「ウソの国―詩と宗教」戸田聡ブログ

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「気安さ」

 
  気安さ
 
 
自然を見て感動するのは、人の感性の自由であり、安息を求める宗教人には、よくある話になっているようです。でも自然の美をどう喩えても、美しいと感じたのは自分であります。
 
自然の美しさを見ることを、神を見ることと、抵抗もなく言ってしまう癖をつけると、神と、自然の美しさを、同じような気持ちで見る気安さにつながるかもしれません。
 
自然は神の創造物だから、と言うなら、創造した神の心が自然を見て分かるのか、ということになるでしょう。分かる、と言えば、神秘に対する冒涜でしょう。
 
神の創造物である自然はこんなにも美しいのは、ここに神がおられるからだ、という信仰者の感動は、美しいものを神に喩える讃美を超えて、時宜に適っていない場合があります。
 
その気安さは、きれいなものを見れば、神を見た、と言いだしそうな可能性があります。さらには、本当に見るべきものを見過ごす可能性や、悪を見分けられなくなる可能性でもあります。
 
神への讃美としても、神の名をみだりに唱えてはいけない、という弁えを持って見るべきです。
下手をすると、自然の厳しさを見逃す危険につながるかもしれません。
 
聖書において、神はどう語られているか、と言えば、火、雷、嵐、などの強烈な自然現象をもってしても表せない御方です。それらは、神が使うものであって、神ではないからです。
 
迂闊に、見た、知った、分かった、と言ってはいけない御方なのです。自然を見て美しいと感動するのは人の自由ですが、信仰者にとって、神は、美の代名詞ではありません。
 
生きている間、人間は、真理には立てない、また、神を見ることはない。立とうとすることは、さらに、立ったと思うことは、恐れを知らぬ怖いことなのです。
 
この世に生きて、何らかの悲しみを抱いている人は、多くの場合、気安く讃美するような、言葉だけ肯定的な讃美の美辞麗句には、反発を感じるものです。
 
また、宗教的陶酔に酔っているような多幸的気分で天国を夢見ているような微笑も、常在崖っぷちの信仰の場合を除いては、強引な気分の偏りを作るだけの現実逃避に過ぎません。
 
それらが、キリスト教嫌いを作っているのは教会つまり宗教だと、私が前に言ったことの根拠になっています。苦悩は、宗教の言葉だけによる肯定で癒やされることはありません。
 
もしそれらで、否定が肯定に変わるのであったなら、肯定も言葉だけか、感傷か、思い込みを強いられているか、あるいは、本当の苦悩ではない場合、・・であろうと思います。
 
癒しは、大方、人間同士と、人間と神との秘密の対話、即ち、祈りによって、もたらされるものであって、悲しみを、強引に、喜びです、と言い換えて解決することはないのです。
 
無理に、喜ばなければ、と思い込んでいると、むしろ、葛藤となって、心の傷という病因を抱えこむことにもなりかねないと思います。
 
裸の本音の祈りによって、気持ちを打ち明けて発散することが、自分をまっすぐ見ることにつながり、どう感じ、どう考え、どうしたいか、ということと向き合うことになるでしょう。
 
祈りは、唯一の手段として、人から神への音信であり、また同時に、内省の機会でもあります。
 
そこから先、神がどう導くかは神秘ですが、人間が受け取るのは、心の解放であり、心に響くものであって、それゆえに癒しとか慰めとか言われるものなのです。
 
時に、それは、十分に泣くことであるかもしれませんし、為すべきことが心に浮かぶ気づきかもしれませんが、共感できないような突然の摩訶不思議な心変わりの魔法ではありません。
 
ごまかしではない生き方を、信仰において求めるとき、信仰を他のものに置き換えることは出来ません。心の偏向や偽善を避けるためにも、一途に正直な祈りを心がけるべきでしょう。
 
 
(2018年02月02日、同日一部修正)
このテーマは、改めて書く必要があるかもしれません・・
 
冒涜(ぼうとく)
迂闊(うかつ)
 
 
 
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