「ウソの国―詩と宗教」戸田聡ブログ

自由にも不自由にも首を絞められそうになってる糞爺のブログ (偽サイトにご注意!)

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「この世の神?」

 
  この世の神?
 
 
 引用ブログタイトル:ダビデの日記β
 最近、聖書の解釈として参考にしているサイトから引用します。
 このサイトの批判ではありません。
 記事タイトル:サタンはアダムから地上の支配権をだまし取ったの?
 
https://blogs.yahoo.co.jp/psalm8934/33424160.html
 
 
まず「ダビデの日記β」から引用します。
 

キリスト教界には、サタンがアダムから地球の支配権をだまし取ったという教えがあります。
以下はその事例ですが、この教えは正しいのでしょうか?
 
1.神はアダムに金、銀、動物を与え、アダムにその支配権を与えました。(創世記1:28)
2.アダムが最大の違反を犯し、サタンにその支配権を渡してしまったので、サタンがこの世の神になりました。(2コリント4:4)
引用元:ゲヤス・ローレンス・ミニストリーズ
http://www.gaiuslawrence.com/j/resources/victory/victory3-9.html
 
アダムが造られたとき、彼は地球を支配する立場に置かれた。しかし、誘惑に屈したことで、彼はサタンの支配下に置かれ、彼が持っていた支配権は征服者に移った。こうしてサタンは『この世の神』になった。彼は、アダムが当初与えられた地球に対する支配権を奪った。…
引用元:緑のオリーブ日記
https://ameblo.jp/sawako35/entry-12180286847.html

 
引用中にある2つのサイトに対して、異論を述べているのが「ダビデの日記β」の psa*m8*3*さん(以後、psさん)の記事です。psさんは、聖書の他の箇所を引用して、次のように結論しています。
 

①神はアダムに地上の支配権を丸投げしたわけではない
(神は支配権を手放したのではなく、アダムに委ねただけ)
②それゆえサタンは、地上の支配権をアダムから奪ったわけではない
(支配権は神が持ちつづけていたので、サタンは奪えなかった)

 
ぜひ、参照してくださいませ。また、

サタンがこの世の神であるとはどいういうことなのでしょうか(コリント人への手紙 第二 4:4)
https://www.gotquestions.org/Japanese/Japanese-satan-god-world.html

にも、適切と思われる解釈が書かれています。
 
聖書の拝読も解釈も甚だ不十分は私は、最初、1と2は聖句だろうと思ってしまいましたが、2つのサイトの解釈と教え?だったようです(汗)。2つの聖句は次の通り
 
聖句A
(旧約聖書:創世記1:28)
神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。
 
聖句B
(新約聖書:2コリント4:4)
彼らの場合、この世の神が不信の者たちの思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光の福音の輝きを、見えなくしているのである。
 
さて、私はキリスト者のつもりですが、詳細な解釈の検討をするだけの知識がありません。私は、何をどう信じたのか、神と人はどう違うか、信仰者はどこまで知りうるか、信仰者は人として何を大事にするべきか、ということばかりを考えてきました。
 
神を、愛の神、そして全知全能と信じたのであれば、人は全知全能ではないのだから、人が全支配権を与えられたりはしないと考えるべきでしょう。聖句Aは、神が人に、自分の意志をもって行動することを認めた、ということだろうと思います。
 
2に「アダムが最大の違反を犯し、サタンにその支配権を渡してしまったので、サタンがこの世の神になりました」とありますが、どういう神を信じたのでしょう。サタンに騙される人がいたら、それを黙って見ているしかできない神でしょうか、否です。聖書の神は、いつでも、すぐに救って罪を犯さないようにするような守り神ではない、ということでしょう。
 
サタンがこの世の神になった、というのは、あまりにも短絡的な解釈だと思います。単純に全か無かで理解しないと気の済まない心性を感じます。神は、そのような安易な解釈で語れるような御方ではありません。
 
したがって、聖句Bの「この世の神」とは、支配の引き渡しなどという問題ではなく、私としては、この世の欲望を囁きかけて人を誘惑するところの悪魔を敵視するがゆえに、暗喩として、また、揶揄的な表現として、まるで「この世の神」のようになってしまっているサタン、という意味でしか受け取れません。
 
もし、サタンが支配しているなら、預言者たちは、悪魔の意志で、預言を語ったのでしょうか、ヨブは悪魔に勘弁してもらったのでしょうか、ダビデは悪魔の手先だったのでしょうか、キリストの生誕は悪魔に見守られていたのでしょうか、断じて、否であります。
 
神の計画が、今の人間の思考で間尺に合わないからと言って、旧約と新約の聖書という大河を流れている救いの御心を、人が決め付けてしまってはいけません。神の計画は神の秘密、即ち、神秘であります。
 
恐らく、1,2、のような解釈は、旧約の時代には罪に塗れて駄目だったが、キリストによって救いが成就したから、キリスト以降は、神の支配が取り戻された、という方向に持っていきたいのではないかと思います。
 
とんでもないことです。新約の時代の約二千年も、人が、大方、罪に塗れていることは歴史が証明しています。罪という意味では変わりはないと見るべきでしょう。解釈は、そこを認めることからしか生まれて来ないと思います。
 
そこから、神がどうこうではなく、人が信仰をどう考えるべきかが生まれてきます。
 
聖句Bによって、逆に、「キリストの栄光の福音の輝きを、見えなくしている」と言われることのないようにしてほしいです。
 
人に起こっている現象を疎かにして、自分の思いで、よい方向に強引に持ってゆこうとするのは、現実を見ず、聖書の言葉だけに執着して、教条しか見ていない人のやることだと思います。
 
神に、愛と救いの意志があると信じても、その具体的な計画や導く経過を人が決めつけてはいけません。私たちの感性と思考の手に負えるのは、あくまで、人の世界だけであります。
 
神の絶対性に対して、人そして人の信仰の、非絶対性つまり相対性を弁えて、決めつけの訂正不能ではなく、修正による成長可能な意志と思考と感性をもって、語り続けることが必要です。
 
何度も言ってきたことですが、私たちは、神と神の奇跡の仕組みを探ることよりも、人の世界を見るべきであり、新約においては、キリストが人間に対する鋭い洞察力と優れた共感性をもって関わった人々の人間性を見るべきであります。そこにのみ、私たちに理解可能な、神の救いの意志は表れていると思います。
 
新約において、新しいのは、すべての人に、あらゆる罪について、祈りと告白による悔い改めの道が、キリストによって与えられたという福音です。
 
 
(2018年02月04日、日付を間違えた、いや・・?)
 
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