「ウソの国―詩と宗教」戸田聡ブログ

自由にも不自由にも首を絞められそうになってる糞爺のブログ (偽サイトにご注意!)

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「と思う」

 
  と思う
 
 
人間が考えて書いた文章の、特に当為(「べき」の付くこと)を表す文には、書いてなくても「と思う」が付いています。人間が、こうあるべき、と考えたことだからです。
 
しかし、文章を書くときに、いちいち「と思う」を書いたのでは、しつこくて見苦しい文章になってしまうので、「と思う」と書くところと、書かないところがあります。
 
言いたいと思う程度の強さによって、文の語尾を変えて表しています。「という気がします」「かもしれない」「と思う」「としか思えない」「断じて・・である」等々。
 
したがって、断定表現が必ずしも断定とは限らず、強く思っているに過ぎないことがあります。
 
「断じて」と書く場合は、基本的な合意がない人に向かって、怒鳴りたいときです。怒鳴りたいときです。あまりにひどい、とんでもない、何を言っているんだ、という類の反発です。反省することがあれば後で考える、という姿勢なんでしょう・・(嘆息)。
 
信仰者は、敬虔を丁寧と勘違いしている人が多くて、間違っていると思っても、なかなか、はっきりしたことを言いません。そのように教えられてもいるのでしょう。
 
そういう姿勢の信徒が多いと、好きなように妄想的な信仰観を作って人に広めようとする者が出てきます。そういう者は、「と思う」を自覚せず、特に信仰の記事において、決めつけの断定で書いてあることは多いです。しかも、その根拠を示せないときに、神の啓示や聖霊を持ち出して言い張ってくるのです。
 
決めつけの強さは、断定表現を否定された時の反応に表れてきます。否定の文章を読まないようにして批判を無視して自分の結論を繰り返し書く、などというのは決めつけている証拠です。
 
そういうことをする人は、少なくともそのとき、決めつけと無反省によって訂正不能に陥っています。そしてまた、平気で、神聖が根拠だと言い出すのです。
 
信仰は、神と人の関係です。神については強く言えなくても、人については言うべきことがたくさんあって不思議はないのです。つまり、信仰をどう受け取るかということです。
 
神について強く断定的に言って悔いることのない人は、改めることもしない人が多く、その一点において、既に、神の言葉を受け取る節操を失っています。
 
信仰という、悪用されやすい曖昧さを言葉上内包しているテーマについては、「と思う」に過ぎない、という自覚は大切です。
 
キリスト信仰において強調されるところの、悔い改めの姿勢は、修正可能、つまり、成長可能を節操としているといっても過言ではないでしょう。
 
どう考えても、どう悩んでも、人間の信仰については、こうとしか言いようがない、という確認が出来るあいだ、強く言えることはあるでしょう。
 
他に可能性がないかどうかの確認は、最重要になります。それは、結論だけを繰り返す者たちに対して、根拠を保ちうる唯一の手段とも言える信仰の思慮分別だからです。
 
信仰そのものが、人間としては、こうとしか信じようがない、という納得で出来ているようなものです。何でもかんでも大丈夫ではないのです。天恵は同時に試練であり、試みられることは同時に恵まれることでもあるのでしょう。
 
信仰に固く立つといっても、鉱物の硬さではなく、一時的に凹むこともある弱さでありながら、そこから立ち直る忍耐強さに支えられた弾性の堅固さなのだろうと思います。それゆえに、揺さぶられる弱さが、結果として誇り高い気高さを表すこともあるのでしょう。
 
 
(2018年02月09日)
 
類(たぐい)
曖昧(あいまい)
 
 
 
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閉じる コメント(2)

「と思う」とか「ということです」とかは、説得力に欠けますね。
私は、champさんのブログをよく読んでいるのですが、champさんもよくこういう言い方をします。
読者を啓蒙したいというのであれば、反発があることは承知の上で明確に「です」と断定すべきですね。

× 当事者となった職員は深く反省すべきであり、制裁を受ける必要があるかもしれません。
〇 当事者となった職員は深く反省すべきであり、制裁を受ける必要があります。

連載『地域包括ケアを担う 施設ケアマネ&相談員』 〜虐待防止マニュアル〜
https://blogs.yahoo.co.jp/takao_mizuno1961/56076710.html

2018/2/9(金) 午後 0:03 zih*s*uppan* 返信する

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神の関わる信仰についてですから、はっきり言えることといえないことはあると思います。はっきり「です」「である」と言えるほど、私は、いつも確信は持てないです。信仰については、反発があるか無いかより本質的に自信を持てないところがあるということでしょう。

2018/2/9(金) 午後 0:39 [ st5402jp ] 返信する

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