愛して止まず、見捨てることがない、などという言葉は、自己正当化と自己中心にもってこいだという表面を持っています。それで、曲解して、人から責められるのが嫌で嫌でたまらない者は、罪悪感を抱かないために、キリスト教を信じたことにして利用しているか、あるいは、キリスト教をそういう宗教だと信じ込んでいる可能性さえあるでしょう。

2018/1/11(木) 午前 8:09 st5402jp 返信する

コメント投稿

顔アイコン

顔アイコン・表示画像の選択

名前パスワードブログ
絵文字
×
  • オリジナル
  • SoftBank1
  • SoftBank2
  • SoftBank3
  • SoftBank4
  • docomo1
  • docomo2
  • au1
  • au2
  • au3
  • au4
投稿

開く トラックバック(0)


.


みんなの更新記事