「ウソの国―詩と宗教」戸田聡ブログ

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「疑問と危機」

 
  疑問と危機
 
 
信仰者でも、信仰について、疑問と危機があります。
 
1. 神はいないのではないか。
 
まず、信仰者が立つべきところは、
今頃そんなことを言ってどうする、ということではありません。
 
この地上に見えなくても、この地上の背後でも、今は隠れていても、
結局、どこにも神がいない世界に生きられるか、と自らに問うことになります。
 
信仰によって癒され生かされた体験を持っている人は、
神のいない世界で生きられない自分を再確認することで立ち直れるでしょう。
 
※ (訂正箇所説明)
「神がいない世界に生きられるか、ということです。」と書いていました。これは問いであり、私としては、信仰者だから当たり前のこととしての否定を省略してしまいましたが、読み直してみると、神のいない世界で生きるのが信仰だ、と受け取られかねないと思って上のように訂正します。
この地上が「神のいない世界」に見えてしまうことも、ときにはあるというのが、この記事を書いたモチーフですが、信仰者は、その世界から、見えない神を信じているのです。
※ (訂正箇所説明:終わり)

 
神がいて、いると言われて、いろんな神のうち、
キリスト教の神を信じた、ということではありません。
 
信仰の始まりは、人が神を必要としたのです。地上を生きるために神を必要としたのです。
 
神が召命した、という言い方をしますが、まず最初に、このままでは、うんざりしてしまう世界を感じてしまったところの、うんざりしてしまった自分がいるのです。
 
つまり、現象としては、あくまで、救いを求めないではおれなかった自分が先にいるのです。永遠の昔から未来まで神はおられる、というのは、人にとって、後付けで考えることです。
 
2. 神は自分を救わないのではないか。
 
こちらのほうが深刻でしょう。
 
神は、ちゃんと守って、救ってくださいますよ、ではないのです。
 
神を信じると告白しても、救われない人もいると思います。その告白の言葉よりも、その心が真摯であったかどうかによるでしょう。最初から、自己中心の勘違いで信仰を考えている人というのはいるだろうと思います。
 
隠し事など無く、無条件に、真摯に、本気で、信仰告白をして、祈ってきた人は、救われると信じる以外にない、というより、神以外に、頼る相手のいない人です。そういう人は、人生の中で、今さら、神を離れて・・という選択肢はないのです。
 
選択肢のある人、または、あると思っている人は、しばらく、放蕩しても、彷徨っても、いいかもしれない、と思っています。その期間を通して修正可能の心を持っておれば、戻ってくることも出来るのが信仰です。
 
仕方なく習慣のように、教会に通い礼拝を続けて、何かの時に目覚めることもあるでしょうけれど、青少年期のいずれかで、逆らう時期を経て、戻ってきた信仰は、他になかったという思いの強さの分、強いと思います。
 
あとは、1.と同じように、他にあるかないかが、生き方を決めてゆくのでしょう。洗礼を受けたから、導きがあって、聖霊の働きがあって、何も心配ない、というのは、教条信仰です。
 
 
1.2.を通して、必要としているかどうか、他に寄る辺があるかどうか、ということが、人間の側において、疑問や危機があってもなくても、学んで判断してゆくべきことのように思います。
 
つまり、キリスト信仰の場合、結局、キリストのもとを離れて生きていけるかどうかによるでしょうし、私たちは、いつも、それを問われ続けているのだ、ということです。
 
信仰は、本気で信仰を望む人にとってのみ、生きてくるのです。
 
本当に心から、キリストを必要としているのなら、祈るときに、嘘を吐くことをしない、飾ることもしない、つまり、正直な祈りしか捧げるものがない、ということです。
 
 
(2018年01月30日、同日一部修正、さらに修正箇所あり)
 
 
 
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