「ウソの国―詩と宗教」戸田聡ブログ

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「不信仰の弁え」

 
  不信仰の弁え
 
 
信仰が愛だと言われるのは、
神が自分を救うから信じる、というのが信仰ではないからだ。
契約の教理だけでは、聖書は書物のままで、超常趣味が飾るだけになる。
 
信仰は、契約書を見て契約するのではない。
契約は、神の愛によるのであり、信仰は取引ではない。
したがって、契約が先にあるのではない。
理屈ではなく、
縁のような絆のような愛が、
さらに先行している。
 
 
(旧約聖書:新改訳)
イザヤ書43:4 
わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。
 
神は自分を愛する、とか、神は必ず自分を救う、とか、神は自分を見捨てない、といった、救いの確信の言葉を繰り返す者は、繰り返し、自分を救う、という、神の保証を求めている。
 
神の自分への愛を強調する向きは、信仰の疑問に立ち向かうのではなく、信仰の疑問から目をそらそうとしているように思えてならない。
 
何事があっても、神は自分を救う、自分が何をしても、神は自分を救う、と繰り返すのは、身勝手な思い込みか、自己中心の被愛妄想か、的外れの罪か、強迫的確認行為に思える。
 
まるで、それだけ不安であることを示しているようだ。
 
 
(旧約聖書:新改訳)
イザヤ書43:4 
わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。
 
確信するべきことは、神がいつも自分を愛する、ということではない。神は、人を、神の基準で救うのであって、人の個人の基準に合わせて保証したりはしない。
 
神は人類をすべて救ってきたか、歴史は否と答える。信仰者は特別に救われてきたか、これも歴史は否と答えるだろう。神は、人には分からないことを、ときに、なさるのだ。
 
神の救いの基準を人が知ることは出来ない。人は考えて、いかなる偽りも通用しない御方に、正直に祈ることを覚えるしかない。何があっても自分の救いを確信するのが信仰、ではなさそうだ。
 
確認し確信するべきことは、
一生の頼みとして同伴を願うのは、
キリスト以外にないということである。
 
なぜ、他にないのに、神の愛と救いを確認し思い込もうとするのか。
なぜ、救いの聖句を繰り返し確認しないと気が済まないのか。
なぜ、神の基準を知らないのに、自分の基準から見て神の救いを信じようとするのか。
なぜ、無条件に、自分の基準を見ないで信じようとしないのか。
 
キリストの愛に縁付いた者は、キリスト以外に囚われる生き方よりも、キリストを選んだのである。欲に仕えることではなく、神の愛に仕えることを選んだのである。
 
欲を全部捨てるわけではない。欲を完全に捨てるなどできはしない。
人類がみな欲を捨てたら、人類は滅びる。
 
仕える、ということは、誰を主と仰ぐか、ということだ。
 
あるとき、欲に従っても、いつまでも従いはしない、ということだ。何故なら、キリスト者は、悔い改めの祈りを、務めとしているから。
 
悔い改めは、修正と成長を意味している。
 
讃美だけでは、悔い改めにならない。修正にも成長にもならない。
 
それでも、救いを信じるからと、同じ讃美を繰り返すのは、いつも保証書を見ていないと信じられない者のようだ。言えばその通りに救われるという保証は、神の奇跡でも魔法でもない。
 
自分の信仰を省みれば、自分が信仰に宛がった言葉のあやふやさを知るべきである。いつのまにか、見捨てないで、見捨てないで、ちゃんと救ってくれますよね、聖書に書いてあるんだから、讃美したんだからと、未練が問題になる信仰でもないのに、なぜ、神に対して繰り返し念を押すような、おぞましい様態になろうとするのか。もっと大事なことがある。
 
自分の基準を捨てて、神の基準に任せることが信仰である。ゆえに、信仰は、救いの奇跡を、いつも分かるような保証を、見ないで信じることである。少なくとも現代は、キリストの目に見える奇跡が起こることを期待して安らげる時代ではない。
 
目に見えない御方による救いを、手に取るように確認しようとしても無駄である。心に映って見えてくるのは、人の欲望の空しさと、人の信仰の弱さと悲しみだけだろう。
 
自分を思えば救いに値せず、裁かれて当然であるのに、この地上では一縷の希望でしかないように見られている神であるのに、その神の憐れみの可能性のほうに、何ゆえ、神を仰ぎ、神に仕えることを、自分は選んだのか。
 
キリストの愛に反応し、絆された以上、他にないからだ。
そのことだけは、変わりようがないからだ。
 
少なくとも自分にとって
絶対孤独から解放してくれる救いはキリストによる以外にはないからだ。
それは、変わりようがないからだ。
絶対孤独から解放されず、絶対自閉の中で、
恐怖に震えるのも怨念を燃やして焼き切れるのも嫌だからだ。
 
 
だから、言ってしまえば、信仰告白より、不信仰告白をしたほうがよい。
 
信仰告白は、何度も繰り返すたびに、嘘っぽくなるもので、強迫的になりやすく、また、自己顕示欲に近い信仰顕示欲や自己憐憫や自己満足になりやすい。
 
不信仰告白は、信仰が無ければしないことだ。反信仰や背教とは違う。
 
実際、信仰者は、大方、不信仰なのだから、不信仰告白は、信仰告白よりも正直に近い。
言葉で整えて信仰告白や讃美のつもりでも、神は、背教や反信仰を見逃さないのと同様に、信仰も不信仰も見逃すことはない。神を恐れるならば信仰だけでなく不信仰も告白するべきである。
信仰の本当の正直な告白となるのは、人間にとっては、不信仰告白のほうである。
私たちは、それほど、低く、反逆しやすいのである。
 
 
(2018年02月06日、同日一部修正)
 
縁(えにし、えん)
絆(きずな)、絆す(ほだす)
仰ぐ(あおぐ)
弁え(わきまえ)
仰ぐ(あおぐ)
絆す(ほだす)
 
 
 
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おはようございます


1日が辛い時間配分です。

ご無礼、もう少し
お許しください

立春寒波

一日中、雑巾がけ・・
バケツ水

冷たいです・・


日向路、晴れ
7℃[0]
-2℃[-1]

佳き一日を

2018/2/6(火) 午前 5:04 [ sekiyann ] 返信する

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なんか、冷たそうな寒そうな、辛そうな感じが伝わってくるんですけど、それ、仕事なんでしょうか・・

お体を大切に、ご自愛くださいませ。
佳き一日を過ごされますように、癒しと平安がありますように。拝。

2018/2/6(火) 午前 8:31 st5402jp 返信する

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